第42話 一緒に間違える(前)
三か月後。新しい《クエスチョン》の第一試合は、質問が拒否されて終わった。
「質問を登録します」
中央講堂の判定卓は、以前と同じ黒色だ。ただし、巨大表示の最上段に新しい一文がある。
〈回答者は、質問を拒否できます。拒否による不利益はありません〉 賭け金は、権利でも奨学金でもない。
勝者が敗者へ勧める本、一冊。質問者の一年生が、緊張した声で問う。
「あなたは、入学してから一度でも、この学園を辞めたいと思いましたか」
回答者は、しばらく表示を見ていた。以前なら、三十秒以内に「はい」か「いいえ」を選ばなければ失格だった。
新しい表示には、三つ目の選択肢がある。回答する。
拒否する。意味の再登録を求める。
回答者は、拒否を押した。
「答えたくありません」
講堂が静まる。誰も、次に何が起きるか分からない。
独立審判が端末を確認した。
「拒否を受理します」
判定卓はTRUEもLIEも表示しない。勝敗なし。
Q移動なし。推薦評価への影響なし。
質問者は悔しそうに唇を噛んだ。彼が用意していた本は、卒業生の冒険記だった。
退学を考えたことがある相手なら、この本を勧めれば励ませると思っていたらしい。善意だった。
善意でも、答えを要求する権利にはならない。質問者は、自分の本を抱え直す。
それでも、相手へ頭を下げる。
「分かりました。別の時に、別の聞き方を考えます」
回答者は少し考えた。
「その本は、質問に答えなくても借りられますか」
「え」
「気にはなっています」
質問者は、抱えていた本を差し出した。
「もちろん」
勝者も敗者もいない。それでも、本は一冊、人から人へ渡った。
最初の拍手は、後方席から一つだけ鳴った。すぐには続かない。
二つ。三つ。
やがて講堂全体へ広がった。派手な逆転はない。
巨大表示へ赤いLIEも出ない。それでも、僕は記録係席で拳を握った。
負けなかった人間ではない。答えなくても居場所を失わなかった人間が、初めて一人できた。
試合後、制度評価端末へ二つの意見が届く。〈拒否された質問者への心理支援も必要〉
〈拒否理由を提出させないと、制度改善へ使えないのではないか〉 僕は二つ目へ、反射的に賛成しかけた。
理由を集めれば、どんな質問が拒否されやすいか分析できる。制度を改善できる。
蓮が横から画面を見る。
「拒否理由の提出を義務化すると、理由を答えるために質問内容へ触れます」
「拒否の説明が、新しい回答になる」
「はい」
僕は提案を取り下げる。初戦から、僕の条文には穴が見つかった。
それでいい、とはまだ簡単に思えない。悔しい。
でも、穴を隠すために相手の理由を回収するより、見つかった穴を記録する。評価端末へ、〈拒否理由は任意。無回答を不利益評価しない〉と追記した。
* * *
「まずい」
凛が、青緑色の飲み物を一口飲んで言った。中庭のベンチ。
新作の〈海塩メロンミルク〉は、見た目だけなら爽やかだった。
「自分で選んだんだろう」
神代が、ブラックコーヒーへ砂糖を三本入れる。もう袋を机の下で隠さない。
「自分で選んだものは、おいしく感じるって聞いたの」
「誰に」
「広告に」
「最も疑うべき情報源だ」
凛はもう一口飲み、やはり顔をしかめた。
「でも、飲み切る」
「捨ててもいいんだぞ」
「それも私が決める」
言った後、自分で笑った。以前なら、選択を一つするたび、正しかったと証明しようとしただろう。
今は、外したことまで自分のものにしている。
「助けてください!」
芝生の向こうから蓮の声がした。生物部の白いウサギが、彼の記録用紙を咥えて走っている。
「進行方向の予測は?」
僕が聞く。
「直前八回の回避方向から、右へ七二%でした」
ウサギは左へ曲がった。
「外れましたね」
「生物個体の予測モデルは学習中です!」
「どうして生物部に入ったのですか」
玲奈が聞く。蓮はウサギを追いながら答える。
「予測どおりに動かないものを、嫌いじゃないか確かめたかったんです!」
紙が一枚、芝生へ散る。凛が笑い、神代はため息をつきながら拾いに行く。
生物部の顧問が、ウサギを捕まえて蓮へ返す。
「名前を付けますか」
顧問が聞く。蓮は十秒迷った。
「個体識別番号で十分です」
ウサギが彼の袖を噛む。
「……仮称を考えます」
凛がまた笑った。玲奈の端末には、来年度の推薦候補が三つ並んでいた。
財団研究部。中央大学政策学部。
海外統計研究院。どれも保留のまま。
代わりに、来学期の選択授業へ〈現代文学演習〉が登録されている。
「進路に有利ですか」
僕が聞く。
「分かりません」
「では、なぜ」
「答えが一つに決まらない文章を、読んでみたくなりました」
玲奈は平然と言った。
「あと、課題図書の表紙に灰色の猫がいました」
「後半が本音ですね」
「両方です」
公の場では崩さない女王が、仲間しかいない中庭でだけ、少し口元を緩めた。
「ところで、相馬くん」
凛が青緑色の飲み物を持ったまま僕へ寄る。
「規約共同作成の正式回答、したの?」
「暫定回答はしました」
「期限付きの『はい』だよね」
「監査終了までという条件でした」
「今日で監査の第一段階は終了です」
蓮が正確に補足する。神代が砂糖の袋を折りながら言う。
「質問から三か月逃げたとも言える」
「回答期限は自分で設定しました」
「言い方だけは成長したな」
玲奈は会話へ入らず、灰色猫の付いた鞄を閉じる。急かさない。
それが余計に、答えを自分で持つしかないと分からせる。




