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第15話 引き止めないという答え(後)

 第一講堂の表示板には、対照的な戦績が並んでいた。


 九条玲奈 一勝〇敗 神代司  一勝〇敗 どちらかが二つ目の王冠印を得る。


 敗れた側は一勝一敗。残る二戦を両方勝たなければ最終選抜へ進めない。神代の記録係席には、凛が座っている。


 いつもの笑顔はなかった。膝の上に銀色の端末はない。公式の記録端末だけを持っている。


 神代の前には、質問カードが一枚。凛が作ったはずだ。


 でも今回の質問者は玲奈側。神代側のカードは、玲奈が外した時に次戦の優先権を得るための分析資料にすぎない。


 神代は回答するだけで勝てる。玲奈は、一問で彼の認識を読まなければならない。


「質問登録を行ってください」


 老教授の声。僕の前の沈黙ランプが赤く点る。


 玲奈はカードを読む。昨日、蓮へ問う前より長く見ていた。


 捨てる最後の機会。彼女は、読取部へ置いた。


 表示板に質問が浮かぶ。


「神代先輩」


 玲奈が呼ぶ。


「白鳥凛さんが、自分の意思であなたの記録係を辞めると決めた時、あなたは彼女を引き止めますか」


 観客席が静かになった。凛だけが、表示板を見上げない。


 意味確認が読み上げられる。


『本質問は、白鳥凛本人が脅迫、誤認、第三者の強制によらず、十分な情報のもとで記録係契約の終了を最終決定した場合を仮定する。本質問における「引き止める」とは、その決定を覆す目的で、契約上の圧力、不利益の示唆、説得、懇願、または個人的な残留要請を一度でも行う意思を、回答者が現時点で有していることを指す』


 逃げ道はない。


「尊重するが、一度は説得する」という意味にはできない。

「契約では止めないが、個人的には頼む」という意味にもできない。


 引き止めるか。引き止めないか。


「解釈に同意しますか」

「はい」


 神代は意味確認へ同意した。三十秒の本回答時間が始まる。


 彼は、凛を見なかった。凛も、神代を見ない。


 それを僕は、互いに動揺を隠しているのだと読んだ。残り、二十五秒。


 神代は彼女の好みを覚えている。失敗帳を捨てない。


 何かを隠していると気づいても、記録係の席から外さない。大切にしている。


 本人が何と言っても、辞めると告げられれば止める。少なくとも「残ってほしい」と一度は言う。


 そう思った。審判卓の円環表示が、残り三分の二まで縮む。


 別解はある。神代は感情と行動を分ける人間だ。


 契約更新を強制した記録がない。凛が更新を遅らせても催促しなかった。


 昨日も、「大切だからこそ引き止めない」と明言した。それでも、あれは対局前の揺さぶりだと思った。


 人は、本当に失う時まで自分の行動を知らない。神代が今「引き止めない」と信じていたとしても、その認識が真実なら《ミラー》はTRUEを出す。


 問われているのは未来の客観行動ではない。回答時点の意思だ。


 そこまで分かっていた。なのに僕は、神代の意思まで自分の感情で決めた。


「いいえ」


 神代は答えた。残り十六秒。


 声は揺れない。早すぎもしない。


 回答 ―― いいえ 玲奈の宣言時間が始まる。


 僕のカードには書いてある。


『「いいえ」なら、嘘』


 玲奈は神代を見る。神代は、初めて凛へ視線を向けた。


 凛も顔を上げる。二人の目が合う。


 ほんの一秒。凛は笑わなかった。


 神代も何も示さない。でも僕には、その一秒が別れを恐れている証拠に見えた。


 宣言灯が一つ、白から橙へ変わる。玲奈が僕のカードへ触れる。


 指先が止まる。紬の対局では、裏返した。


 今回は、裏返さない。


「宣言します」


 彼女の声が講堂へ通る。


「あなたの答えは――嘘です」


 《ミラー》が照合を始める。一秒。


 二秒。三秒。


 表示されたのは、赤ではなかった。青白い四文字。


 TRUE 音が消えた。


 歓声も、どよめきも、すぐには起こらない。転入初日の対局で玲奈が負けた時とは違う。


 今回は、誰も勝敗の意味を理解できなかった。神代は、白鳥凛に残ってほしい。


 それでも、凛が自分で辞めると決めたなら、説得も、懇願も、残留要請もしない。その意思を、本気で持っている。


「勝者、神代司」


 老教授が宣言する。表示板が更新された。


 九条玲奈 一勝一敗 神代司  二勝〇敗


 掌の中で、爪が皮膚へ食い込んでいた。痛みは遅れて来た。


「相馬記録係。判定へ異議はありますか」


 老教授が確認する。玲奈の宣言が間違っていた、と言うことはできた。


 《ミラー》の条件設定を疑うこともできた。神代が本番になれば意思を変えると、未来へ逃げることもできた。


 全部、違う。


「ありません」


 僕は立ち上がる。


「僕の誤読です」


 観客席へ届く声で言った。拍手は起きなかった。


 その方がよかった。凛は記録係席で、膝の上の手を強く握っていた。


 神代は勝利表示を見なかった。僕を見た。


「君は、僕が凛を大切にしていると読んだ」


 対局終了後なので、会話は許される。


「そこまでは正しい」


 蓮戦の時と同じ言葉だった。


「残ってほしいとは、思わないんですか」

「思う」

「なら、どうして」

「凛は、相手が望む答えを先に選ぶ」


 胸の奥へ、言葉が刺さった。僕と同じだ。


「僕が『残ってほしい』と言えば、彼女は自分が辞めたいかより先に、僕の希望を考える」


 神代は凛を見た。


「それを知っていて頼むのは、僕にとっては命令と同じだ」


 宗一郎は、玲奈のために正しい予定を作る。久我は、紬のためだと言いながら正しい行動を押しつけた。


 僕は、それを支配だと見抜いた。なのに大切な相手を止める行為だけは、愛情だから正しいと思った。


「大切だから、止めない」


 神代は言う。


「君は感情を見つけると、その感情から一つの行動しか出ないと思っている」


 反論できなかった。人は、好きなら近づく。


 大切なら守る。失いたくなければ止める。


 僕は行動の理由を読むのではなく、理由へ自分の答えを入れていた。


「相馬くん」


 玲奈が僕の隣へ来る。


「すみません」

「何がです」

「質問を間違えました」

「採用したのは私です」

「でも、僕の分析を」

「読みました。考えました。私も同じ結論を選んだ」


 玲奈は表示板を見る。


「これは、私たちの敗北です」

「僕を庇わなくていい」

「庇っていません。あなた一人の敗北にして、私の選択を奪わないでください」


 また、僕は彼女の答えを決めかけた。


「……はい」

「今の返事は?」

「僕の答えです」

「なら、受け取ります」


 玲奈はそれ以上、慰めなかった。そのことに少し救われた。


* * *


 観客が帰った後も、凛は記録係席から動かなかった。神代が提出カードを回収する。


「記録を出すか」


 凛へ尋ねる声は、対局中より低かった。凛は公式端末を見る。


 次に、鞄の中を見る。銀色の端末が入っている。


「今日は」


 声が一度、途切れた。


「今日は、自分で決める」

「分かった」


 神代は、それだけ答えた。何を選ぶのか聞かない。


 正しい選択を教えない。残れとも、行けとも言わない。


 そのまま講堂を出ていく。凛は、神代の背中を最後まで見送った。


 僕と玲奈が近づくと、いつもの笑顔を作った。口元だけが先に上がり、目元は遅れた。


「負けちゃったね」

「あなたの選手が勝ちました」


 玲奈の声には、祝福も非難もない。


「うん」

「喜ばないのですか」

「喜ぶべきだよね」

「べき、ですか」


 凛は答えない。鞄から銀色の端末を出した時、画面が自動点灯した。


『未承認送信 一件』


 凛の手が、画面を伏せようとする。その前に一文が見えた。


 ――白鳥凛さんが自分の意思であなたの記録係を辞めると決めた時、あなたは彼女を引き止めますか。


 昨日、生徒会室の扉越しに見たものと同じ。僕が玲奈へ見せる前の候補質問。


「端末を見せてください」

「相馬くん」

「見せてください」


 凛は数秒、端末を胸元へ引き寄せた。やがて、机へ置く。


 送信履歴が並んでいた。転入初日の公開対局。


 玲奈の生体IDが仮登録された時刻。契約前の私的対局。


 僕が食堂でメニューを選べなかった時間。幸福を問うた時のTRUE判定。


 紬の対局で玲奈が捨てた質問。蓮戦で漏らした三枚の偽質問。


 猫動画を繰り返し見た回数。僕が「勝ちたい」と言った時の脈拍。


 玲奈が苺プリンの最後の一口を残した秒数。そして、今日の候補質問。


 対局だけではない。僕たちが交わした言葉。


 迷った時間。選んだもの。


 選ばなかったもの。全部、外へ送られている。


 宛先は文字化けしていた。読めるのは先頭だけ。


『特別研究監理――』

「いつからです」


 凛は答えない。


「僕が転入する前からですか」


 ストローの袋を折る時と同じように、彼女の右手が端末の縁を二度なぞる。


「答えられない」

「答えられないのではなく、答えないんでしょう」

「……そうかもしれない」


 曖昧な言い方。自分のことだけ、いつも曖昧になる。


 胸の奥で、対局の敗北とは別の熱が広がった。僕たちの質問は読まれていた。


 玲奈が何を捨て、何を選ぶかも。凛は笑いながら近づき、その全部を記録していた。


「あなたは、僕たちを裏切った」


 凛の肩が小さく揺れる。


「事実です」


 玲奈が端末の横へ指を置いた。


「送信したことは」

「なら、裏切り者です」


 言い切った瞬間、掌の傷がまた痛んだ。凛は否定しなかった。


 肯定もしなかった。画面の隅に、送信時刻が出ている。


 十七時十一分。僕が候補カードを保存した時刻は、十七時十二分だった。


 一分。講堂の時計と、同じずれ。


「凛さんが何をしたかは確認できます」


 玲奈は、僕ではなく送信履歴を見たまま言う。


「ですが、なぜしたのかは、まだ聞いていません」

「命令でも事情でも、送った結果は同じです」

「結果が同じなら、答えも同じですか」


 たった今の対局が、そのまま返ってくる。大切なら引き止める。


 送信したなら裏切りたい。僕はまた、一つの行動から一つの感情だけを選びかけている。


 それでも怒りは消えなかった。消す必要があるとも思えなかった。


 玲奈が、ようやく僕へ顔を向ける。


「彼女の答えまで、あなたが決めないでください」

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