【完結】第43話 一緒に間違える(後)
昼食の券売機の前で、僕は十秒迷った。以前より短い。
カレー。きつねうどん。
週替わりの白身魚定食。玲奈は隣に立っているが、二択を出さない。
後ろには誰も並んでいない。急ぐ理由もない。
僕は白身魚定食のボタンを押した。
「カレーではないのですね」
「今日は、魚が食べたいと思いました」
「根拠は」
「食べたいからです」
言葉にすると、まだ少し落ち着かない。食券を取る。
「三か月前の質問へ、まだ正式な回答をもらっていません」
玲奈が言う。新規約を一緒に作るか。
翌日、僕は暫定的な「はい」を返した。監査が終わるまで、という期限付きだった。
今日は、その期限を外す日だ。
「学園へ残ります」
玲奈の指が、自分の食券を取る前に止まる。
「母の研究を継ぐためではありません」
「はい」
「あなたについていくためでもありません」
玲奈の眉が、ほんの少し動いた。
「そこは、言い切らなくてもよいのでは?」
「正確にしておきたいので」
「続けてください」
「拒否できる質問制度を作りたいから、学園へ残ります。問われない権利が、例外ではなく普通に使えるところまで見届けたい」
僕は自分の食券を見る。
「僕が、そうしたいです」
玲奈は券売機へ硬貨を入れた。
「私が理由ではないのですね」
苺プリン付きの定食ボタンを押す。
「理由の一つです」
「先ほどと矛盾します」
「あなたについていくことが目的ではない。あなたと一緒に作りたいことは、理由に入っています」
玲奈は食券を取る。
「及第点です」
「満点ではないのですか」
「私を理由の一つに含めるまで、回答が長すぎました」
「慎重に定義しただけです」
「恋愛に関する回答へ注釈を付ける人は、たぶんあなただけです」
「恋愛と決めたのは玲奈です」
言ってから、食堂の音が遠くなる。玲奈も食券を見たまま止まった。
「今の発言は、撤回しますか」
「しません」
自分の顔が熱い。玲奈は一度だけ咳払いした。
「では、記録しておきます」
「どこへ」
「私の記憶へです」
「判定が厳しいですね」
「三か月待ちましたから」
僕たちは定食を受け取り、同じテーブルへ向かった。窓際の席へ座る。
僕は白身魚へ箸を入れ、玲奈は苺プリンを最後まで残す。
「共同作成の回答も、今の中に含まれていますか」
「含まれています」
「明確にしてください」
玲奈は、自分が質問する側になると容赦がない。僕は箸を置く。
「新しい規約を、あなたと作り続けます」
「期限は」
「卒業まで、では短いです」
玲奈のスプーンが止まる。
「制度が必要とされる間。僕が自分の意思で続けたいと思う間。もし変わったら、その時に伝えます」
「不確定ですね」
「未来なので」
「以前のあなたなら、嫌った答えです」
「今も少し嫌です」
「それでも?」
「それでも選びます」
玲奈は苺プリンを一口食べた。
「受理します」
契約書も判定音もない。それでも、三か月持ち続けた問いへ、僕は自分の期限で答えた。
* * *
放課後、講堂裏の通路に、あのカプセルトイが残っていた。機械の透明な箱には、猫の景品がまだ並んでいる。
金色。白。
黒。灰色。
「前回は、金色を狙っていましたね」
僕が言う。
「記憶違いです」
「制服の後ろへ灰色猫を隠したことも?」
「詳細な記録を保持しすぎです」
玲奈は硬貨を入れる。取っ手を回す。
カプセルが落ちた。開ける。
灰色の猫。前回と同じ、少し不機嫌そうな顔だ。
玲奈は周囲を確認しない。制服の後ろへも隠さない。
掌へ乗せ、正面から見る。
「狙いとは違いました」
「外れですか」
玲奈は首を横へ振る。
「でも、嫌いではありません」
灰色猫を鞄の外ポケットへ付ける。見える場所だ。
「相馬くんも回してください」
「何色が欲しいか、決めていません」
「決めずに回しても構いません」
僕は硬貨を入れた。取っ手が、途中で少し引っかかる。
落ちたカプセルを開く。白い猫。
ただし、片方の目が少し上へずれ、尻尾の塗装が途中で切れている。玲奈が五秒ほど黙った。
「笑っていいですよ」
「許可を求めていません」
そう言いながら、彼女は笑った。声を立てない小さな笑いだった。
僕も笑う。完璧ではない景品を、交換しようとは思わなかった。
「その白い猫へ、名前を付けますか」
「識別番号で十分です」
「蓮くんと同じ答えです」
「では、考えます」
片目のずれた白い猫を見る。
「まだ決めません」
「保留ですね」
「本人の意思による保留です」
玲奈が笑う。僕たちは、以前なら失敗と呼んだものを、急いで別の名前へ直さなくなった。
通路の先には、旧王冠戦の優勝者一覧がある。玲奈の名前の下へ、新しい説明板が付いていた。
〈一度限りの監査請求権を行使。競技規約全面改定〉 父を倒した、とも。
学園を救った、とも書かれていない。玲奈は説明板を一度だけ読み、歩き出す。
「物足りませんか」
「いいえ」
「もっと劇的な文章にもできました」
「結果だけで十分です」
玲奈は灰色猫を揺らす。
「その結果を、これからどう使うかは、まだ決まっていませんから」
* * *
校舎を出る前、玲奈が足を止めた。夕日の中で、鞄の灰色猫が揺れる。
「相馬零司」
「はい」
「一問だけ、質問してもよいですか」
判定卓はない。端末もない。
賭け金もない。拒否しても、不利益はない。
「どうぞ」
玲奈は、少しだけ息を吸った。平常時なら、断定する人だ。
動揺すると、質問の途中で言葉が止まる。今日は止めなかった。
それでも、強く握った鞄の持ち手だけが、平静ではないことを教える。
「拒否しても、不利益はありません」
玲奈が先に言った。
「新規約の確認ですか」
「自分へ言っています」
断られても、相手の選択を罰しない。問いを向ける側も、その怖さを引き受ける。
玲奈は、灰色猫へ一度触れてから顔を上げた。
「あなたは、私と一緒に間違えてくれる?」
頭の中で、答えの予測が始まる。玲奈が望む答え。
ここまでの関係。拒否した場合の損失。
「はい」を選んだ時に得られる未来。
全部、止める。僕自身へ聞く。
間違えるのは怖いか。
「怖いです」
玲奈は急かさない。答えを訂正しない。
「なら、いいえですね」とも言わない。
僕が続きを選ぶのを待つ。怖い。
彼女を傷つけるかもしれない。制度を間違えるかもしれない。
いつか別の道を選ぶかもしれない。それでも。
玲奈との最初の私的対局を思い出す。
――あなたは、自分でこの学園へ来ると決めましたか。
あの時の僕は、玲奈が欲しい「はい」を返した。口にした瞬間、自分でも嘘だと分かった。
今も、同じ二文字を返そうとしている。違うのは、怖さを消していないことだ。
相手の期待から逆算していないことだ。この答えの結果を、誰かへ預けないことだ。
今度は、相手が望む答えではない。
「それでも、はい」
玲奈は、判定卓の代わりに僕の顔を見た。
「真実」
「装置がありません」
「私が宣言したかっただけです」
「外れている可能性は」
「あります」
玲奈は灰色猫へ触れる。
「間違えていたら、その時に考えます」
「では」
僕は、微妙に塗装のずれた白い猫を握る。
「間違えたら、その時はまた一緒に考えてください」
「それは質問ではなく、約束ですね」
「はい」
放課後の校内放送が、下校時刻を告げる。判定音は鳴らない。
玲奈が笑う。僕も笑った。
(完)




