第32話 予測されても選べる(前)
桐生蓮は、自分の答えが予測されていると知った上で、対局を申し込んだ。予測を外すためではない。
外さなくても、自分で選べると証明するために。
* * *
公開対局の朝。蓮は中央講堂前の自動販売機で、三十四秒止まっていた。
普段なら迷わない。上から三段目、右端。
過去百八十七日、同じ無糖炭酸水。味が好きだからではない。
好みを持たない人間でいるための訓練として、嫌いな飲み物を選び続けていた。今日は、そのボタンを押さない。
視線が左へ移る。水。
無糖紅茶。温かいコーヒー。
青いラムネソーダ。最後の缶には、妙に丸い海鳥の絵が描かれていた。
蓮が青いボタンを押す。缶が落ちた。
「観察していますか」
拾い上げながら、蓮が言う。
「待っていました」
僕は答える。
「十二分前からです」
玲奈が補足した。
「それを観察と言います」
蓮は缶を開けた。一口。
次の瞬間、肩を丸めて咳き込む。炭酸そのものには慣れているはずだ。
甘さが予想より強かったらしい。凛が背中へ手を伸ばしかけ、止める。
「大丈夫?」
「はい。気道閉塞ではありません」
「そこまで心配してないよ」
蓮は缶の成分表を見た。
「予測より、かなり甘いです」
「嫌いですか」
玲奈が尋ねる。蓮はすぐ答えない。
もう一口飲む。今度は咳かなかった。
「好きかどうかを、これから決めます」
年相応の声だった。確率も、学習モデルも出てこない。
「捨てないのですか」
「選んだので」
「選択した物を捨ててはいけない規則はありません」
「ありません。でも、味を知る前に決め直すのは、もったいないと思いました」
蓮は青い缶を持ったまま講堂へ向かう。その背中は震えていない。
まだ。
* * *
中央講堂は、王冠戦の本戦より人が多かった。九条玲奈と桐生蓮の再戦。
理事長との最終局直前。《ORACLE》の設計ログが賭けられる。
学園運営は、対局を非公開へ変更しなかった。宗一郎が許可したからだ。
大型表示板の右側に、研究責任者承認が出ている。
『本対局は回答予測モデルの検証価値が高いと判断する』
どちらが勝っても、データになる。蓮が命令へ従えば、環境による選択固定の証拠。
蓮が命令へ背けば、反抗行動まで予測できる証拠。宗一郎にとって、対局を止める理由がない。
むしろ、公開した方がいい。自由を求める答えさえ《ORACLE》は読めると示せる。
質問者席、九条玲奈。回答者席、桐生蓮。
記録係席へ座ると、僕の学生証が白く点灯した。仮資格。
失効時刻は、最終局終了まで。対局開始後、僕は話せない。
今、渡せるものは一枚のカードだけだ。回答者側の賭け金が表示される。
桐生蓮の研究所属権。所属が失効すれば、専用研究室、個人端末、特別奨学枠、研究寮の居住資格を失う。
七十二時間以内に一般課程へ移り、標準寮の空きを待つ。生活が終わるわけではない。
でも、蓮が十歳から積み上げてきた居場所は消える。質問者側の賭け金。
王冠戦で得た設計ログ閲覧権の請求枠。玲奈が負ければ、その請求枠を失う。
最終局で使える証拠が一つ減る。
「双方、賭け金の処分権を確認しました」
老教授が告げる。
「桐生選手。研究所属権を自ら賭ける意思に変わりはありませんか」
「ありません」
「九条選手」
「異議ありません」
大型表示板に、もう一つの画面が開く。《ORACLE》回答予測。
まだ質問は登録されていない。候補質問群と、蓮の事前指示だけが入力されている。
研究責任者指示。
『研究運用への継続意思を肯定すること』
『回答指定――はい』
命令へ従えば「はい」。それでも《ORACLE》の予測は、違う。
予測回答。いいえ――八七・六%。
講堂がざわめく。
「もう反抗まで読まれている」
「桐生が何をしても、理事長の数字どおりじゃないか」
「自由って、どこにあるんだよ」
蓮は表示を見上げない。机の上へ、青いラムネソーダを置く。
半分以上残っている。僕は、記録係室で作った三枚の候補を思い出す。
一枚目。
――あなたは、九条宗一郎を裏切りたいですか。
捨てた。宗一郎へ反抗したい気持ちと、研究環境を失う恐怖は両立する。
裏切りの定義も広すぎる。蓮自身が何を裏切りと呼ぶかで判定が変わる。
二枚目。
――あなたは、《ORACLE》が人間を理解していると思いますか。
弱い。蓮は回答予測の精度を認めている。
運用を否定しても、技術的理解を肯定できる。三枚目。
――あなたは、命令どおりの答えを選び続けたいですか。
現在だけではない。今後も。
研究責任者が本人の判断より先に指定した「はい」「いいえ」を、自分の回答として選び続けることを望むか。意味を限定する。
「はい」と答えれば、研究所属権を守りやすい。
命令どおりでもある。それが本当に望みならTRUE。
望んでいないのに居場所を守るため選べばLIE。
「いいえ」と答えれば、研究所属権を失う。
設計ログが僕たちへ渡る。反抗を演じたいだけならLIE。
怖さごと命令を拒みたいならTRUE。どちらもあり得る。
手掛かりは、質問前に出ている。一つ。
蓮は、予測が完全に当たった対局より、外れた対局だけを私的に保存していた。二つ。
嫌いな無糖炭酸水を百八十七日選び続け、今日初めて別の飲み物を自分で選んだ。三つ。
宗一郎の回答指示を削除せず、端末上で閉じた。命令があった事実は消さない。
でも、答える瞬間に見ない。別解もある。
今日の飲み物も、反抗を信じさせる演出かもしれない。設計ログは偽物で、対局ごと宗一郎の罠かもしれない。
蓮が欲しいのは自由ではなく、自由を選べる怪物だと僕たちに認められることかもしれない。人間像を一つへ縮めれば、また負ける。
僕はカードへ、質問と宣言方針だけを書いた。
『回答内容で決めない。命令の保存、賭け金の自発署名、質問前の選択を合わせて判断』
玲奈はカードを読む。
「勝率は」
「出していません」
「作れないのですか」
「作れます」
「では、なぜ」
「数字を見せれば、あなたが数字を判断材料にします」
「記録係の仕事です」
「僕の数字が、桐生くんの答えより強くなるのが嫌です」
玲奈は、カードから目を上げる。しばらく僕を見てから、透明ケースへ入れた。
「採用します」
「僕の理由も含めて?」
「質問だけです」
少し安心した。赤い沈黙灯が点く。
僕は、もう話せない。




