第26話 父の正解(前)
資格を失った僕は、記録係としてではなく、証拠提出者として父娘の食卓へ呼ばれた。その席順まで、九条宗一郎が決めていた。
* * *
理事長公邸の小食堂には、三人分の食器が並んでいた。宗一郎が上座。
玲奈が窓側。僕は扉に近い末席。
玲奈の椅子だけ、背に薄いクッションが置かれている。
「幼い頃と同じ席ですね」
玲奈が言う。
「西日が直接当たらない。空調の風も弱い」
宗一郎は理由を答えた。懐かしいから、とは言わない。
食卓に置かれた料理は、白身魚、温野菜、豆のスープ、柔らかいパン。ナッツ類、甲殻類、強い香辛料はない。
玲奈のアレルギーと、今日の呼吸状態まで反映された献立。皿の右上には、抗アレルギー薬と常温の水。
薬の使用期限は来年まで残っている。
「夕方、旧研究棟で粉塵を吸った。念のため服用しなさい」
「症状はありません」
「出てからでは遅い」
「飲むかは私が決めます」
「そうすればいい」
宗一郎は止めなかった。玲奈は薬を確認し、一錠だけ飲んだ。
「必要だからです」
父へではなく、僕へ説明するような声だった。
「分かっています」
「今、何を分かったのですか」
「薬を飲んだことと、管理を受け入れたことは同じではない」
玲奈はそれ以上言わなかった。宗一郎はスープを一口飲む。
玲奈がパンを取ろうとした時、右手の人差し指に薄い切り傷が見えた。宗一郎は会話を止め、卓上の医療箱を開く。
「傷を見せなさい」
「紙で切っただけです」
「感染の可能性はゼロではない」
消毒綿と小さな保護膜が、玲奈の皿の横へ置かれる。宗一郎は自分で貼ろうとはしなかった。
拒まれると分かっているからかもしれない。玲奈はしばらく触れず、最後に自分で保護膜を貼った。
父が用意したものを使う。父に決められたわけではない。
その区別を、彼女は一つずつ自分へ返しているように見えた。宗一郎はスープへ視線を戻す。
「魚は低温で火を通した。以前、玲奈が硬いものを残したからだ」
「八歳の時です」
「好みは急には変わらない」
「変わったか、聞きましたか」
宗一郎の手が止まる。玲奈は魚を一口だけ食べた。
「味はどうだ」
「安全です」
「味を聞いた」
玲奈も手を止める。
「分かりません。昔好きだった味と、今食べたい味が同じか、考えたことがありませんでした」
宗一郎は、次に勧める料理を選べなかった。一秒だけ。
それから栄養表へ視線を移す。
「必要量は満たしている」
味の質問が、必要量の答えへ置き換わった。食事の内容。
席の位置。薬の量。
食べる順番。娘の体は、誰より細かく見ている。
何を食べたいかは、一度も聞かない。
「条件交渉を始めましょう」
玲奈はパンへ手を伸ばさず、端末を開いた。宗一郎も食器を置く。
「その前に、相馬くんの同席理由を確認する」
「彼は火災記録の発見者であり、保全手続の署名者です。資格停止は記録係としてのもので、証拠提出者としての発言権まで失っていません」
「今日の場で、質問案を作ることは認めない」
「作りません」
僕が答える。
「作れない、の間違いでは?」
宗一郎は僕の学生証を見る。白い識別線は消えたままだ。
「今は、同じです」
本当は違う。作れないなら、能力不足だ。
作らないなら、僕の選択になる。今の僕は、その境目に立つ資格さえ止められている。
「違いを認めるのか」
「認めます」
怖さを隠す時ほど、僕の言葉は丁寧になる。宗一郎はそれ以上追わなかった。
玲奈が独立証拠保全庫の閲覧画面を開く。
「まず、音声の真正性を確認します」
原本識別値。時刻同期記録。
復元手順。封印時の三者署名。
全てが画面に並ぶ。再生されるのは、一文だけだった。
『美琴を失った。玲奈まで、自分の意思で私から離れるのが怖い』
食堂の空気が止まる。玲奈は父を見る。
「これは、あなたの声ですか」
「そうだ」
宗一郎は迷わなかった。
「火災直後、あなた自身が発言した?」
「発言した」
「編集された意味ではなく、当時のあなたが『怖い』という語を選んだ?」
「選んだ」
三度、確認した。対局ではない。
《ミラー》もない。それでも、本人の承認は記録される。
「ただし」
宗一郎が続ける。
「あれは恐怖ではない。保護責任を、混乱した状態で不正確に表現しただけだ」
「今は、そう解釈しているのですね」
「当時から本質は同じだ」
「当時、何と認識したかを聞いています」
「言葉は認めた。意味の定義は認めない」
玲奈は反論しなかった。端末へ一行だけ記録する。
『本人、音声および発言を承認。現在の評価として恐怖を否定』
宗一郎が、自分の過去の言葉を知っている。それで十分だった。
今ここで、意味まで決着させる必要はない。
「次です」
玲奈が研究映像を再生した。十二年前。
《ミラー》の臨床試験室。若い母が、患者用の質問票を持っている。
宗一郎は、回答分岐のモデルを画面へ出していた。
『人は間違える』
宗一郎が言う。
『苦痛の中では、本人にとって不利益な答えを選ぶ。ならば、間違える前に選択肢を整えるべきだ』
母が首を振る。
『人は間違えるから、自分で言葉にする必要があるの』
『言葉にしてから傷つけば遅い』
『傷つかない答えを、あなたが先に選んだら、その人の答えではなくなる』
『結果が良ければ、区別する意味はない』
そこで映像が終わる。宗一郎は画面を見ていた。
母の顔ではなく、最後に表示された回答分岐を。
「火災当日の管理記録も確認します」
玲奈が二つの操作候補を並べた。東側防火扉の手動開放。
中央データ保管区画の消火隔離。一系統しか実行できない。
宗一郎は後者を選んだ。
「避難班の到着予測は五十三秒後だった」
宗一郎が言う。
「中央区画の耐火限界は十七秒。扉を開けば、十年分の臨床データと、治療中の患者記録が失われた」
「母は、その扉の向こうにいました」
「退避経路は他にもあった」
「到達できなかった」
「結果としては」
結果として。その言葉の中で、母は死んだ。
「なぜ、研究を続けたんです」
僕が聞く。
「止める理由がないからだ」
「母を失っても?」
「失ったからこそだ」
宗一郎は水へ触れた。飲まない。
「ここで研究を捨てれば、私が美琴よりデータを選んだという誤りだけが残る」
食器の触れ合う音が、小さく鳴った。
「完成させれば、必要な選択だったことになる?」
「少なくとも、失われたものを無意味にはしない」
後悔したから止めたのではない。後悔を誤りにしないため、先へ進んだ。
《ORACLE》が人の選択を正しく予測するほど、あの夜の選択も正しかったことにできる。宗一郎は、母をデータへ変え続けている。
玲奈が膝の上で手を組んだ。
「あなたは、美琴さんのために研究しているのですか」
「美琴の理念を、現実に耐える形へ完成させる」
「彼女は、同意すると思いますか」
「死者の答えは得られない」
「だから、あなたが決める?」
宗一郎は答えなかった。僕の中に、断罪の文が浮かぶ。
あなたは母の答えまで奪った。口にしなかった。
母がどう答えるかを、僕が代わりに決めれば同じになる。




