笑顔にも時給がある
夜の街は、不思議だ。
昼間とは違う顔をしている。
駅前を歩く人の足取りは少しだけ軽くなって、ネオンは太陽よりも街を明るく照らす。
その光の中へ吸い込まれるように、私は今日も店へ向かった。
バッグの中には大学の教科書。
ロッカーにはドレスとヒール。
昼と夜。
私は毎日、その二つの世界を行き来していた。
「おはよう。」
夕方なのに、店ではそう挨拶をする。
更衣室には先に出勤していた女の子たちがいて、鏡の前で髪を整えたり、リップを塗り直したりしていた。
「今日暇かなあ。」
「給料日前だから微妙じゃない?」
そんな会話が飛び交う。
私は笑って相づちを打ちながら、静かにドレスへ着替えた。
鏡に映る自分は、大学へ行く私とは別人だった。
少し濃いメイク。
巻いた髪。
華やかなアクセサリー。
どれも本当の私ではない。
だけど、この姿になれば「頑張れる私」になれる気がした。
「今日もよろしくね。」
店長の声で営業が始まる。
扉が開くたび、お客さんが入ってくる。
「こんばんは。」
その一言と一緒に、私は笑顔を作る。
笑顔は癖になっていた。
面白くなくても笑う。
疲れていても笑う。
悲しくても笑う。
笑えば場が和む。
笑えば指名につながる。
笑えば、また明日も生活できる。
それが、この仕事だった。
「大学生なんだって?」
「はい。」
「先生になるの?」
その質問をされるたび、少しだけ言葉に詰まる。
「なれたらいいなって思ってます。」
嘘ではない。
でも、自信を持って言える夢でもなくなっていた。
朝起きられない日が増えた。
講義へ行けない日も増えた。
レポートの締め切りに追われながら、夜は働く。
家に帰る頃には日付が変わっていて、お風呂に入る気力もなく、そのまま眠ってしまうこともあった。
朝になれば、目覚ましだけが何度も鳴る。
止めて、眠る。
止めて、眠る。
気づけば一限は終わっていた。
「また休んじゃった。」
そんな日が少しずつ増えていった。
だけど、休めばお金は増えない。
大学へ行けば働ける時間が減る。
働けば勉強する時間が減る。
何かを選べば、何かを諦めるしかなかった。
一人暮らしは自由だと思っていた。
好きな時間に寝て。
好きなものを食べて。
好きなように生きられる。
そう思っていた。
でも実際は違った。
家賃。
光熱費。
携帯代。
食費。
カードの支払い。
銀行口座からお金が減っていく通知を見るたび、胸が苦しくなる。
「あと一日、多く出勤できない?」
店長の言葉に、
「はい。」
と答えるしかなかった。
本当は休みたかった。
一日くらい何もしない日が欲しかった。
でも、その一日は数千円の価値がある。
私には、その数千円を手放す余裕がなかった。
夜の仕事をしていることを、友達には詳しく話していない。
偏見があることくらい知っている。
かわいそうだと思われるのも嫌だった。
だから「バイトしてるよ。」とだけ言う。
それで十分だった。
帰り道。
ヒールを脱ぎたくなるくらい足が痛い。
コンビニで割引シールの貼られたお弁当を買って、静かな部屋へ帰る。
「ただいま。」
返事はない。
部屋は朝出た時のまま静まり返っている。
制服もドレスも脱ぎ捨てて、床に座る。
ようやく今日が終わった。
そう思った瞬間、急に涙が出た。
何が悲しいのかは、自分でも分からない。
誰かに怒られたわけじゃない。
嫌なことがあったわけでもない。
それでも涙は止まらなかった。
「疲れたな……。」
その一言を口にすると、部屋の静けさが少しだけ優しくなった。
スマートフォンの画面には、何件か通知が来ていた。
大学からのお知らせ。
アルバイトのシフト連絡。
母からの『元気?』という短いメッセージ。
私は少し考えてから、『元気だよ。』とだけ返信した。
本当は元気じゃない。
でも、「元気じゃない」と打ってしまえば、母はきっと心配する。
遠く離れた地元から、すぐに来られる距離じゃない。
だから嘘をつく。
大丈夫。
ちゃんとやってるよ。
そう言い聞かせるように。
その夜、ベッドへ入っても眠れなかった。
天井を見つめながら思う。
私は何のために頑張っているんだろう。
先生になるため?
生きるため?
借金を返すため?
答えは見つからない。
それでも朝は来る。
目覚ましは鳴る。
私はまた笑う。
笑顔にも時給がある。
そして、その笑顔だけが、明日を生きるためのお金に変わっていくのだった。




