第31話 仕組まれた出会い(後)
最初に鳴ったのは、凛の端末だった。着信名を見た瞬間、彼女の表情が崩れる。
「お母さん」
監査室から出ようとして、足を止める。
「ここで出ても?」
「あなたの通話です」
玲奈が答えた。凛は受信する。
「もしもし」
向こうの声は聞こえない。凛の返事だけが、少しずつ短くなる。
「うん」
「本当に?」
「返さなくていいの?」
最後に、彼女は机へ額をつけた。
「よかった」
小さな声だった。泣いているのか、笑っているのか分からない。
たぶん、両方だ。他の契約にも通知が届く。
廊下の向こうで、誰かが大きく息を吐く。別の部屋では、寮を変えられるようになった生徒が、どこへ行けばいいか分からないと相談員へ聞いている。
自由になった瞬間、全員が笑うわけではない。選ばなくてよかった人が、急に選ばなければならなくなる。
それでも、選択肢が戻った事実は消えない。監査室の扉が、遠慮がちに叩かれた。
一年生の女子生徒が、生活支援課の職員と立っている。二十三件のうち、研究補助契約を結ばされていた生徒だった。
彼女の母親の治療費は継続される。夜間の生体記録提供と、指定対局への参加義務だけが停止された。
「九条先輩」
女子生徒は両手で端末を持っていた。
「私は、研究補助を辞めた方がいいんでしょうか」
玲奈の口が開く。研究を嫌っていたなら辞めればいい。
設備を使いたいなら、本人同意の契約へ結び直せばいい。安全な答えはいくつもある。
玲奈は、どれも言わなかった。
「あなたは、続けたいですか」
「分かりません」
女子生徒は怯えたように答える。以前なら、回答を持たないこと自体が契約違反になった。
玲奈は生活支援課の職員へ向き直る。
「移管期間の三十日は、結論を求めないでください。研究室へ残る権利と、離れる権利を同時に保全してください」
「九条先輩は、どちらが正しいと思いますか」
女子生徒が重ねて尋ねる。玲奈は一度、僕の方を見かけてやめた。
「私には決められません」
声は硬かった。
「でも、今日決めなくていい状態を作ることはできます」
職員が手続を追加する。女子生徒は、安心したようには見えなかった。
ただ、誰かの命令なしに部屋を出ていった。選択肢が戻るとは、すぐ答えられるようになることではない。
答えを持たない時間まで、自分へ戻ることだった。壁面へ新しい通知が割り込んだ。
《ORACLE》運用記録。登録質問。
『九条玲奈は、保有Qを相馬零司の資格復帰へ使用するか』
予測回答。いいえ、八一・三%。
発信者は、九条宗一郎。
「予測されていました」
玲奈が言う。緑へ変わった二十三枚の契約を見ながら。
「父は、私が彼らを選ぶと知っていた」
「八一・三%です」
「高いです」
「はい」
「では、この選択も父のものですか」
僕はすぐ答えなかった。正解を作らない。
でも、隣で見た事実は言える。
「二十三件の条項を止めたのは、予測値ではありません」
玲奈の視線が、緑へ変わった契約一覧から僕へ移る。
「あなたが署名して、Qを失ったから止まりました」
「予測されていても?」
「予測した人は、代償を払いません」
僕の資格停止画面を指す。
「あなたは払いました」
玲奈の視線が、僕の画面へ移る。
「あなたも」
「はい」
「怒っていますか」
「少し」
「私に?」
「自分にです。選んでほしいと思っていたので」
言った後、逃げたくなった。玲奈は何も返さない。
僕の言葉を、すぐ慰めへ変えなかった。代わりに、灰色の猫が入った僕のポケットを一度だけ見る。
「では、自分で取り戻してください」
「そのつもりです」
* * *
資格停止への異議申立ては、同日午後に受理された。審査室には、独立審査員が三人いた。
王冠戦運営から一人。学外倫理委員会から一人。
生徒代表として神代。玲奈は同席しない。
僕が自分の理由を言う場だからだ。机の中央に、停止理由が表示される。
『無許可の研究記録閲覧』
「閲覧した事実を認めますか」
「認めます」
「緊急性を主張しますか」
「火災証拠の消失可能性がありました」
「九条玲奈の指示に従った?」
「違います。僕が座標を特定し、僕が開きました」
責任を分ければ、資格復帰には有利かもしれない。玲奈が命じたことにすれば、王冠戦選手の調査権へ乗せられる。
母の遺族として正当アクセスを主張することもできる。どちらも、一部は事実だ。
でも、僕が選んだ部分を消す。
「資格を回復したい理由を述べてください」
準備した答えは三つあった。最終局で九条玲奈を支援するため。
母の研究を正しく継承するため。学園の不正を明らかにするため。
どれも通りやすい。どれも、僕自身の理由としては足りない。
審査員が待つ。沈黙は対局なら敗北だ。
ここでは、まだ考える時間がある。
「僕は、質問を拒否しても居場所を失わない制度を作りたいです」
言葉が、自分の口から出た後で重くなる。
「《クエスチョン》を廃止したいのですか」
「分かりません。質問で、自分の認識を言葉にできる人もいます。母は、そのために《ミラー》を作りました」
「では何を変える」
「問われない権利を、回答と同じ重さで登録したい。拒否した人が、奨学金や寮や交友を失わない仕組みにしたいです」
「なぜ、あなたが記録係である必要がある?」
神代の質問だった。厳しい声。
僕へ通りやすい答えを渡さないための声だ。
「質問を作る側が、質問を作らない選択も責任として引き受ける必要があるからです」
「美琴氏の息子だからか」
「違います」
「九条玲奈に必要とされているからか」
喉が詰まる。必要とされたい。
でも、それだけにすれば、彼女が自由になった後の僕は消える。
「違います」
今度は、さっきより遅かった。
「僕が、その制度を作りたいからです」
審査員の一人が端末へ何かを記録する。
「違反を認めながら、資格維持を求めるのですね」
「はい」
「再発防止は」
「証拠消失の緊急時でも、独立保全員を一名以上経由する。僕だけの判断で閲覧しません」
「資格を戻せば、最終局へ参加する?」
「参加します」
「九条玲奈のために?」
また、答えやすい道が置かれる。僕は首を横へ振った。
「僕が、参加したいからです」
神代が目を伏せた。それが肯定かどうかは読まない。
審査結果は、十分後に出た。資格停止は解除しない。
ただし、証拠消失の緊急性、独立保全庫への即時移管、再発防止条件を考慮し、最終局終了までの仮資格を認める。白い識別線が、僕の学生証へ戻った。
以前と同じ表示。理由は違う。
母の息子だからでもない。玲奈がQで買い戻したからでもない。
僕が望み、僕が異議を申し立て、条件を引き受けた結果だった。
* * *
審査室を出ると、玲奈が廊下の窓際に立っていた。
「同席しないのでは」
「中へ入らないと決めただけです」
「待つ必要はありませんでした」
「必要かどうかは、私が決めます」
学生証の白い線を確認する。
「戻りましたね」
「仮資格です」
「戻ったことに変わりはありません」
彼女は一度、窓の外を見る。それから、僕へ向き直った。
「ありがとう」
何に対する言葉か、候補が並ぶ。二十三件を選んだことを責めなかったこと。
予測と選択を分けたこと。自分で資格を取り戻したこと。
隣へ戻ったこと。最適な返答を探す。
「……どういたしまして」
三秒遅れた。玲奈の口元がほどける。
「遅いです」
「範囲が広かったので」
「ありがとうに範囲はありません」
「あります」
「では、何への礼だと思いましたか」
また答えに困る。玲奈は小さく笑った。
「その顔が見られたので、もう十分です」
「どういう顔ですか」
「自分で考えてください」
言い返せない。でも、今度の沈黙は苦しくなかった。
僕たちの出会いは、宗一郎が置いた。玲奈へ僕の資料を見せた。
対局できる日程を作った。僕が学園へ来る入口を開いた。
そこまでは、父の計画だ。けれど、玲奈が僕の質問案を捨てたこと。
凛を自分の問いで救ったこと。僕と再契約したこと。
二十三件を選んだこと。計画書には、結果の確率しかない。
誰も、その代償を代わりに払っていない。予測された選択でも、引き受けた人間のものだ。
その考えを確かめるように、端末が震えた。対局申請。
申請者、桐生蓮。賭け金。
《ORACLE》設計ログ閲覧権。桐生蓮の研究所属権。
本文は一行だけだった。
『僕の答えを、僕に選ばせてください』




