第19話 あなたが思っている意味ではない(前)
母の字は、僕が覚えているより小さかった。たぶん、記憶の中で何度も大きくしすぎた。
* * *
耐火袋の封を切る。古い紙と、焦げた樹脂の匂いがした。
大学ノートの最初のページには、装置の名前が書かれている。
《ミラー》 その下に、母の手書きの定義。
『これは、真実を判定する装置ではない』
ページをめくる。神経反応。
言語理解。回答時認識。
専門用語の間に、何度も同じ注意が書かれていた。
『客観的事実は測れない』
『無意識の動機は測れない』
『本人が真実だと信じる誤認は、TRUEになる』
『質問者の言葉が、回答者の認識を変える場合がある』
「幸福を問われた時の判定と同じです」
玲奈の指が、TRUEの文字の下で止まる。
「私の『幸福』がTRUEだった理由」
「母は最初から知っていた」
「作った人ですから」
僕は次のページを開く。研究目的。
言葉を発することが難しい患者が、自分の認識を医師や家族へ伝えるための補助。記憶障害を持つ人が、今この瞬間に何を真実だと信じているか確認するための支援。
本人の言葉を、周囲の正しさで上書きしないための装置。小学生の頃、母に二つのマグカップを出されたことがある。
赤と、青。どちらを使いたいか聞かれ、僕は母が洗いやすい方を選ぼうとした。
『お母さんが楽な方じゃなくて、零司が使いたい方』
それでも答えられない僕に、母は赤を勧めなかった。青を片づけもしなかった。
『分からないなら、二つとも置いておこうか』
朝食の間、狭いテーブルにマグカップが二つ並んでいた。当時は、非効率だと思った。
今なら分かる。母は、僕の代わりに一つへ決めなかった。
《クエスチョン》とは、正反対だった。母は余白へ書いている。
『本人の認識は、本人にとって真実』
資料室で見つけた索引カードと同じ文。その下に続きがある。
『だからこそ、質問者は強い』
『問い方によって、答えられる世界の形を狭めてしまう』
『質問は、人を支配するために使ってはいけない』
僕が今まで作った質問が、頭の中へ並ぶ。玲奈が嘘を選ぶように。
蓮が人格を守るため「いいえ」を選ぶように。神代が愛情を一つの行動で証明するように。
勝つために、答えの幅を削った。
「宗一郎は」
焼けた音声端末を、凛が充電器へつなぐ。
「理事長は、これを回答予測へ使ったんだね」
ノートの後半には、《ORACLE》の名称が出ていた。母の字ではない。
印刷された共同研究計画書。目的は、回答データの集積。
同じ人物へ質問文を変えて提示し、選択率を比較する。どの言葉、損失、他者関係が回答を変えるか推定する。
提案責任者――九条宗一郎。臨床責任者――相馬美琴。
母の赤字が、計画書を横切っている。
『予測精度が上がるほど、質問者が答えを作っている可能性を疑うこと』
凛が音声端末の再生を押した。雑音。
警報音。その奥で、母の声がする。
『……装置は、正しい答えを与えるためのものではない』
別の声。低く、落ち着いている。
宗一郎だ。
『正しい答えが分かれば、人は不要な失敗をしない』
『それを決めるのは、本人よ』
『子供へ崖から落ちる自由を与えることが、愛情か』
『崖かどうかまで、あなたが決めている』
音が途切れる。次に入っていたのは、機械の警告音だった。
『生徒識別データ削除を開始』
『実行者 相馬美琴』
『削除率 二一%』
『火災警報』
『処理中断』
凛が再生を止める。誰も、すぐには話さなかった。
「母は、生徒のデータを消そうとした」
僕はノートを見る。最後の研究日。
火災の発生日と同じだ。削除対象は、《ミラー》の臨床協力者から転用された生徒データ。
質問、回答、生体反応、家族情報。
「火災の原因までは分かりません」
玲奈は削除率二一%の表示から目を上げない。
「この記録だけで、父が起こしたとも、事故だったとも断定できない」
「その記録だけで犯人は決められない」
声が強くなった。
「それでも、母が何をしていたかは分かった」
僕のために戻ったのではない。僕を外へ出した後、母はデータを消すため研究室へ戻った。
その選択を、僕は知らなかった。それでも、あの日に答えられなかった記憶は消えない。
「一人で外へ出ると決められる?」
母の声が、今も耳に残っている。僕は質問を作る直前、目を閉じる。
相手の答えへ集中するためだと思っていた。違う。
赤い非常灯を見ないためだ。母の質問に答えられなかった自分を、見ないためだった。
「相馬くん」
玲奈が近づこうとする。
「大丈夫です」
「大丈夫に見えません」
「見た目で決めないでください」
自分でも、嫌な言い方だと思った。玲奈は足を止める。
「では、聞きます」
彼女は言った。
「今、一人で読みたいですか」
はい。いいえ。
どちらも違う気がした。一人にされたくない。
でも、慰められたくもない。
「そこにいてください」
「分かりました」
玲奈は、それ以上近づかなかった。凛も音声端末から手を離し、入口の横へ下がる。
二人が同じ部屋にいる。ただ、それだけだった。




