第41話 答えは、あなたのもの(後)
母の最終音声は、火災当日のものではなかった。もっと古い。
僕が八歳の時、《ミラー》の医療支援試験へ参加した日の記録だ。保全室には、玲奈だけがいる。
「一人で聞きますか」
彼女が尋ねた。以前なら、母の記録は僕だけで受け止めるべきだと考えただろう。
あるいは、玲奈が一緒にいたいかを先に読む。
「いてください」
自分で言った。玲奈は何も褒めず、隣の椅子へ座る。
再生する。雑音の向こうで、若い母の声がした。
『零司。今日は答えられなかったね』
子どもの僕が、遠くで鼻をすする。
『ごめんなさい』
『謝らなくていい。答えられない時に、誰かが代わりの答えを入れたら、それはあなたの答えじゃなくなる』
紙をめくる音。
『いつか答えたくなったら答えればいい。答えたくないなら、そう言っていい』
母が少し笑う。
『答えは、あなたのものだから』
音声は、そこで終わった。正解は入っていなかった。
僕がどう生きればいいか。母の研究を継ぐべきか。
宗一郎を許すべきか。玲奈の隣にいるべきか。
何一つ、残していない。
「勝手だ」
声が出た。端末を握る手に力が入る。
「僕が選べると信じるなら、帰ってきて教えてよ」
端末を壁へ投げそうになる。腕を振り上げる。
壊せない。代わりに、机を殴った。
鈍い音がした。もう一度。
拳の骨が痛む。
「答えは僕のものだって言って、全部僕に残して、死んで」
喉が詰まる。
「僕は、ずっと答えられなかったのに」
玲奈は「お母様はあなたを信じていた」と言わなかった。
「泣いていい」とも言わない。
僕の拳と机の間へ、ハンカチを滑り込ませた。
「机が壊れます」
「心配する順番が違いませんか」
「あなたの手は、私が心配しなくても痛むでしょう」
ひどい理屈だった。笑うつもりはなかった。
息が抜けて、涙も一緒に落ちた。玲奈は見ないふりをしなかった。
慰めるふりもしなかった。ただ隣に座っている。
母が正解を残さなかった理由は、分からない。僕を信じたかったのかもしれない。
時間がなかっただけかもしれない。研究者として、答えを誘導したくなかったのかもしれない。
どれか一つに決めない。
「僕が選べると、信じたかったんだと思います」
僕は言った。
「本当に?」
「分かりません」
「そうですか」
玲奈は、それで足りるように頷いた。
* * *
拳の腫れが引くまで、玲奈は保全室を出なかった。翌朝、机には僕が殴った跡が薄く残っていた。
修理申請の理由欄へ、僕は〈感情的な衝撃による破損〉と書く。〈設備不良〉へ変えれば弁償を避けられると管理員に言われたが、そのまま提出した。
「正直ですね」
玲奈が言う。
「嘘を扱う記録係なので」
「今さらですか」
「今だからです」
机の修理費は、僕の来月の生活Qから差し引かれた。自由に感情を出した結果は、消えない。
それでも、あの二回をなかったことにしたいとは思わなかった。新しい《クエスチョン》規約の草案は、五人で作った。
凛が最初に提案した。
「被害者データは、本人の同意なしに使わない。あと、同意した後でも撤回できるようにしたい」
「撤回後の学習済みモデルはどうする」
神代が聞く。
「完全削除が技術的に難しいなら、利用停止と影響範囲の説明を義務にする」
凛は自分の言葉を濁さない。神代は、独立監査を常設条項へした。
「運営者と監査者を同じ理事会が任命する仕組みは残せない。生徒側、保護者側、外部専門家の三者から選ぶ」
蓮は、予測表示の非強制化を提案する。
「回答確率を見せられると、それ自体が回答へ影響します。表示を使う対局では、回答者の事前同意が必要です。途中で非表示へ変更できるべきです」
「予測を消すの?」
凛が聞く。
「いいえ。見ないことを選べるようにします」
玲奈は、草案の一番上へ新しい条文を置いた。第一条。
回答者は、質問を拒否できる。拒否したことを理由として、Q、奨学、寮、推薦、評価その他の不利益を受けない。
「競技にならないという反対が出ます」
僕が言う。
「出るでしょう」
「回答拒否が増えれば、対局数も減ります」
「減ってはいけませんか」
玲奈が聞き返す。僕は考える。
「いいえ」
質問する権利だけを守る制度は、質問者の制度だ。問われない権利。
答えを保留する権利。あとから認識が変わったと記録できる権利。
勝敗後も生活を失わない賭け金上限。規約の余白へ、僕は書き足していく。
条文は、すぐに矛盾した。回答拒否を無制限に認めれば、競技として成立しない。
拒否回数を制限すれば、三回目以降は実質的な強制になる。賭け金を本一冊まで下げれば、生活を懸けて訴えたい被害者が制度を使えない。
高額のQを認めれば、また弱い立場の人間が答えを売る。
「完全な制度は作れません」
蓮が言う。
「予測精度、ではなく欠陥発生率の話です。どの条文にも、悪用経路があります」
「なら、運営者へ裁量を残すしかない」
神代が言い、すぐに顔をしかめる。
「その裁量を集中させた結果が、今までの学園か」
「一度決めて終わりにしないのはどうかな」
凛が草案へ追記する。
「三か月ごとに、拒否した人、答えた人、質問した人から評価を集める。間違いが見つかったら直す」
「規約が間違うことを、前提にするのですか」
玲奈が聞く。
「人が作るからね」
凛は笑った。僕は、附則へ見直し条項を書く。
翌日の公開意見会では、最初の質問から草案が揺れた。
「拒否を認めたら、加害者が都合の悪い質問から逃げるだけではないですか」
発言したのは、奨学金を脅し取られていた寮生だった。最初の共闘で、玲奈が僕の質問案を捨てて守った生徒だ。
「私は、相手に事実を認めさせるために《クエスチョン》を使いました。拒否されたら、お金を取り返せなかったかもしれない」
もっともな反論だった。僕は、草案の第一条を見直す。
拒否を無条件に守れば、被害を訴える側の手段を減らす。例外を作れば、その例外がまた強制に変わる。
玲奈は発言台へ立った。
「あなたの被害を認定する手段を、一問勝負だけにしたことが間違いでした」
寮生が眉を寄せる。
「では、どうやって」
「送金記録、契約、証人、生活相談記録を調査します。相手が質問を拒否しても、客観的証拠による手続は止まりません」
「本人に認めさせなくても?」
「はい。被害の救済を、加害者がどの答えを選ぶかへ預けません」
僕は、その言葉を草案へ追加する。《クエスチョン》は、司法でも懲戒調査でもない。
人の自己認識を問う競技へ、事実認定まで背負わせたから、答えを拒否できない制度になった。寮生は完全には納得しなかった。
「それでも、私が直接聞きたい時はあります」
「質問することはできます」
玲奈は答える。
「相手が答えないこともできます。どちらの権利も、結果まで保証しません」
会場から、賛成と反対の声が同時に上がる。草案は、その日のうちに七か所書き直された。
以前の僕なら、抜け穴がない文章を作ろうとした。今は、抜け穴ではなく逃げ道を作る。
人が自分を守るために、正当に使える道だ。夜になり、草案の第一版が完成した。
玲奈が端末を閉じる。
「相馬零司」
「はい」
「この規約を、私と作りますか」
問いは、今日だけの作業ではない。学園へ残るか。
母の研究と、どんな距離を取るか。玲奈の隣にいることを、自分の未来へ含めるか。
すぐに「はい」と言えば、彼女が望む答えになる。すぐに「いいえ」と言えば、怖さから逃げる答えになる。
「明日まで、持たせてください」
玲奈は、少しだけ目を丸くした。
「回答期限を自分で決めるのですね」
「はい」
「受理します」
僕は初めて、未来への問いを、誰かへ返さず持ち帰った。寮の机で、紙を二つに分ける。
学園へ残る理由。学園を離れる理由。
残る側には、問われない権利を制度へ根付かせたい、と書く。凛や神代や蓮と、草案の続きを作りたい。
玲奈の隣にいたい。離れる側には、母の研究から距離を置ける、と書く。
宗一郎の作った学園でなくても、自分の制度を考えられる。玲奈が自由になるなら、僕がそばにいない未来も彼女の選択だ。
以前なら、それぞれへ点数を付けた。実現可能性。
社会的利益。失敗確率。
ペンを置く。どちらが正解かではなく、どちらを引き受けたいか。
まだ答えは出ない。それでも紙を破らず、引き出しへしまう。
答えを持たないことと、問いから逃げることは、同じではなかった。




