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第29話 外れではない(後)

 玲奈は旧講堂裏の石段に座っていた。屋根の端から落ちる雨が、細い幕になっている。


 風が吹くたび、屋根の下まで冷たい粒が入り込む。玲奈の髪は濡れていた。


 普段なら一本も乱れない黒髪が、頬と肩へ不規則に貼りついている。傘を差さずに歩いたらしい。


 僕は自分の傘を閉じ、石段の下へ置いた。


「使わないのですか」

「一人だけ乾いていると、話しにくいので」

「非合理です」

「知っています」


 隣へ座る。近すぎるかもしれない。


 離れすぎているかもしれない。今日は聞かなかった。


 玲奈も直さなかった。雨が石畳を叩く音だけが続く。


「相馬くん」

「はい」

「父が用意した資料を見て、私はあなたを選びました」

「はい」

「父が空けた日程で、あなたと対局しました」

「はい」

「父は、私があなたに負ければ関心を持つと予測していた」

「はい」


 返事をするたび、確認ではなく傷口へ印を付けている気がした。玲奈の手が、膝の上で握られる。


「では、私があなたを選んだことも」


 声が止まった。雨音が、その先を埋めない。


「あなたを……好きになったことも、予測の中ですか」


 命令形ではなかった。断定でもない。


 最後の言葉だけが、雨より小さかった。胸の奥で、答えが一斉に並ぶ。


 違います。本物です。


 予測されても、感情はあなたのものです。僕も同じです。


 どれを言えば、玲奈が少し楽になるか分かる。分かるから、言えなかった。


 僕が選んだ言葉を、彼女の答えにしたくない。


「分かりません」


 玲奈の指がほどける。怒ると思った。


 失望すると思った。彼女は前を向いたまま、息を吐いた。


「あなたにも、分からないのですね」

「はい」

「質問設計者なのに」

「質問を作れることと、人の答えを知っていることは違います」

「以前のあなたなら、知っているように言いました」

「何度も間違えました」

「ええ」


 即答だった。反論できない。


 雨が強くなる。屋根の端から跳ねた水が、僕の靴を濡らす。


 玲奈が僕の横顔へ視線を向ける。


「それだけですか」

「何か言ってほしいですか」

「その答えを、私へ返さないでください」

「すみません」

「謝罪を最適化しないでください」

「では、黙ります」

「極端です」


 正しい距離も、正しい言葉もない。僕は両手を石段へ置いた。


 冷たさが掌から上がってくる。一分。


 二分。玲奈の肩が、一度だけ震えた。


 泣いているのかもしれない。寒いだけかもしれない。


 確かめない。ハンカチを差し出せば、泣いたと決めることになる。


 何もしなければ、隣にいる意味がないようにも思える。僕は制服のポケットから、未開封の温熱パックを出した。


 玲奈と僕の間へ置く。


「使うかは、あなたが決めてください」

「便利な言い方を覚えましたね」

「失敗でしたか」

「分かりません」


 玲奈は温熱パックを取った。袋を開け、両手で包む。


 そのまま、僕の髪へ目を向けた。


「相馬くんも、かなり濡れています」

「あなたほどではありません」

「比べる必要がありますか」

「普段と違うので」

「何がです」


 言わない方が安全だ。でも、安全な答えだけを選ぶのは、宗一郎と同じではない。


「髪が、いつもより自由です」


 玲奈がゆっくり僕へ顔を向けた。


「今、笑いましたか」

「口元が動いただけです」

「同じです」

「判定装置がありません」

「なくても分かります」


 玲奈は本気で睨んだ。その睨み方がいつもの彼女に近くて、僕はもう一度だけ口元を動かした。


「相馬くん」

「すみません」

「反省が早すぎます」


 声に、少しだけ温度が戻った。正しい慰めは言えなかった。


 それでも、僕たちは同じ雨に濡れていた。


* * *


 保全室へ戻ると、検索処理が終わっていた。凛が端末の前で立っている。


「玲奈ちゃん。見つけたよ」


 表示されていたのは、《ORACLE》運用層の目的関数変更履歴だった。美琴が亡くなる前。


 主目的。


『対象Rの自己申告幸福度、学習充足度、健康指標の総合最大化』


 補助指標。


『本人が選択後に行う再評価を重視する』


 火災の十一日後。改訂版。


 主目的。


『対象Rの離反・喪失リスク最小化』


 補助指標。


『管理者との接触維持、管理領域内での進路継続を優先する』


 削除された項目。


『本人による長期幸福度の自己申告』


 玲奈は、そこだけ二度読んだ。


「私が幸福だと言うかどうかを、父は目的から外した」

「美琴さんの死後です」


 凛が日付を示す。


「代わりに、離れないことを最優先へ置いた」


 神代は変更承認者を開く。九条宗一郎。


 単独承認。第一の証拠は、火災直後の音声。


 ――玲奈まで、自分の意思で私から離れるのが怖い。


 第二の証拠は、その十一日後に変更された目的関数。恐怖を口にした。


 そして、幸福より離反を防ぐ制度へ変えた。最終局の質問は、まだ作れない。


 けれど、父の言葉と行動をつなぐ線が一本増えた。玲奈が鞄を開く。


 取り出したのは、透明なカプセルだった。灰色の猫。


 転入初日の対局後、彼女が制服の後ろへ隠した景品と同じもの。


「相馬くん」

「はい」

「受け取ってください」

「なぜですか」

「理由が必要ですか」

「あるなら、知りたいです」

「父の計画書に、私がこれをあなたへ渡すとは書かれていませんでした」

「計画書にないだけで、予測されていた可能性はあります」

「今は、そこまで調べません」


 玲奈は僕の掌へカプセルを置く。濡れた指先が、少しだけ冷たい。


「金色ではありません」

「見れば分かります」

「同じものを四つ持っています」

「それも聞きました」

「それでも、これは外れではありません」


 玲奈の指が、僕の掌から離れる。


「外れかどうかは、私が決めます」


 灰色の猫は目を閉じている。僕はカプセルを握らず、そのまま掌へ載せておいた。


「なくさないでください」

「努力します」

「約束してください」


 反射で、守れる確率を考えそうになる。やめた。


「なくしません」


 玲奈は頷いた。その時、王冠戦運営から新しい通知が届いた。


 最終局条件に伴う、緊急救済交換の選択期限。玲奈が王冠戦で得た保有Q。


 使えるのは、一度だけ。選択肢は二つ。


 第一案。


『相馬零司の記録係資格停止に対する緊急審査保証』


 必要Q、全保有分。交換成立時、最終局までの暫定資格を即時回復。


 第二案。


『強制付帯契約二十三件の救済買戻し』


 必要Q、全保有分。対象には、白鳥家の奨学契約が含まれている。


 選択期限は、翌日正午。どちらか一つ。


 僕の資格か。二十三の家族か。


 宗一郎が用意した二択ではない。制度が、実際に同じ資産を二つへ使えないだけだ。


 だからこそ、玲奈が選ばなければならない。彼女は通知を閉じなかった。


 僕の掌では、灰色の猫が何も知らずに眠っていた。


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