第12話 砂糖三本と苺プリン(前)
白鳥凛は、他人の飲み物を一度も間違えなかった。
「玲奈ちゃんは無糖の紅茶。冷たすぎると咳が出るから常温」
生徒会室の机に、紙カップが置かれる。
「相馬くんは水。コーヒーだと考えすぎて眠れなくなるし、甘いものは自分で選べないから後で困る」
「最後の情報は、どこから」
「昨日、売店で五分くらい飲み物を見てたよね」
「見ていたんですか」
「通りかかっただけ」
凛は笑い、三つ目のカップを神代司の前へ置く。
「司くんはブラック」
「ありがとう」
「私は?」
「冷蔵庫にある」
神代は書類から目を上げずに答えた。凛が生徒会室の小型冷蔵庫を開く。
取り出したのは、紙パックのレモンティーだった。
「今日はこれなんだ」
「先週のミルクティーは半分残した。炭酸は会議中に向かない。残りで最も無難だ」
「私の分まで分析済みなんだね」
「記録係の体調管理だ」
凛は笑ってストローを刺した。自分の飲み物だけは、最初から神代に選ばせた。
皆の好みは覚えている。僕が選べないことまで、一度見ただけで覚えている。
なのに自分の分は、「何がいい」とも「何を飲みたい」とも言わない。神代が選んだものを、今日の正解として受け取る。
「王冠戦勝利のお祝いなんだから、少しくらい乾杯しようよ」
凛が紙パックを持ち上げる。
「水と常温紅茶とブラックコーヒーでですか」
「飲み物の種類に統一性は必要ないよ」
「会議は十五分後に始める」
神代の一言で、凛はレモンティーを下ろした。
「はいはい、副会長」
不満そうな声。でも、反論はしない。
神代はブラックコーヒーへ口をつけた。眉一つ動かさない。
僕たちが次戦の資料へ目を落とした後、彼は机の陰で砂糖の小袋を開けた。一つ。
二つ。三つ。
全て、ブラックコーヒーへ入れる。
「それをブラックと呼ぶんですか」
僕が聞くと、神代の手が止まった。
「注文時点ではブラックだ」
「飲む時点では違います」
「名称は提供形態に対してつけられる」
「甘いものが好きだと言えばいいでしょう」
「その情報は、次の質問設計に必要か」
「今、必要になりました」
神代は四つ目の砂糖へ伸ばしかけた手を引いた。凛が声を立てて笑う。
「相馬くん、司くんの秘密を一日で見つけたね」
「秘密ではない」
「みんなの前では一回も入れないのに?」
「会議中の糖分補給だ」
「三本も?」
「脳の消費量に比例している」
真顔だった。玲奈が紅茶を置く。
「神代先輩。砂糖の本数と演算能力に相関があるなら、論文を提出してください」
「君まで乗るのか」
「統計的に興味があります」
玲奈の声は普段どおりだった。ただし机の下では、購買の透明な袋を隠している。
袋の中身は、一個百二十円の苺プリン。生徒会室へ入る直前、彼女が自分で買った。
高級な焼菓子も、栄養管理室の指定デザートも選ばず、迷わず一番安い苺プリンを取った。僕が見ていることに気づくと、袋を背中へ隠した。
転入初日のカプセルトイ以来、成長していない。
「九条さん」
「何です」
「袋が机の下から見えています」
玲奈の右手が動く。袋を膝の上へ引き上げた。
「これは、王冠戦参加者向けの価格調査です」
「購買価格は端末で見られます」
「価格と満足度の相関調査です」
「食べたいだけでは」
「違います」
「今、少し早口でした」
「対局外の観察を勝手に判定へ使わないでください」
凛が僕たちを見て、にやりと笑う。
「玲奈ちゃん、相馬くんの前だと分かりやすくなったね」
「なっていません」
「前は、苺プリンを買う時も生活管理室へ『糖質補給』って申請してたのに」
玲奈の動きが止まる。
「凛」
「ごめん、これ秘密だった?」
「今、秘密ではなくなりました」
玲奈は袋を机の上へ出した。隠すのを諦めたらしい。
「相馬くん」
「はい」
「半分、食べますか」
「一個しかありません」
「分ければいいでしょう」
「調査では?」
「標本は、複数人の方が有効です」
また、理由を正しさへ変えた。でも以前と違うのは、最初から自分で買ったことだ。
「食べます」
「即答ですね」
「あなたが望む答えではなく、僕が甘いものを食べたいだけです」
「甘いものは選べないと、凛が」
「苺プリンなら、もう選ばれています」
凛が予備のスプーンを一本出した。玲奈はカップの中央へまっすぐ線を入れ、僕へ半分を寄せる。
食べ終わる頃、底に一口だけ残った。玲奈はスプーンを入れず、カップを九十度回す。
もう一度、回す。
「最後の一口が嫌いなんですか」
「量的偏りの確認です」
「何と何の」
玲奈は答えず、苺の欠片が乗ったスプーンを僕へ向けた。質問を続ければ刺す、という意味らしい。
「対局外で物理的圧力を使わないでください」
「黙ってください」
最後の一口を食べた後、玲奈は少しだけ笑った。今度は、咳でごまかさなかった。
生徒会室へ来る途中でも、玲奈は一つ、自分で選んでいた。蓮戦の勝利が校内配信された直後、中央廊下で六つの部活に囲まれたのだ。
弁論部、競技研究会、フェンシング部、演劇部、情報処理部、そしてなぜか園芸部。
「九条さんなら、どの大会でも主将待遇です」
「週一回だけでも構いません」
「兼部制度があります」
全員、玲奈にとって得になる条件を並べる。断る理由なら、すぐ作れた。
王冠戦の対局準備。医療室の予定。理事長から指定された帰寮時刻。僕が一言添えれば、勧誘は終わる。
口を開きかけて、閉じた。玲奈は誰かの背中へ隠れなかった。
勧誘資料を一枚ずつ受け取り、六人全員の顔を見た。
「申し出には感謝します。ただし、いずれにも入りません」
「今決めなくても」
「見学だけなら」
「今、決めました」
断定した声でも、相手は退かなかった。そこで初めて、玲奈が僕ではなく廊下の時計へ視線を移した。
「公開資料の閲覧予約まで、あと九分です」
僕は事実だけを出した。
「九条選手の返答は記録済みです。続きは正式な勧誘申請でお願いします」
六人が道を空ける。玲奈はその間を歩き出し、三歩先で足を止めた。
「すぐに助けると思いました」
「あなたが断る前に僕が断れば、僕の答えになります」
「紬さんの対局一度だけで、よく学びましたね」
「同じ種類の敗北は避けたいので」
「負けず嫌いを、成長と呼び替えていますか」
「今のところは」
玲奈は前を向いたまま、歩く速度を少しだけ落とした。僕が横へ並べる程度に。
* * *
生徒会室へ呼ばれた理由は、祝いではない。次戦相手である神代の公開資料を、その本人立会いで確認するためだった。
王冠戦では、対局に関係する契約、過去記録、回答履歴が双方へ開示される。後から「知らない情報で勝敗が決まった」と争わないためだ。
神代の公式成績は、九十八勝二敗。質問設計の傾向は、選択肢の削減。
たとえば回答者へ、こう問う。
――あなたは、今の秘密を守るためなら、推薦枠を失っても構いませんか。
秘密を守ると答えれば、推薦への執着を否定する。守らないと答えれば、公開の場で秘密を捨てる覚悟を示す。
どちらを選んでも、相手が守りたいものの順位が露出する。僕と似ている。
違うのは、神代が迷いを見せないことだった。
「あなたは、回答者の感情を考慮しないのですか」
玲奈が過去記録を閉じる。
「考慮する。感情も選択条件の一つだ」
「条件の一つ?」
「大切だから守る。嫌いだから捨てる。人間はそれほど単純ではない」
神代は僕を見る。
「感情を知っただけで、行動まで知ったつもりになる記録係もいるが」
「桐生戦のことですか」
「君は、桐生がゲームを好きだと読んだ。だから彼が『いいえ』と答えると読んだわけではない」
「感情を隠す立場を守ると読んだ」
「そこまでは正しい」
「次は違うと?」
「僕が誰かを大切にしていると知っても、僕がその人のために何をするかまでは分からない」
神代の視線が、凛へ一瞬だけ移った。凛はレモンティーを飲みながら、対局記録を書いている。
さっきまでの笑顔は消えていた。紙の上を走る字は小さく、速い。
発言者、時刻、言葉、視線の移動。僕が水へ手を伸ばした回数まで書いてある。
「そこまで記録するんですか」
声をかけると、凛はすぐ笑顔へ戻った。
「癖は質問より先に答えを教えることがあるからね」
「桐生と同じことを言いますね」
「私は全部予測できるなんて言わないよ。外した記録も残す」
彼女の足元には、厚い記録帳が積まれていた。表紙に落書きがある。
鳥、猫、砂糖袋。神代らしい無表情な顔へ、勝手に王冠が描き足されている。
「それは対局資料ですか」
「一年の時の失敗帳」
凛が答えるより先に、神代が一冊を取った。
「廃棄予定だ」
「嘘。司くん、三年間ずっと持ってる」
「参考記録だからだ」
「私が最初に作った質問、『好きなパンは焼きそばパンですか』だよ?」
「初心者が、質問を質問のまま終わらせる失敗例として有用だ」
そう言いながら、神代は記録帳の折れた角を指で直した。捨てる予定のものへする動作ではなかった。
凛も、それを分かっている顔で笑う。神代は凛を大切にしている。
それは、質問を作るまでもなく見えた。




