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若い兵士は潜望鏡のハンドルを握り、ゆっくりと視界を艦橋方向へ向けた。
「……いた。ハッチのすぐそばだ。背を向けている」
ヴァルターが潜望鏡を覗くと、薄暗い緑色の司令塔の中に潜望鏡の十字線の真ん中に、フリンツの背中が映る。波飛沫でレンズが濡れ、時折ゆがむ視界のなかで、
襟足の震えまでが見て取れた。
発令所の喧騒は遠のき、主人公の耳には自分の心拍音と、潜望鏡が回転する小さな機械音だけが響いている。
「ブロー開始!」
兵士の声で、艦内に鼓膜を圧迫するような轟音が響き、逃げ場を失った数千ポンドの圧縮空気が、司令塔へと殺到する。
背後で高圧配管が弾け飛び、白濁した気泡と猛烈な水圧が、狭い室内で爆発的に
膨れ上がる。次の瞬間、ロックが吹き飛び、折れ曲がったフリンツの身体は
魚雷のように深海へと吸い出された。
一筋の影が気泡の中に消えた後、潜望鏡は空になった司令塔の縁を映していた。
「司令塔区画を封鎖。
タンクに圧縮空気を送れ。全速浮上だ」
機関長の号令とともに、艦内に凄まじい排気音が響き渡る。
バラストタンクから水が押し出され、艦体は重い枷を外された獣のように急角度で上昇を開始した。やがて、艦橋の上で低く唸りを立てていた海水が、激しい飛沫とともに左右へ割れる。
ヴァルターは海水が滴るハッチを押し開け、甲板へ躍り出た。
夜の黒海は不気味なほど静まり返り、遠く沿岸に微かな灯火が見える。
「救難信号を送れ。国際周波数だ。我々はドイツ海軍潜水艦、現在位置を伝えろ」
もはや潜行能力を失ったUボートに、隠れる術はない。
「注水弁開放! 爆薬準備!」
艦底からゴボゴボと空気が漏れる不気味な音が響くなか、兵士たちは次々とゴム
ボートを膨らませ、漆黒の海へと身を投じた。機関長が最後に艦を離れた直後、
鈍い爆発音とともにUボートはその巨体をゆっくりと傾け、冷たい黒海の底へ
吸い込まれていった。
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