第40話 答えは、あなたのもの(前)
自由になった生徒が、最初にすることは笑うことではなかった。立ち尽くすことだった。
独立監査開始から三日。
重大な規約違反の予備認定が出た。玲奈が救済買戻しで停止した二十三件は独立基金への移管継続が確定し、監査で新たに確認された強制契約と、研究協力名目の行動制限十四件も暫定停止された。
独立基金への移管継続通知を受け取った一年生は、寮の廊下で段ボール箱を抱えたまま泣いていた。
「出ていっていいと言われても、どこへ行けばいいか分かりません」
これまでの契約では、研究寮に住むことが条件だった。解除されれば一般寮へ移れる。
でも、一般寮の部屋を選ぶ必要がある。同室者を希望するか、一人部屋を申請するか。
研究補助を続けるか、辞めるか。奨学金の代替制度へ申請するか。
昨日まで、選べなかった。今日から、選ばなければならない。
玲奈は箱を持とうとしなかった。
「今、移る必要はありません」
生徒が涙の跡を拭う。
「でも、契約は止まったんですよね」
「止まったのは強制です。今の部屋に残ることまで禁止されていません」
「残っても、いいんですか」
「私には決められません」
玲奈は、はっきり言った。
「ただし、決められるまで三十日間、現在の居室と奨学支援を維持します。その間に相談員を選べます。相談員の提案を断っても、不利益はありません」
生徒はすぐには頷かなかった。
「三十日で決められなかったら」
「延長を申請できます」
「何回まで」
「回数は設けません」
玲奈は少し考え、言い足す。
「決めない状態を続けることにも費用がかかります。その費用を、今まであなたたちのデータで利益を得た運営が負担します」
生徒は、箱を床へ下ろした。笑わない。
でも、肩の力が少し抜けた。同じ廊下で、別の生徒は研究寮へ残ると言った。
「強制が止まったのに?」
友人が驚く。
「研究は好きなんだ。契約のやり方が嫌だっただけで」
残る選択をした彼へ、周囲の視線が集まる。運営へ屈したと見る人もいる。
自由になったなら去るべきだと、別の正解を押しつける人もいる。玲奈は、その生徒の残留申請にも署名した。
「解除されたのは、残ることではなく、残らされることです」
さらに、三年生の女子生徒は、契約解除通知を破りかけた。
「今さら自由だと言われても、推薦は半年後です。ここで研究を辞めたら、積み上げた実績はどうなるんですか」
「消しません」
「運営が認めなかったら」
「監査期間中の評価保全命令を出します」
「それでも不利になったら?」
玲奈はすぐに大丈夫だと言わない。
「補償手続を作ります。完全に同じ状態へ戻せるとは約束できません」
女子生徒は怒った。
「勝ったのに、全部直せないんですか」
「はい」
玲奈は受け止める。
「勝ったことで、壊れた時間までなかったことにはできません」
泣いていた一年生も、残ると決めた生徒も、怒る三年生も、すぐには救われない。自由は、すぐに幸福へ変わらない。
選択肢が増えるほど、怖くなることもある。だから必要なのは、正解を配る人間ではない。
間違えても居場所を失わない時間だ。
* * *
暫定運営会議で、玲奈は三つだけ決めた。一つ。
《ORACLE》の全運用を停止し、外部監査へ原本を渡す。二つ。
被害者データは、本人の明示的な同意なく公開しない。監査に必要な場合も、匿名化と閲覧範囲の限定を行う。三つ。
宗一郎との接触は、調査終了まで第三者立会いの場に限る。
「理事長の処分を求めないのですか」
理事会代理が聞いた。
「求めるかどうかを、今決めません」
「進路については。後継者契約は無効となる見込みです。推薦枠を再選択できます」
「それも保留します」
「王冠戦の勝者が、何も決めないのですか」
玲奈は議事資料を閉じた。
「三つ決めました」
声は女王のものだった。
「それ以上を今日決めないことも、私の決定です」
会議室の空気が止まる。
「議事録には、〈未決定〉ではなく〈本人の意思による保留〉と記載してください」
凛が書記端末へ、そのまま入力する。
「期限は?」
「本人が設定するまで、ありません」
理事会代理は、なお食い下がる。
「期限を置かなければ、運営判断が止まります」
「止めます」
「学園は、多数の生徒の進路を扱っています。意思決定には締切が必要です」
「提出締切と、本人の感情へ答えを出す締切を混同しないでください」
玲奈は議事資料の余白へ、新しい欄を作る。〈現時点で決定できない事項〉
〈保留によって維持される権利〉 〈再確認を本人が希望する時期〉 「運営が必要とするのは、次の手続です。本人が今日、父を許すかではありません」
凛がその三欄を議事録様式へ反映する。神代は、保留中に不利益が発生しないための予算項目を追加した。
玲奈は、自分だけの例外を作らなかった。強制契約を解除された生徒も、父を許すか決められない自分も、同じ条文の中へ置いた。
分からない。以前の玲奈なら、最も避けた言葉だった。
今は、答えを他人へ渡さないための言葉になっている。
* * *
九条宗一郎と会ったのは、監査棟の面談室だった。透明な仕切りはない。
ただ、扉の外に監査員が二人いる。理事長の徽章は外されていた。
宗一郎は、薬ケースだけを持っている。
「玲奈は来ないのか」
「今日は僕への聴取です」
「そうか」
彼は残念だと言わない。必要な手続だと受け入れる顔をする。
「君の母の音声が、もう一つ見つかった」
「監査員から聞きました」
「私宛ではない。君宛だ」
宗一郎は机へ小さな記録端末を置いた。自分で再生しない。
「その前に、一つ聞きたい」
対局ではない。判定卓もない。
それでも僕の頭は、反射的に答えを組み立てる。宗一郎が欲しい答え。
母のノートから推測できる答え。火災前の二人の会話。
美琴が、彼を憎み切れなかった可能性。
「美琴は最後に、私を許したと思うか」
もっともらしい答えなら作れる。母は、人の誤りと人そのものを分けようとした。
宗一郎の研究転用へ反対しながら、共同研究の記録を消さなかった。彼の名前を、最後まで敬称付きで残している。
だから、許した。そう答えれば、宗一郎は少し救われる。
あるいは、許していない。そう答えれば、彼は罪を持ち続ける。
母の死を正当化する研究へ戻れなくなる。どちらも、僕が作った母だ。
「それは僕が決める答えではありません」
宗一郎の瞳が、わずかに揺れる。
「憎んでいた可能性もある」
「あります」
「許そうとしていた可能性も」
「あります」
「君は、どちらが正しいと思う」
「どちらか一つを選べば、母を分かりやすくできます」
僕は机の木目を見る。
「僕は、母を分かりやすい人にしたくありません」
「君は、母の記録を最も多く読んだ」
「だから、母の代わりに答えられるわけではありません」
「では、私は何を基準に考えればいい」
その質問にさえ、正解を与えたくなる。
「分かりません」
僕は言った。
「もう母には聞けません。たぶん、分からないまま考えるしかありません」
「残酷だな」
「はい」
選択を返すことは、優しいだけではない。宗一郎は薬ケースへ視線を落とした。
「私は、答えがあれば耐えられると思っていた」
「答えがなくても耐えられる制度を、これから作ります」
「君が?」
「僕が作りたいです」
宗一郎は、初めて僕を美琴の息子としてではなく見た気がした。彼は端末を僕の側へ押した。
「聞くかどうかも、君が決めろ」
少し遅すぎる言葉だった。それでも、僕は受け取った。




