第23 裏切りではない(前)
再契約は、許されたという意味ではない。正解を出したという意味でもない。
それでも、前より僕たちの契約だった。
* * *
翌朝。第二資料室の机へ、新しい契約書を広げた。
昨日まで灰色だった専属欄には、まだ誰の名前もない。
「必要なら、戻ります」
口にしてから止めた。必要かどうかで選ばないと、玲奈は昨日言った。
なのに僕は、また彼女が望む条件を探している。
「今のは取り消します」
玲奈の指が止まる。
「契約前の発言を、都合よく消せるのですか」
「記録には残してください」
「では、言い直してください」
喉が少し狭くなる。玲奈が必要としているから。
母の研究を調べるため。王冠戦へ勝つため。
理由はいくつでも作れる。そのどれより先にあったものを、言葉にする。
「僕が、もう一度あなたと組みたい」
玲奈はすぐに契約書へ触れなかった。
「なぜですか」
「今の僕には、一文では答えられません」
「質問設計者なのに」
「自分への質問は専門外です」
「都合のよい専門分野ですね」
責める声音ではなかった。玲奈は空白の条項を開く。
「なら、答えが変わる可能性を残したまま契約します」
一条目。
『記録係は、候補質問だけでなく、その質問を採用させたい自身の利害を選手へ開示する』
「僕の利害」
「勝ちたい。必要とされたい。自分の読みが正しいと証明したい。そうしたものです」
「全部、毎回書くんですか」
「隠したいものほど」
反論できなかった。二条目。
『選手は質問文だけでなく、記録係が置いた前提、人物像、守るものの順位を疑うことができる』
「既に、選手は質問案を捨てられます」
「規約上の権利と、私たちが使える権利は同じではありません」
「どう違うんです」
「神代先輩との最初の対局で、私はあなたの前提へ違和感がありました。それでも採用した」
「あなたも同じ結論だった」
「だからこそです。あなたが七十八%と言った瞬間、私の疑いを弱くした」
僕の数字が、玲奈の考える余地を狭めた。質問を強制していなくても、正解らしく置けば選びにくくなる。
「二条とも同意します」
「まだ署名しないでください」
玲奈は僕の方へ端末を向ける。
「契約を解消した時のことを、先に終わらせます」
机の端に、前回の質問カードがある。僕は玲奈が母の名を知っていた事実を当てた。
彼女が目を逸らした理由まで、嘘の追加証拠にした。
「僕は、あなたが傷ついた顔を、自分の正しさへ使いました」
「ええ」
「母の名を知っていたことと、僕たちの間にあったものが全部偽物だったことを、同じ結論にしました」
「ええ」
「すみません」
最適な謝罪文を探しかける。続けなかった。
玲奈は数秒、黙っていた。
「今、その謝罪を受け取ります」
「許すとは言わないんですね」
「許したかどうか、まだ決めていません」
「それでいいです」
「評価しないでください」
「……待ちます」
僕たちは署名した。九条玲奈・選手。
相馬零司・専属記録係。灰色だった表示が白へ変わる。
同じ二人の名前。同じではない契約。
「再契約を確認しました」
玲奈が端末を閉じる。
「最初の質問を疑います」
「締結直後に?」
「神代先輩から、再戦申請が届いています」
* * *
神代が提出した公式報告書には、三度『裏切り』という語があった。
『白鳥凛は、記録係としての守秘義務に反し、単独の判断で対戦相手へ情報を提供した』
『神代および生徒会の指示、共謀、強制は存在しない』
『当該行為は、選手個人に対する自発的な裏切りである』
昨日、凛の監視契約は解除された。ただし白鳥家への奨学保護は、三十日間の保全にすぎない。
無断情報提供が研究倫理違反として確定すれば、家族分を含めて凍結される。神代は、自分を被害者として報告した。
凛が裏切ったのは研究室ではなく、選手個人。研究情報の漏洩ではなく、チーム内の信頼違反。
その分類によって、奨学保護は神代のQ保証の下で継続していた。
「凛さんを守るための報告です」
僕は言った。
「結論が早いです」
玲奈は報告書を閉じない。
「三つ、根拠があります」
「聞きます。ただし、利害も先に」
契約の一条目。
「僕は、自分が前回読み違えた神代先輩を、今度こそ読みたい」
「勝ちたい、ではなく?」
「それもあります」
「続けてください」
一つ目。神代は凛の告白より二日前、白鳥家の奨学契約を独立奨学基金へ移す仮申請を出していた。
本人へ知らせず、選択肢だけを準備している。二つ目。
同じ日に更新期限を迎えた生徒会保証契約は十二件。神代は十一件へ即日署名し、凛の契約だけ二十三時間五十八分、署名を遅らせた。
署名が遅れた間、白鳥家の契約は処分手続へ移せない保留状態だった。三つ目。
公式報告の分類。
『研究室への背信』と書けば、凛の家族支援は即時停止する。
神代はそうせず、自分個人への裏切りとして引き取った。
「報告書は、凛さんを自発的な裏切り者へ見せています」
玲奈が言う。
「守るためでも、名誉は傷つける」
「はい」
「神代先輩が正しいことをした、と言うつもりですか」
「ありません」
神代は凛へ聞かず、基金申請を出した。彼女が選べる場所を残した一方で、その場所を本人より先に決めた。
「僕が読むのは、善悪ではなく、神代先輩が何を自覚しているかです」
候補質問を三つ表示する。一枚目。
――あなたは、今も凛さんを守りたいですか。
弱い。神代が「はい」と真実を答えても、公式報告が嘘だとは証明できない。裏切られたと思いながら守る人間はいる。
二枚目。
――公式報告の『裏切り』という表現は、あなたの本心ですか。
多義的すぎる。規約上の分類、感情、責任の引受けが一語に重なる。《ミラー》がどの意味を判定したか争われる。
三枚目。
――あなたは、凛さんが自分の意思だけであなたを裏切ったと信じていますか。
問うのは、守りたいかではない。裏切りという言葉の善悪でもない。
外部強制を知りながら、凛だけの意思だと本当に信じているか。神代自身の認識へ範囲を狭める。
「『自分の意思だけ』を入れた理由は?」
「神代先輩は、凛さんの家族契約と研究室の命令を知っていた。彼女に自発的な選択があったとしても、それだけが原因だとは信じていない」
「回答は」
「『はい』」
「嘘」
「そう読みます」
玲奈がカードを持ち上げた。
「『いいえ』と真実を答えれば、本人が公式報告を否定した記録になります」
「神代先輩のQ保証資格が停止される。基金移管前に、白鳥家の支援が切れる可能性がある」
「『はい』なら報告とは一致する」
「ただし本人の認識とは一致しない。《ミラー》がLIEを出しても、報告書の法的撤回にはならない」
「私たちが外せば、神代先輩が勝つ。現行保証は継続する」
「当てれば、賭け金の基金移管が実行される」
どちらへ転んでも、神代は凛の支援を途切れさせない答えを選べる。
「先輩が、私たちに読まれることまで期待しているのですか」
「分かりません」
玲奈の指が止まる。
「そこで止めるのですね」
「期待していると決めれば、わざと負ける対局になります」
「ええ」
「神代先輩は、凛さんを守るために『はい』を選ぶ。それを僕たちが読めるかは別です」
玲奈はカードを裏返した。捨てたのではない。
自分の端末で、神代が署名を遅らせた記録を開く。
「あなたの結論は採用します」
「質問も?」
「まだです」
彼女は僕の文面から一語を削り、対象期間を報告書作成時点へ限定した。
「私は、この署名遅延を根拠に加えます。あなたの神代像が外れていても、先輩が強制を知っていた事実は変わりません」
「同意します」
「今度は早いですね」
「僕の質問と、僕の人物像は別ですから」
玲奈の口元が、ほんの少し動いた。




