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「――艦橋を水没させる」
ハッチ脇の注水バルブへ手を伸ばした兵士を、ヴァルターが静かに押し留めた。
兵士が怪訝な顔で振り向くより早く、自らバルブに手をかける。
「フリンツ、最後だ。開けろ!」
返答の代わりに、内側から狂ったような笑い声が微かに漏れ聞こえた。
ヴァルターは表情を消し、全力でバルブを回した。
配管が悲鳴を上げ、凄まじい水圧とともに海水が艦橋内部へと流れ込み始めた。
金属扉の向こうで、激しい水音と、空気を求めてもがく鈍い音が重なり合う。
やがて、狂った笑い声は水に呑まれ、不気味な泡の音へと変わっていった。
排水ポンプが重低音を響かせ、艦橋内に溜まった死の水を吐き出していく。
水位が下がるにつれ、剥き出しになった計器類から滴る水音が、静まり返った室内で不気味なほど明瞭に響いた。
ヴァルターは濡れた手袋を脱ぎ捨て、重いハッチを蹴り開ける。
内部に充満していたのは、湿った鉄の錆び臭さと、潮水の混じった死の臭気だ。
足元の水溜まりを蹴立て、彼はタワーの底へと視線を落とす。
そこに、フリンツが転がっていた。
顔は溺死特有の土気色に変色し、見開かれた瞳には何の光も宿っていない。
指先は鋼鉄の壁を狂ったように掻き毟ったのか、爪が剥がれ、赤黒い筋が白い肌に無惨な模様を描いていた。
「……終わったぞ」
自分の声の無機質さに、ヴァルターは微かな戸惑いを覚えた。
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