第36話 白紙の記録係(前)
ペン先をカードへ下ろすまでに、三分かかった。質問を思いつかなかったからではない。
多すぎた。保全室の床を埋めたカードを、僕は四つの群へ分ける。
規約違反を問うもの。愛情を問うもの。
支配の動機を問うもの。火災の夜に自覚した感情を問うもの。
それぞれの右上へ、成立率を書く。左下へ、質問によって失われるものを書く。
最初のカード。
――あなたは、被験者本人の同意なく《ORACLE》を運用しましたか。
成立率、四二%。損失、低い。
宗一郎は「いいえ」と答えられる。学園基本契約の研究協力条項を、包括同意と信じているからだ。
僕たちが規約違反だと判断していても、本人が適法だと認識していれば《ミラー》はTRUEを示す。
「棄却です」
灰色のカードを重ねる。次。
――あなたは、美琴さんを救うことより研究データを優先しましたか。
成立率、六七%。損失、母の死を勝負の道具にする。
宗一郎は、先日の食卓で事実を認めている。だが本人は、データを守ることが将来の犠牲を減らす選択だったと考えている。質問へ「はい」と答えれば真実だ。
僕たちは宣言を当てられる。勝てる。
勝って、何が残る。母が死んだ夜の選択を、五百人の前で一度確認しただけだ。
僕はそのカードも裏返した。
「規約群、残り二枚です」
蓮が端末へ入力する。研究端末を失った彼は、凛の予備機を借りていた。画面の角に貼られた苺のシールを、気にしていないふりで何度も指で避けている。
「二枚とも捨ててください」
凛が言った。
「まだ読んでいません」
「読まなくても、被害者の診療記録を根拠にする案でしょう?」
僕の手が止まる。凛は床へしゃがみ、二枚のカードを指先で引き寄せた。
一枚は、アレルギー投薬履歴。もう一枚は、火災後に玲奈へ実施された心理評価。
「勝てると思う」
「はい」
「だから使えないよ」
凛は柔らかく言った。
「守るために集めた記録を、本人の同意より先に公開したら、運営がしていたことと変わらない」
玲奈は何も言わない。資料机の端で、両手を膝へ置いている。
僕の結論を待つ時の姿勢だ。答えを要求する姿勢ではない。
僕は二枚を棄却群へ移した。次は、愛情。
――あなたは、玲奈を愛していますか。
「真実だ」
神代が、僕より先に言った。ブラックコーヒーの紙カップへ、砂糖を三本入れている。夜中なのに隠す気はなくなったらしい。
「九条宗一郎は『はい』と答える。《ミラー》もTRUEを出す」
「宣言を『真実』にすれば勝てます」
「勝負にはな」
神代は三本目の袋を丁寧に折った。
「だが、その質問で暴けるのは、彼が娘を愛している事実だけだ。支配した事実は消えない。逆に愛していなかったと断定するなら、君たちの方が嘘になる」
「分かっています」
口へ出してから、玲奈の言葉を借りたように聞こえた。僕は言い直す。
「その質問では、僕たちが問いたいことへ届きません」
「それならいい」
神代はコーヒーを飲み、甘すぎたらしく一瞬だけ眉間へ皺を寄せた。愛情群には、ほかにも三枚ある。
――あなたは、玲奈の幸福だけを願っていますか。
――玲奈のためなら、彼女が自分から離れることを認められますか。
――あなたの管理は、玲奈への愛情だけから生まれましたか。
どれも広すぎる。幸福の定義が違う。
未来の仮定は、回答時点の願望と行動を混同する。
「だけ」は、複数の動機を一つへ縮める。
僕は問いを設計できても、人間を一つの理由へ縮めれば負ける。僕は、もう三度それを知っている。
カードを伏せる。
「愛情群、全棄却」
蓮が記録した。残るのは二群。
支配の動機。過去の自覚。
僕は一枚を持ち上げる。
――あなたが玲奈の人生を制限した本当の理由は、彼女を失う恐怖でしたか。
書いた時には、最も強い質問に見えた。今は、穴しか見えない。
「判定不能です」
蓮が言う。
「宗一郎さんの動機は少なくとも三つあります。玲奈さんへの愛情、美琴さんを失った罪悪感、研究を完成させる必要性。本人が一つを『本当の理由』と認識していなければ、問いの命題が成立しません」
「その上、無意識の動機は《ミラー》の範囲外だ」
神代が続ける。
「彼が現在、恐怖を保護責任だと信じ切っていれば、『いいえ』はTRUEになり得る」
僕はカードを見た。勝率と書いた右上の数字へ、一本線を引く。
「棄却します」
残ったのは、最後の群だけだった。玲奈の前にも、三枚のカードがある。
僕が書いたものではない。彼女が、自分で作っては伏せた問いだ。
一枚目の端に、〈愛していましたか〉と見える。二枚目には、〈私を信じていますか〉。
三枚目は、文字がすべて二重線で消されていた。
「読んでも?」
僕が聞くと、玲奈は三枚を重ねた。
「まだ、私の質問ではありません」
「候補を共有すれば、成立条件を確認できます」
「あなたの結論を聞いた後では、私がその結論を選んだのか、借りたのか分からなくなります」
言い返せない。玲奈はカードを胸元へ引き寄せる。
「私も考えます。ですが、先にあなたが考え切ってください」
「僕の答えを待つのですか」
「いいえ」
玲奈は首を横へ振った。
「あなたが、何を手放せないのかを待ちます」
僕より先に、僕の問題へ触れている。それでも彼女は、答えを決めなかった。
火災の夜。本人の言葉。
その時、自分の感情を何と認識していたか。答えを現在の理念へ広げない。
支配全体の動機へ広げない。客観的な恐怖の有無を問わない。
過去の一点へ、針を落とす。白いカードへ書く。
――美琴さんが亡くなった夜、あなたは、玲奈が自分の意思であなたから離れる未来を「怖い」と自分で認めましたか。
文字を一つずつ確認する。対象者、九条宗一郎。
時点、美琴死亡直後の一夜。対象となる未来、玲奈が自分の意思で父から離れること。
判定命題、その時点で本人が感情を「怖い」と認識したか。
「意味登録は可能です」
蓮が言った。
「予測回答は?」
「現行モデルなら『いいえ』が九八%以上です」
凛が息を詰める。
「本人の音声があるのに?」
「音声があるからです」
蓮は画面をこちらへ向けた。
「『はい』と答えれば、私的な喪失恐怖を研究目的へ混入した利益相反を本人が認めることになります。監査請求の根拠が確定する。『いいえ』なら、音声の表現を現在の理念で言い換え、玲奈さんが父親を嘘と宣言できない可能性へ賭けられる」
「答えを当てる装置としては、合理的だな」
神代が言う。
「真実かどうかは別です」
蓮の声は静かだった。彼はその違いのために、研究所属権を失ったばかりだ。




