第35話 分からないままで(後)
隣室の机には、送信端末が一台ある。緊急時だけ、一文を玲奈へ送れる。
送信すれば、面談記録へ永久保存される。壁の向こうから、食器の触れる音が聞こえる。
宗一郎が用意したのは、玲奈が七歳の誕生日に食べた献立だった。白いシチュー。
小さく切った温野菜。アレルゲンを除いた丸いパン。
林檎のコンポート。
「覚えているか」
宗一郎が聞く。
「写真で見ました」
「当日もよく食べた」
「その頃の記憶は曖昧です」
「曖昧でも、身体は覚えている」
宗一郎は、玲奈の皿へシチューをよそう。量は多すぎない。
温度も、猫舌だった幼少期に合わせて低めだ。娘の身体について、間違えない。
「明日の対局を撤回すれば、この生活へ戻れる」
紙が開かれる音。
「学園研究科の推薦は維持する。臨床部門の席も用意した。公邸を出たいなら、敷地内の独立棟を使えばいい」
「敷地内ですね」
「安全管理ができる」
「進路は、全て九条財団の中」
「お前の能力を最も生かせる」
「友人は」
「望む者と会えばいい。安全確認は必要だが、制限ではない」
「相馬くんは」
一拍。
「彼は質問制度の研究員として雇える」
僕の指が、送信端末の上で止まる。宗一郎は、僕との関係まで安全な役割へ変換する。
記録係。研究員。
管理可能な同僚。玲奈が何を望むかではなく、失わずに済む配置を出す。
「お父様」
「何だ」
「私が、どこへ行きたいかは聞かないのですか」
「候補は十分に示した」
「その中からではなく」
「候補にない人生は、リスクを評価できない」
「評価できないものは、選んではいけない?」
「選ぶ必要がない」
食器の音が止まる。僕は端末へ一文を入力した。
『候補にない人生を排除した理由を、本人の音声記録と結びつけて確認してください』
勝負に有利な質問。第三証拠を父自身に再確認させられる。
送信ボタンは押さない。玲奈が、今、何を言いたいかは分からない。
僕の質問を置けば、彼女はそれを使う可能性が高い。正しいから。
勝つために必要だから。それでは、宗一郎が候補を置くことと近い。
壁の向こうで、玲奈がスプーンを皿へ戻した。
「私から離れた後、何を望むか知っているか」
宗一郎の声。玲奈はすぐ答えなかった。
対局ではない。三十秒の制限もない。
「いいえ」
やがて言う。
「分かりません」ではなく、まず質問へ答えた。
宗一郎の声が少し柔らかくなる。
「ならば、私が必要だ」
その論理は、優しい。分からない娘の代わりに、父が安全な答えを用意する。
間違えず、傷つかず、戻れるようにする。玲奈の皿の上で、スプーンが動かない。
「分からないなら、決められない。決められないなら、経験のある者が整えるべきだ」
送信端末の文面が光っている。僕は全て消した。
何も送らない。玲奈の沈黙が続く。
五秒。十秒。
宗一郎は待つ。答えを急かさない父親のようにも見える。
娘が、自分の用意した結論へ到達するのを待つ研究者のようにも聞こえる。十五秒。
玲奈が息を吸う。
「分かりません」
僕は、隣室で目を閉じなかった。
「何を望むかも、どこへ行くかも、今は分かりません」
宗一郎が何か言いかける。玲奈が続けた。
「でも、分からないことを、あなたに決めさせません」
食堂の空調音だけが残る。
「不確かなまま進めば、傷つく」
「はい」
「相馬くんも、白鳥さんも、神代くんも守れないかもしれない」
「はい」
「私から離れたことを後悔する」
「そうかもしれません」
「それでもか」
玲奈の返事は、少し震えた。
「それでも、今分からないことを理由に、あなたの答えへ戻りません」
宗一郎は長い説明をしなかった。薬ケースの蓋を閉じる音がした。
「シチューが冷める」
「もう食べません」
「体調に響く」
「後で、自分で何か選びます」
椅子が引かれる。玲奈は、父が用意した安全な夕食を半分残して席を立った。
* * *
廊下へ出てきた玲奈は、僕を見つけると歩みを止めた。
「何も言わなかったのですね」
「はい」
「送信端末があったでしょう」
「ありました」
「第三証拠を確認する質問も、父の論理を崩す言葉も作れた」
「作りました」
玲奈の眉が上がる。
「作ったのに、送らなかった?」
「はい」
「なぜですか」
正しいと思ったから。あなたなら答えられると信じたから。
主体性を守るため。どれも、整いすぎている。
「僕が、言いたくなかったからです」
玲奈の目が細くなる。
「私を見捨てたかった?」
「違います」
「では」
「僕の言葉を、あなたの答えにしたくなかった」
自分を主語にする。
「正しいかどうかは、分かりません。あなたが何も言えなくなる可能性もありました。それでも、僕が割り込みたくなかった」
玲奈は僕の横を通り過ぎる。怒らせたと思った。
三歩先で止まる。
「追ってこないのですか」
「今、考えていました」
「何を」
「一人にしてほしいのかと」
「そうやって、また私へ決めさせる」
「では、僕が行きます」
隣へ並ぶ。玲奈は歩き出した。
「遅いです」
「すみません」
「謝罪も遅いです」
少しだけ、いつもの調子だった。
* * *
公邸を出ると、夜の自動販売機が明るく光っていた。温かい飲み物が上段へ並んでいる。
紅茶。ココア。
柚子茶。コーヒー。
玲奈が立ち止まる。
「食事を残しました」
「見ていませんが、音で分かりました」
「何か飲みます」
「はい」
「相馬くんも選んでください」
また選択肢が並ぶ。玲奈の喉に刺激が少ないもの。
夜の睡眠へ影響しないもの。明日の集中力を落とさないもの。
彼女の分なら、温かい紅茶が最適だ。
「あなたの分です」
思考を読まれた。僕は上段を見る。
ココアは甘い。コーヒーは苦い。
柚子茶は、飲んだことがない。知らない味を選ぶ理由はない。
知らないから選んでもいい。柚子茶のボタンを押した。
缶が落ちる。
「なぜ、それを?」
玲奈が聞く。
「飲んでみたいと思いました」
言った後、自分で驚いた。玲奈は温かい紅茶を買う。
「私が紅茶を選ぶと予測しましたか」
「しました」
「当たりましたね」
「はい」
「それで、私の選択はあなたのものですか」
「いいえ」
今度は、迷わなかった。玲奈が缶を両手で包む。
温かさで指先の色が戻っていく。
「相馬くん」
「はい」
「正解を作らないでください」
言い切った後、彼女は一度視線を落とす。
「……違います」
動揺すると、玲奈は言い直す。
「作らないで、ではありません。あなたは記録係です。考えることをやめられると困ります」
「では、どうすれば」
「私の代わりに決めないでください」
彼女は紅茶の缶を見る。
「一緒に考えてください」
求められたから、はいと答えれば簡単だ。でも、玲奈との最初の私的対局で、僕はそれで嘘をついた。
玲奈が望む答えを探す。その癖を止める。
僕は柚子茶を一口飲んだ。思ったより酸っぱい。
甘さは弱い。好きかどうかは、まだ分からない。
「僕も、そうしたいです」
玲奈が顔を上げる。
「求められたからではなく?」
「僕が、一緒に考えたい」
最後の一問への答えではない。これからする作業を、自分で選んだだけだ。
「では、戻りましょう」
「はい」
「その『はい』は」
「今のところ、真実です」
「今のところ?」
「徹夜になれば、変わる可能性があります」
玲奈は呆れたように息を吐いた。
「最終局前夜に、そこは格好をつける場面です」
「正解を作らないよう言われたので」
「便利に使わないでください」
彼女は先に歩く。僕は、少し酸っぱい柚子茶を持って隣へ並んだ。
* * *
保全室の床へ、質問カードを並べる。規約違反を問うもの。
愛情を問うもの。支配の動機を問うもの。
火災の夜の認識を問うもの。白いカード。
青いカード。棄却理由を書いた灰色のカード。
凛と神代と蓮が戻ってくる。
「多いね」
凛が靴を脱ぎ、床へ座る。
「一問しか使えません」
「だから多いんだろう」
神代も資料を置く。蓮は、僕の選んだ柚子茶を見る。
「購入確率、六・八%でした」
「外れましたね」
「はい。更新します」
「更新しなくていいです」
玲奈が僕の向かいへ座る。僕たちの間に、何十枚もの問いがある。
勝てる質問。勝っても使いたくない質問。
《ミラー》では判定できない質問。父を傷つけるだけの質問。
そして、右端に一枚。まだ何も書かれていない、最終局用の白いカード。
登録期限まで、十二時間。僕はペンを取った。
玲奈は、答えを急かさなかった。




