第16話 送信された質問(前)
裏切り者、と呼ぶのは簡単だった。簡単な答えほど、僕は疑うべきだった。
* * *
「それは、裏切りです」
白鳥凛の沈黙へ、僕はそう返した。第一講堂には、もう観客はいない。
消灯前の照明だけが、誰も座っていない客席を白く照らしている。机の上では、銀色の端末が光っていた。
転入初日の公開対局。僕が食堂で迷った時間。
玲奈が苺プリンを買ったこと。候補質問。
不採用質問。目を閉じていた秒数。
親切にされた記憶の隣へ、送信時刻が並んでいる。
「相馬くん」
玲奈が僕を呼ぶ。
「何です」
「今のは質問ですか。判定ですか」
「事実です」
「《ミラー》はありません」
「なくても分かります」
以前、彼女に言われた言葉を返していた。玲奈は僕ではなく、凛を見る。
「あなたは、自分が私たちを裏切ったと認識していますか」
凛の肩が動いた。銀色の端末へ置いた両手が、ゆっくり重なる。
「……してる」
「父の命令だけが理由ですか」
「違う」
僕は顔を上げた。凛は逃げずに続ける。
「最初は、公式戦の記録だけって言われた。質問と回答、判定結果。王冠戦の運営に必要だからって」
「いつ変わったんです」
「玲奈ちゃんが、相馬くんを事前登録した日」
転入式より前だ。
「理事長室から、追加項目が届いた。沈黙時間、視線、対局外の会話、選ばなかったもの。断ったら、契約更新を再審査するって」
「家族の契約ですか」
玲奈が聞く。凛は端末の別画面を開いた。
『白鳥家・特別奨学契約』
凛本人の授業料と寮費。中等部へ通う弟の授業料。
家族が負担すべき学園債務の長期猶予。その代わり、凛は生徒会書記として研究記録へ協力する。
特別研究室の要請した情報を、守秘義務つきで提出する。研究協力を拒否した場合。
契約は即時再審査。猶予中の債務は、一括返済へ切り替わる可能性がある。
「可能性、ですか」
僕が言う。
「契約解除とは書いてない」
「書かないよ」
凛は小さく笑った。
「絶対に切るって書いたら脅迫になるから。可能性だけ置いて、私に正しい答えを選ばせるの」
宗一郎の方法だった。選択肢は残す。
ただし、一方を選んだ時に失うものを大きくする。答えたのは本人だから、強制ではないと言える。
「それでも」
僕は送信履歴を見る。
「送信ボタンを押したのは、あなたです」
「うん」
「僕たちに近づいたのも、情報を増やすためですか」
「最初は」
凛の声が途切れる。
「最初は、そう。相馬くんが何を見て、玲奈ちゃんが何を選ぶか、近くにいた方が分かるから」
「では、飲み物を覚えていたのも」
「送るために見た」
「相談に乗ったのも」
「話してもらうため」
「僕に親切だった日ほど、たくさん送った」
「……うん」
否定してほしかった。否定されたら、それも信じられなかったと思う。
「十分でしょう」
僕は端末を閉じようとした。玲奈の手が、先に画面を押さえる。
「まだです」
「何が」
「白鳥さんの答えを、途中で終わらせないでください」
「本人が認めました」
「監視したことは認めました。今も続けたいかは聞いていない」
「続けたくないと答えれば、許すんですか」
「許すかどうかを、今決める必要がありますか」
「僕は決めました」
「そうやって、また相手の答えより先に結論を置くのですか」
胸の中で、何かが熱くなった。
「あなたは平気なんですか」
「平気ではありません」
玲奈は即答した。
「私が苺プリンを買ったことまで父へ送られていた。あなたとの会話も、全てです」
「なら」
「怒っていることと、白鳥さんの選択を私が決めることは別です」
彼女は凛へ向き直る。
「白鳥さん。今も、私たちの情報を送りたいですか」
凛は口を開いた。声は出なかった。
端末の契約画面。客席の出口。
神代が出ていった扉。三つへ視線が動く。
「分からない」
玲奈が使えずにいた言葉を、凛は震える声で口にした。
「送りたくない。でも、弟の契約が切れるのは嫌。司くんに止めてほしいと思ってた。でも、止められたら、私は自分で何も選ばないままだって思った」
「矛盾していますね」
「うん」
「どれが嘘ですか」
「どれも、嘘じゃない」
凛は銀色の端末を僕たちへ押し出した。
「だから、今すぐ許してとは言わない。これ、調べて。私が送ったものも、送れって言われたものも、全部入ってる」
送信済みの一覧とは別に、薄い灰色のタブがあった。
『保留・破棄』
開く。送信指示は、七件。
実際に送られたのは四件だった。玲奈が制服の後ろへ灰色の猫を隠した映像。
父の指定した進路以外を検索した履歴。
そして、内容欄を暗号化された『相馬美琴関連資料 一件』。
三件とも、中央には届いていない。
「送らなかったんですか」
「うん」
「なぜ、その三つだけ」
凛は玲奈を見て、次に僕を見た。
「送ったら、勝負の材料じゃなくて、その人を動かす材料になると思ったから」
「苺プリンの秒数は送った」
玲奈の指が、送信済み一覧の一行を止める。
「それは……好みの統計だって言われて」
「灰色猫との違いは?」
「説明できない」
凛は視線を落とした。
「説明できないけど、あれは送っちゃ駄目だと思った。美琴さんの一件も」
命令に従った。命令へ逆らった。
どちらも同じ端末の中に残っている。
「契約違反になります」
「もうなってるよ。見せた時点で」
「なぜ」
玲奈が問う。凛は、泣かないまま答えた。
「次に何をするかだけは、私が決めたいから」
凛は端末の同期設定を開いた。
『手動停止』の文字へ指を置く。
すぐに警告が出る。
『研究協力の中断は、特別奨学契約の再審査事由となります』
弟の授業料。家族の債務。
さっき見た数字が、僕の頭にも浮かんだ。玲奈は押せと言わない。
僕も、押すなとは言わなかった。凛の指が、一度だけ震える。
それから、自分で押した。
『中央同期を停止しました』
「全部は決められないけど」
凛は消えた同期表示を見つめる。
「今送らないことだけは、私が決めた」
僕は何も言えなかった。凛を裏切り者と呼ぶことはできる。
脅されていた被害者と呼ぶこともできる。どちらも正しい。
どちらか一つにすれば、僕には理解しやすい。その代わり、残りの半分を消すことになる。




