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何も起きない幸せ

幸せは、特別な日にあるものだと思っていた。


夜景の見えるレストラン。


誕生日のサプライズ。


記念日のプレゼント。


ドラマみたいな告白。


そういうものが恋なんだと、ずっと思っていた。


でも、本当に好きになった人との時間は、驚くほど何も起きなかった。



「今日、何してる?」


その一言から始まる日が増えた。


「暇だよ。」


「じゃあおいで。」


それだけだった。


約束というほど大げさでもない。


待ち合わせをするわけでもない。


私はいつもの道を歩いて、彼の部屋へ向かう。


インターホンを押す前に、ドアが開くこともあった。


「早かったじゃん。」


「近かったから。」


そんな何気ない会話が、心地よかった。



部屋へ入ると、テレビがついている。


でも、誰もちゃんと見ていない。


ソファに座って、スマホを触る。


彼はゲームをしたり、動画を流したりしている。


会話がなくても気まずくない。


無理に話題を探さなくてもいい。


沈黙が苦にならない相手なんて、初めてだった。


「お腹空いた?」


「ちょっと。」


「コンビニ行く?」


「行く。」


財布だけ持って外へ出る。


夜風は少し冷たくて、並んで歩く道は静かだった。


コンビニで新発売のお菓子を見つけて笑ったり、お互いに「これ美味しそう」と言い合ったり。


買ったものを袋に詰めてもらって、また二人で帰る。


それだけなのに、楽しかった。



「今日ご飯どうする?」


「何でもいいよ。」


「一番困るやつじゃん。」


そう言って笑う彼に、「じゃあパスタ」と答える。


冷蔵庫の中身を確認して、足りないものだけ買いに行く。


料理は得意じゃない。


失敗する日もある。


少し味が濃かったり、麺が柔らかすぎたり。


それでも彼は、


「普通に美味しい。」


と言って食べてくれた。


その「普通に」が嬉しかった。


無理に褒めている感じがしなかったから。



食べ終われば、二人で食器を片付ける。


じゃんけんで負けた方が洗う日もあれば、一緒に立つ日もあった。


水の音だけが流れるキッチン。


その時間さえ愛おしかった。


恋って、もっとドキドキするものだと思っていた。


でも私が好きだったのは、安心だった。


「ここにいていいんだ。」


そう思える場所があること。


それが何より幸せだった。



ソファで動画を流す。


面白い動画を見つけると、


「これ見て。」


とスマホを差し出してくる。


笑いのツボは少し違うのに、一緒に笑っていると、いつの間にか同じところで笑っていた。


気づけば夕方。


気づけば夜。


時計を見るたび、


「もうこんな時間?」


と言っていた。


時間が早く過ぎる日は、決まって楽しい日だった。



眠くなると、どちらからともなく横になる。


「ちょっとだけ寝る?」


「うん。」


カーテンの隙間から差し込む光。


エアコンの小さな音。


彼の寝息。


その全部が心地よくて、私もすぐに眠ってしまう。


目が覚めると、夕焼けが部屋をオレンジ色に染めていた。


「寝すぎた。」


彼が笑う。


「ほんとだ。」


私も笑う。


それだけだった。


でも、その時間が好きだった。


何も考えなくていい。


将来のことも、お金のことも、大学のことも。


その部屋にいる間だけは、全部忘れられた。



彼は、必要以上に優しい人ではなかった。


甘い言葉をたくさん言う人でもない。


記念日を大切にするタイプでもなかった。


だからこそ、一緒にいられることが特別だった。


隣に座る距離。


何気なく名前を呼ばれること。


「おかえり。」


「またね。」


そんな短い言葉が、胸の奥に積もっていく。



ある日の帰り道。


私はふと思った。


「このままずっと続けばいいのに。」


口には出さなかった。


幸せな時ほど、未来の話をすると壊れてしまいそうだったから。


だから私は、その日を大切にした。


今日笑えた。


今日会えた。


今日、一緒にご飯を食べられた。


それだけで十分だと思っていた。



今になって思う。


私が恋をしていたのは、特別な思い出じゃない。


部屋に差し込む夕日。


スーパーのレジ待ち。


コンビニまで歩く夜道。


くだらない動画を見て笑った時間。


隣で眠る穏やかな午後。


そんな「何も起きない日々」だった。


人は、大きな出来事を忘れなくなるんじゃない。


何気ない日常が、もう二度と戻らないと気づいた時、それは一生忘れられない思い出になる。


あの頃の私は、それをまだ知らなかった。

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