バスの窓から見えるベランダ
恋が終わっても、世界は何も変わらなかった。
朝は来る。
大学へ向かうバスは時間どおりに走る。
街の景色も、駅前のコンビニも、信号の長さも変わらない。
変わったのは、私だけだった。
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大学へ行くために乗るバスには、一つだけ嫌いな場所があった。
正確には、嫌いになってしまった場所。
窓の外に見える、あのマンション。
その一室のベランダ。
ほんの数秒しか見えない。
バスが交差点を曲がる、その一瞬だけ。
それなのに、私は毎朝そこを見てしまう。
「今日はいるかな。」
そんなことを思っている自分に気づいて、苦笑いする。
いるわけがない。
いても、私には関係ない。
頭では分かっている。
それでも、目だけは勝手に探してしまう。
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最初の頃は、本気で期待していた。
もし偶然会えたら。
もし目が合ったら。
もし「久しぶり」と笑ってくれたら。
そんな都合のいいことばかり考えていた。
でも現実は、そんなに優しくない。
何日見ても、何週間見ても、何も起こらない。
ただベランダだけが静かにそこにある。
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私は、会いたかったんだろうか。
何度も自分に問いかけた。
答えは、毎回違った。
「会いたい。」
そう思う日もあれば、
「会わない方がいい。」
そう思う日もある。
矛盾している。
でも、人の気持ちはいつだって矛盾している。
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友達に聞かれたことがある。
「もし街でばったり会ったらどうする?」
私は少し考えて、
「多分、話しかけない。」
そう答えた。
本当にそう思った。
突然会うのは違う。
心の準備ができていない。
きっと笑えない。
きっと泣いてしまう。
でも。
「会おう。」
そう約束されたら話は別だった。
ちゃんと約束をして。
ちゃんと向き合って。
最後に話ができるなら。
そういう想像だけは、何度もしてしまった。
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夜になると、スマートフォンの写真フォルダを開く。
消せない写真。
消せない動画。
二十秒しかない、何気ない動画。
「そんな撮るなって。」
照れくさそうに笑う声。
その横で笑っている私。
たった二十秒。
でも、その二十秒には、何時間もの幸せが詰まっていた。
動画が終わる。
また再生する。
気づけば何度も繰り返している。
前へ進みたいと思っているのに、自分から過去へ戻っていた。
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ある夜、夢を見た。
彼の部屋だった。
いつものソファ。
テレビから流れる動画。
コンビニの袋。
「今日何食べる?」
彼がそう聞く。
私は笑って答える。
夢の中では、何も終わっていなかった。
目が覚める。
天井が見える。
静かな部屋。
一人分しかない布団。
現実は容赦なく戻ってくる。
夢の中の幸せが大きいほど、朝は苦しかった。
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「なんでこんなに引きずってるんだろう。」
それが分からなかった。
数か月しか付き合っていない。
もっと長く付き合った人もいた。
もっとひどい別れ方をしたことだってある。
それなのに。
今回だけは違った。
傷が深いわけじゃない。
思い出が多いわけでもない。
なのに、一番忘れられなかった。
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ある日、ふと気づく。
私は彼を美化している。
嫌だったこともあった。
価値観が違うこともあった。
このまま付き合い続けても、きっと問題はたくさんあった。
幸せだけじゃなかった。
それはちゃんと分かっている。
だから、復縁すれば幸せになれるとは思っていない。
同じことを繰り返すだけかもしれない。
また泣くかもしれない。
その未来は、想像できてしまう。
それでも。
それでも私は、あの日々を恋しく思ってしまう。
⸻
ある日の帰り道。
大学からのバスに揺られながら、私はまた窓の外を見ていた。
ベランダが見える。
今日も誰もいない。
不思議と、その日は少しだけ安心した。
もし誰かがいたら。
もし新しい生活が見えてしまったら。
私はどんな顔をしていただろう。
そんなことを考えてしまった。
⸻
私は戻りたいわけじゃない。
いや。
本当は戻りたい。
でも、戻れないことも知っている。
だから苦しい。
「あの日に戻れたら。」
何百回そう願っただろう。
たとえ結末が同じでもいい。
また同じように傷つくとしてもいい。
もう一度だけ。
彼の部屋で何も考えずに笑いたかった。
ソファに寝転んで。
くだらない動画を見て。
「眠い。」
そう言って昼寝をして。
夕方になって。
「お腹空いたね。」
そんな当たり前を、もう一度だけ。
⸻
バスが交差点を曲がる。
ベランダは視界から消えた。
ほんの数秒。
それだけの景色なのに、一日中頭から離れない。
私はようやく気づき始めていた。
執着しているのは、彼だけじゃない。
あの頃の自分。
誰かを信じられていた自分。
未来を疑っていなかった自分。
何も起きない一日を「幸せ」と思えた自分。
本当に探していたのは、その私だったのかもしれない。
バスは大学へ向かって走り続ける。
時間は止まらない。
季節も変わっていく。
それでも私の心だけが、あの日のベランダの前で立ち止まったままだった。




