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5/7

バスの窓から見えるベランダ

恋が終わっても、世界は何も変わらなかった。


朝は来る。


大学へ向かうバスは時間どおりに走る。


街の景色も、駅前のコンビニも、信号の長さも変わらない。


変わったのは、私だけだった。



大学へ行くために乗るバスには、一つだけ嫌いな場所があった。


正確には、嫌いになってしまった場所。


窓の外に見える、あのマンション。


その一室のベランダ。


ほんの数秒しか見えない。


バスが交差点を曲がる、その一瞬だけ。


それなのに、私は毎朝そこを見てしまう。


「今日はいるかな。」


そんなことを思っている自分に気づいて、苦笑いする。


いるわけがない。


いても、私には関係ない。


頭では分かっている。


それでも、目だけは勝手に探してしまう。



最初の頃は、本気で期待していた。


もし偶然会えたら。


もし目が合ったら。


もし「久しぶり」と笑ってくれたら。


そんな都合のいいことばかり考えていた。


でも現実は、そんなに優しくない。


何日見ても、何週間見ても、何も起こらない。


ただベランダだけが静かにそこにある。



私は、会いたかったんだろうか。


何度も自分に問いかけた。


答えは、毎回違った。


「会いたい。」


そう思う日もあれば、


「会わない方がいい。」


そう思う日もある。


矛盾している。


でも、人の気持ちはいつだって矛盾している。



友達に聞かれたことがある。


「もし街でばったり会ったらどうする?」


私は少し考えて、


「多分、話しかけない。」


そう答えた。


本当にそう思った。


突然会うのは違う。


心の準備ができていない。


きっと笑えない。


きっと泣いてしまう。


でも。


「会おう。」


そう約束されたら話は別だった。


ちゃんと約束をして。


ちゃんと向き合って。


最後に話ができるなら。


そういう想像だけは、何度もしてしまった。



夜になると、スマートフォンの写真フォルダを開く。


消せない写真。


消せない動画。


二十秒しかない、何気ない動画。


「そんな撮るなって。」


照れくさそうに笑う声。


その横で笑っている私。


たった二十秒。


でも、その二十秒には、何時間もの幸せが詰まっていた。


動画が終わる。


また再生する。


気づけば何度も繰り返している。


前へ進みたいと思っているのに、自分から過去へ戻っていた。



ある夜、夢を見た。


彼の部屋だった。


いつものソファ。


テレビから流れる動画。


コンビニの袋。


「今日何食べる?」


彼がそう聞く。


私は笑って答える。


夢の中では、何も終わっていなかった。


目が覚める。


天井が見える。


静かな部屋。


一人分しかない布団。


現実は容赦なく戻ってくる。


夢の中の幸せが大きいほど、朝は苦しかった。



「なんでこんなに引きずってるんだろう。」


それが分からなかった。


数か月しか付き合っていない。


もっと長く付き合った人もいた。


もっとひどい別れ方をしたことだってある。


それなのに。


今回だけは違った。


傷が深いわけじゃない。


思い出が多いわけでもない。


なのに、一番忘れられなかった。



ある日、ふと気づく。


私は彼を美化している。


嫌だったこともあった。


価値観が違うこともあった。


このまま付き合い続けても、きっと問題はたくさんあった。


幸せだけじゃなかった。


それはちゃんと分かっている。


だから、復縁すれば幸せになれるとは思っていない。


同じことを繰り返すだけかもしれない。


また泣くかもしれない。


その未来は、想像できてしまう。


それでも。


それでも私は、あの日々を恋しく思ってしまう。



ある日の帰り道。


大学からのバスに揺られながら、私はまた窓の外を見ていた。


ベランダが見える。


今日も誰もいない。


不思議と、その日は少しだけ安心した。


もし誰かがいたら。


もし新しい生活が見えてしまったら。


私はどんな顔をしていただろう。


そんなことを考えてしまった。



私は戻りたいわけじゃない。


いや。


本当は戻りたい。


でも、戻れないことも知っている。


だから苦しい。


「あの日に戻れたら。」


何百回そう願っただろう。


たとえ結末が同じでもいい。


また同じように傷つくとしてもいい。


もう一度だけ。


彼の部屋で何も考えずに笑いたかった。


ソファに寝転んで。


くだらない動画を見て。


「眠い。」


そう言って昼寝をして。


夕方になって。


「お腹空いたね。」


そんな当たり前を、もう一度だけ。



バスが交差点を曲がる。


ベランダは視界から消えた。


ほんの数秒。


それだけの景色なのに、一日中頭から離れない。


私はようやく気づき始めていた。


執着しているのは、彼だけじゃない。


あの頃の自分。


誰かを信じられていた自分。


未来を疑っていなかった自分。


何も起きない一日を「幸せ」と思えた自分。


本当に探していたのは、その私だったのかもしれない。


バスは大学へ向かって走り続ける。


時間は止まらない。


季節も変わっていく。


それでも私の心だけが、あの日のベランダの前で立ち止まったままだった。

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