第20話 あなたが思っている意味ではない(後)
ノートの最後の数ページは、僕へ向けて書かれていた。
『零司へ』
文字が少し乱れている。
『あなたは、相手が望む答えを探しすぎる』
『それは優しさに見えるし、実際、優しい時もある』
『でも相手の望みを先に決めた瞬間、あなたはその人へ答えを渡してしまう』
息が止まりそうになる。母は、僕が今どうなっているか知らない。
子供の頃の僕を見て書いた。それでも、今の僕へ向けた言葉に見えた。
次の行。
『このゲームを終わらせたいなら、玲奈を疑いなさい』
玲奈の名前。僕は顔を上げる。
彼女も読んでいた。表情は変わらない。
その下に、一文が続いている。
『あなたが思っている意味ではない』
「どういう意味です」
玲奈へ聞いても、答えられるはずがない。
「分かりません」
彼女は言った。今度は避けなかった。
「母は、あなたを知っていた」
「父の研究へ参加していたなら、幼い頃の私を見ていた可能性があります」
「何を疑えと言ったんでしょう」
「今、決めるべきではありません」
正しい。
『あなたが思っている意味ではない』と、母自身が書いている。
玲奈本人を疑え、という単純な指示ではない。そう分かっていた。
分かっていたのに、凛の銀色の端末が短く鳴った。
「裏表紙に、管理タグがある」
焦げた紙の端へ、古い資産番号が印刷されている。凛が端末を近づけると、現在の研究資料サーバーへ照合された。
母が残した紙ではない。同じ研究番号へ紐づく、電子資料の閲覧履歴だった。
閲覧者。閲覧日時。
閲覧対象。最新の一件は、三週間前。
僕が鳳凰院へ転入する前だ。閲覧者――九条玲奈。
対象――相馬美琴・研究補助記録。関連人物――相馬零司。
認証経路――研究協力用一時鍵。発行者――権限保護のため非表示。
指が止まる。履歴の右端に、『規約違反を報告』という赤いボタンがある。
押せば、閲覧記録と九条玲奈の氏名が監査部へ送られる。王冠戦の参加資格は即時保留。
全校公開の対戦表には、『九条玲奈・資格確認中』と表示される。母の記録を先に読んでいた。
僕を選ぶ前から、僕を知っていた。指先を赤い表示へ置く。
押せば、玲奈は説明する前に疑われる側へ回る。僕が今感じているものの一部を、同じ形で返せる。
凛が息を呑む音がした。僕は押さなかった。
画面を閉じる。傷つけ返すために、母の記録を使いたくなかった。
そう言葉へ整える余裕はない。ただ、指だけは離した。
「この閲覧IDは、あなたのものですね」
「はい」
「本人が使った」
「はい」
短い答えだった。僕が来る三週間前。
玲奈は母の記録へ、自分の認証で入っている。
「何を読みましたか」
玲奈の指が、閉じたノートの表紙で止まる。
「ここでは答えません」
「なぜ」
「私が内容を説明すれば、閲覧権限を渡した人間まで絞られます」
凛が一歩動いた。
「相馬くん、それは――」
「凛」
玲奈が名前だけで制する。凛は唇を結んだ。
その一往復で、疑いは形を持った。
「情報源は白鳥さんですか」
「今は答えられません」
「僕の母の記録です」
「だからといって、白鳥さんの契約まで私が差し出すことはできません」
「僕を選んだ時、母の名前を知っていたんですか」
玲奈は、すぐには答えない。
「その質問には、今ここでは答えません」
「答えられないのではなく、答えない」
「はい」
転入初日の公開対局が、別の形に見え始める。午前八時十七分。
初対面より前に登録されていた、僕の生体ID。入学願書。
面接記録。旧校の成績。
選択科目。寮申請。
購買履歴。専属契約を持ちかけた日、玲奈はそこまで調べたと認めていた。
だが、母の研究記録まで先に見ていたとは言わなかった。僕が母の手掛かりを求めて鳳凰院へ来たことも知っていたのかもしれない。
知った上で、母の名前を僕の前へ少しずつ置いたのかもしれない。
「僕を利用したんですか」
「しました」
迷いのない返答だった。
「父の予測から外れる質問設計者を探していました。あなたの記録を調べ、候補に選び、対局へ呼びました」
「母の息子だから?」
「その部分は、今ここでは答えません」
「都合が悪いからですか」
「白鳥さんの行動を、私が代わりに公開しないためです」
「僕より、白鳥さんを守る」
「その二人を比べる質問には答えません」
まただ。僕が欲しい形へ、答えが収まらない。
「あなたが私へ勝った一問は、資料にはありませんでした」
玲奈の声は平らだった。
「用意できたのは、あなたを盤面へ呼ぶところまでです。何を問うかも、私が負けた後に何を感じるかも、記録にはなかった」
「負けて安心したことも、計画ですか」
「違います」
《ミラー》はない。なのに僕は、その答えを信じるかどうかではなく、どう崩すかを考えていた。
カプセルトイの前で灰色猫を隠した指。食堂で僕の代わりに券売機を押さず、二択だけ置いた声。
幸福を問うた僕へ、本気で怒った顔。桐生戦の後、僕が「勝ちたい」と言った時の小さな笑み。
記憶の一つずつへ、別の説明が貼りついていく。観察対象だった。
父の予測を破る道具だった。母の続きを探すための鍵だった。
その説明だけで全部を塗り替える方が、今は楽だった。
「どうして言わなかった」
「何をですか」
「あの公開対局の前です。僕を選んだ理由に、母がいたのなら」
「それを話せば、あなたは対局を断る可能性が高かった」
「だから隠した」
「時点と情報源を話しませんでした」
「同じです」
「事実と、あなたが欲しがっている結論は別です」
「あなたは僕を調べた。利用した。理由を言わなかった。それが事実です」
「はい」
「なら、何が違うんです」
声が保管庫へ響いた。自分が声を荒げたと気づくのに、一秒かかった。
玲奈の指が、ノートの角から離れる。僕は彼女へ怒鳴ったことがなかった。
「僕は、あなたを信じていた」
口にした直後、胸の内側が冷えた。信じると決めた覚えはない。
必要とされることへ安心していただけかもしれない。母へ辿り着くため、玲奈の側にいただけかもしれない。
「私も、あなたが答えを決めつけないと信じていました」
「僕が勝手に裏切ったと?」
「今のあなたは、私の理由を聞く前に、結論を一つへ固定しています」
「理由を聞いています」
「いいえ。『騙したか』しか聞いていない」
言い返そうとして、母のノートが目に入った。問い方によって、答えられる世界の形を狭めてしまう。
分かっている。それでも、止められなかった。
「では、答えてください」
「どの質問へ?」
「僕を対戦相手へ選んだ時、母の名前を知っていたか」
玲奈の視線が、凛ではなく、凛の銀色の端末へ落ちた。
送らなかった『相馬美琴関連資料 一件』。
それを見た瞬間、僕の中では答えが決まった。
「私的対局を申し込みます」
自分の声が、遠く聞こえた。
「ここでは答えないと言うなら、《ミラー》の前で答えてください」
凛が首を振る。
「相馬くん、今はやめた方がいい」
「あなたは黙っていてください」
言葉が鋭くなった。凛の顔から、柔らかな表情が消える。
玲奈は僕から目を逸らさない。
「賭け金は」
「要りません」
「私的対局にも、双方の同意が必要です」
「断りますか」
玲奈は、母のノートを閉じた。
「いいえ」
「なら」
「受けます」
答えは静かだった。
「ただし、相馬くん」
「何です」
「正解した後に、何が残るかまで考えてください」
その言葉を、揺さぶりだと思った。僕はもう、彼女の目の前にある答えしか見ていなかった。




