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第22話 自分の言葉

 玲奈は、僕の質問を必要としなかった。それは、望んでいたことのはずだった。


* * *


 対局開始の四十分前。第二講堂前の自動販売機で、白鳥凛は同じ三本を見比べていた。


 無糖の紅茶。水。


 苺ミルク。右手が苺ミルクへ伸びる。


 途中で止まり、水へ動く。そこでも決まらず、また戻る。


「相馬くんなら、どれにする?」

「僕が飲むなら水です」

「そうじゃなくて。私なら、どれがいいと思う?」

「分かりません」

「即答だね」

「あなたの飲み物ですから」


 凛は口元だけで笑った。


「司くんなら、水にしろって言うかな」

「神代先輩は決めないと思います」

「玲奈ちゃんなら?」

「今から対局する相手へ聞くんですか」

「だって、正しいものを選びたいし」


 正しい飲み物。そんなものはない。


 けれど凛は、自分の分だけをいつも誰かに選ばせた。神代が冷蔵庫から出したもの。


 玲奈が購買で手に取ったもの。僕たちが残したもの。


 どれも受け取れるのに、自分で最初の一本を押せない。凛は結局、硬貨を戻した。


「対局が終わってからにする」

「負けたら、飲む気分ではなくなるかもしれません」

「勝っても、たぶん同じだよ」


 彼女は閉じた講堂扉を見る。


「玲奈ちゃん、本気だから」


 分かっている。端末に届いた対局申請を、昨夜から何度も開いた。


 質問者、九条玲奈。回答者、白鳥凛。


 記録係、なし。玲奈が勝てば、白鳥家の特別奨学契約に付随する研究協力条項――凛へ課された監視義務が解除される。


 凛が勝てば、玲奈は王冠戦最終選抜の優先資格を失う。凛の家族への学費支援は、研究協力条項とは別に残る。


 少なくとも、申請画面にはそう書かれていた。


「なぜ、そこまで賭けたんでしょうね」

「聞けば?」

「今の僕が聞くと、正解を要求します」

「自覚があるなら、少しはましになったね」

「慰めですか」

「観察」


 凛は明るく言った。その笑顔が演技かどうかを、僕は考えかける。


 やめた。笑っている時は嘘。


 黙っている時だけ本当。そんな二種類へ、人間を分ける方が簡単だからだ。


「相馬くんは、どっちが勝つと思う?」

「質問を知りません」

「知っていたら?」

「確率は出せます」

「その確率、玲奈ちゃんへ渡したい?」


 すぐには答えられなかった。渡せば勝率を上げられる。


 候補質問を作れば、さらに上げられる。でも、玲奈は記録係欄を空白にした。


『次は、私が質問を作ります』


 あれは僕への拒絶であり、彼女自身の選択だった。


「渡しません」

「どうして?」

「求められていないからです」

「寂しい?」

「対局前の回答者へ、僕の利害を教える必要はありません」

「はいでも、いいえでもないんだ」

「対局ではありません」

「今の逃げ方、相馬くんの言葉っぽいね」


 褒められたのかは、分からなかった。


* * *


 第二講堂は、第一講堂の半分ほどしかない。観客席にいるのは、契約当事者、生徒会監査員、王冠戦運営委員。僕は最前列の端へ座った。


 記録係席ではない。玲奈の隣には、誰もいない。


 彼女はいつもと同じ制服で、いつもと同じ姿勢をしていた。机の上には質問カードが一枚。


 僕が作ったものではない。


「賭け金を確認します」


 審判役の老教授が読み上げる。


「質問者側が勝利した場合、白鳥凛の研究協力付帯条項を解除。回答者側が勝利した場合、九条玲奈は王冠戦最終選抜の優先資格を失う」


 そこで、表示板は確定しなかった。


「確認前に、契約上の空白を指摘します」


 老教授が凛の奨学契約を拡大した。研究協力付帯条項の直下。


『本人の自発的な履行拒否、機密漏洩その他の重大な背信が認められた場合、家族連帯支援を再審査できる』

「白鳥さんの回答が、自発的な拒否の意思表示と扱われる余地があります。監視義務を解除できても、家族支援の再審査までは止められません」


 観客席がざわつく。凛の顔から笑みが消えた。


「その条項は、対局申請時の自動審査を通過しています」


 玲奈が言う。


「自動審査は、条項同士の優先関係を判定していません。白鳥家の支援権は第三者の権利です。あなたが直接賭けることもできない」

「承知しました」


 玲奈は申請を取り下げなかった。端末を操作する。


「賭けの範囲を修正します」


 表示板に追記されていく。一つ。


 凛の回答は、契約解除の申出、背信の自白、家族支援再審査の資料として利用できない。二つ。


 研究協力条項の解除は、凛の回答ではなく、質問者側の勝利によって自動執行される。三つ。


 勝敗後三十日間、白鳥家への不利益処分を保全停止する。その費用と保証Qは、玲奈が自分の保有分から拠出する。


「私は白鳥家の契約を賭けません。私が処分できる権利だけを使い、白鳥さんが自分で答えられる時間を買います」

「三十日後は?」

「独立奨学基金への移管審査を申し立てます。通るとは保証できません」

「つまり、完全には救えない」

「はい」


 玲奈は目を逸らさなかった。


「それでも、今日の答えを家族への脅しに使わせないことはできます」


 老教授が凛へ確認する。


「修正条件に同意しますか」


 凛は表示板を見た。家族の名前がないことを、何度も確かめた。


「同意します」


 玲奈も答える。


「同意します」


 今度こそ、条件が固定された。赤い沈黙ランプが点く。


 対局中、外部からの助言は禁止。僕は、もう何もできない。


 玲奈がカードを読取部へ置いた。大型表示板へ、一問が現れる。


 ――監視契約がなくても、これからも自分の意思で私たちの情報を運営へ送りたいですか。


 講堂が静かになった。過去を責める質問ではない。


 裏切ったか。後悔しているか。


 許されたいか。どれも聞いていない。


 僕なら、別の問いを先に考えた。


 ――情報を送ったことを後悔していますか。


 弱い。後悔していても、家族を守れたことまで否定する必要はない。後悔していないと答えても、これから続けたい証明にはならない。


 ――九条玲奈を友人だと思っていますか。


 もっと弱い。友人を監視した人間にも、友人だと信じることはできる。《ミラー》は客観的な関係を判定しない。


 ――父親の命令がなければ、送らなかったですか。


 過去の仮定は、本人にも答えられない。凛が「分からない」を選べない競技で問えば、質問が嘘を作る。玲奈の一問は、過去を一つの意味へ固定しない。


 命令も、家族への不利益もない未来を置く。その上で、これからどうしたいかだけを凛へ返す。


 僕が得意なのは、片方を選びたくなる損失を置くことだ。玲奈は逆に、答えを縛っていた損失を質問の外へ出した。


「意味確認を行います」


 機械音声が続ける。


『監視契約が存在せず、白鳥家の奨学支援、家族債務、在学資格へ不利益が生じない状況を仮定する。私たちの情報とは、九条玲奈および相馬零司の公式戦記録以外の会話、行動、嗜好、候補質問、健康情報を指す。回答者自身が、その送信継続を望むかを問う』

「解釈に同意しますか」

「はい」


 凛が答えた。本回答の三十秒が始まる。


「いいえ」の根拠は、既に出ている。


 一つ。凛は、玲奈が灰色猫を隠した記録を送らなかった。


 二つ。僕の母に関する閲覧履歴を、命令されるまで保留した。


 三つ。命令のない時間帯だけ、玲奈の予定を記録しなかった。


 昨日は中央同期も、自分で止めた。ただし、別解はある。


 凛は人の小さな変化を見ることが好きだ。契約がなくても、「研究のため」「守るため」と理由を変え、送り続けたいかもしれない。


 送らなかった情報も、反抗ではない可能性がある。単に価値が低いと判断した。


 後で自分を守る材料として残した。許されるために同期を止めた。


 行動は、いくつもの理由を持てる。僕なら数字を出した。


 いいえ、八十二%。はい、十八%。


 そして、また人間を数字の中へ入れる。玲奈は数字を持っていない。


 彼女が見ているのは、凛だった。表示板の秒数が十九を切る。


 凛は観客席を見ない。神代は入場記録だけを残し、講堂の外にいた。


 彼女が自分で答えるためだと、僕は思う。それも、僕の推測にすぎない。


「いいえ」


 残り九秒。声は小さかった。


 聞き返す必要はなかった。


 回答 ―― いいえ 玲奈の宣言時間が始まる。


 凛は昨日、誰かを守るために嘘をついた。玲奈も僕との私的対局で、情報源を守るために嘘を選んだ。


 同じ「いいえ」でも、意味は違う。過去に傷つけられた記憶は、論理だけでは消えない。


 玲奈が疑っても不思議ではない。凛の指が震えている。


 微表情は証拠にならない。恐怖でも、罪悪感でも、期待でも震える。


 玲奈は僕を見なかった。僕の判定を探さない。


 僕がどう宣言するかも確認しない。


「あなたは昨日、命令のない一分だけ、送信を止めました」


 玲奈が言う。


「その一分を、私はあなたの選択として受け取ります」


 凛の唇が動く。返事はできない。


「あなたの答えは――真実です」


 《ミラー》が照合する。一秒。


 二秒。三秒。


 青白い文字。


 TRUE 凛が息を吐いた。


 泣かなかった。笑いもしなかった。


 ただ、両手で自分の膝を押さえた。


「勝者、九条玲奈」


 表示板が更新される。


『研究協力付帯条項――解除』

『中央同期権限――失効』

『私的情報提出義務――終了』

『白鳥家不利益処分――三十日間保全停止』

『回答内容の二次利用――禁止』


 凛の端末から、黒い研究識別帯が消えた。


「九条さん」


 老教授が言う。


「記録係を置かず、よく判断しました」

「置かなかったから判断できたのではありません」


 玲奈は答える。


「私が判断すると決めただけです」


 胸の痛みが、少し形を変えた。僕がいなくても勝てた。


 寂しい。同時に、嬉しかった。


 僕は彼女を勝たせたかったのではない。玲奈が、自分で問いを選ぶ瞬間を見たかった。


 今、その瞬間を見ている。


* * *


 対局後、凛は自動販売機へ戻った。今度は五秒もかからなかった。


 苺ミルクのボタンを押す。缶が落ちる。


 開けて、一口。凛の眉間にしわが寄った。


「甘い」

「苺ミルクですから」

「想像の一・七倍くらい甘い」

「次から選ばなければいい」

「次があるんだ」

「契約は解除されました」

「飲み物の話」


 玲奈も隣の新作飲料を買った。乳酸菌入り柑橘ソーダ。


 一口飲み、動きを止める。凛も止まる。


 二人は何も言わず、互いの缶を見た。


「交換しますか」


 僕が聞く。


「結構です」


 二人の答えが重なった。凛は甘すぎる苺ミルクをもう一口飲む。


 玲奈も妙に酸っぱい炭酸を飲む。正しくない買い物を、誰も取り消さなかった。


 凛は鞄から薄い記録媒体を出した。


「相馬くん。これ、渡す」


 監視端末の複製記録。対局時刻、質問入力元、送信命令、未送信一覧。


「契約は解除されました」

「だから渡すんだよ」

「命令でも、研究協力でも、許してもらうためでもない」


 凛は媒体を僕の手へ置いた。


「私が、渡したいから」

「受け取ります」


 それだけ答えた。玲奈がカードから目を上げる。


 机の端に、対局で使わなかった下書きが一枚残っていた。表面には、消した跡が三つある。


『あなたは私に許してほしいですか』

『私を友人だと思っていますか』

『裏切ったことを後悔していますか』


 どれも、凛の答えを玲奈との関係へ閉じ込める問いだった。最後に書かれた一問だけが、これからの凛自身を主語にしている。


「見ましたか」


 玲奈が聞く。


「見えました」

「忘れてください」

「記録係ではないので、記録していません」

「あなたの記憶力の問題です」

「努力します」

「成功率は」

「出しません」


 玲奈の指が、下書きを半分に折った。


「最初からあの質問を作れたわけではありません」

「僕も、三枚目まで弱い質問を書くことがあります」

「慰めですか」

「観察です」


 凛が少し離れた場所で、苺ミルクを飲みながら笑った。契約を解消して以来、初めて玲奈と正面から視線が重なった。


「相馬零司。話があります」

「はい」


 彼女は新しい契約書を表示する。


『専属記録係契約――再締結案』


 胸が一度、強く鳴った。


「僕は必要ですか」


 聞いた後で、また二択にしたと気づく。必要なら契約する。


 必要でなければ契約しない。玲奈はすぐには答えなかった。


「今日、あなたがいなくても勝てました」

「見ていました」

「だから、必要かどうかだけで選びません」


 契約書が僕の前へ滑る。


「あなたが必要だからではありません」


 玲奈の指が、空白の条項で止まる。


「今日、私はあなたなしで勝てました」

「はい」

「それを見て、安心しましたか」


 対局ではない。それでも、答えを探す思考が動く。


 彼女が望むのは、喜んだという答えか。寂しかったという答えか。


 両方だと言えば、傷つけずに済むか。


「安心しました」


 先に一つを言う。


「それから、寂しかった」


 玲奈の指が止まった。


「矛盾しています」

「人間は、二つ持てるらしいので」


 神代に負けて、ようやく覚えた。玲奈は契約書へ視線を戻す。


「では、その両方を持ったまま考えてください」


 空白の条項が、僕の前へ向けられる。


「私は、あなたと組むかを選び直します」


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