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魔力の修練

 シノレは虫かごを開け、動かない虫を取りだす。そのまま手近な家具をよじ登り、窓の外に昆虫を放り投げた。虫ならまあ墜落死はしないし、ここにいるよりはましだろう。多分。

 小さな鳥や虫程度なら、窓越しに呼び寄せることもできる。だが動物は専ら、使用人に調達させることが多かった。お陰でここ数日、奇異の視線を浴びっぱなしだ。


『…………シノレ。汝は足を滑らせ落下した』

 ぐらりと、脳が揺れるような感覚。息が止まる。重心がぶれ、手足の位置がずれる。世界が歪み、知らない形に収束していくような気持ちの悪さ。

 声を上げる間もなく、シノレはあっさり床に転落した。受け身を取って起き上がりながら、どんよりと濁った目を蜥蜴に向ける。

 こうして術をかけられるのも、ここ数日で常態化しつつあった。嫌なら抵抗して見せろと言うことらしいが、抵抗の仕方が良く分からない。そんな様子がまた、蜥蜴を苛つかせるようだった。


『何を下らんことをしている。戻れ。続けるぞ』

「はい」

 それからも修業は続いた。シノレは言われるがまま、小部屋の動物たちに術をかけていく。しかし、結果はあまり良いものではなかった。

『……虫か、弱った小動物相手でやっとか。肥えた犬猫、果ては鼠にすら負けるとは何事だ』

「……すみません」


 ふわふわ浮く蜥蜴から、凄まじい侮蔑の視線を浴びながら、シノレは途方に暮れた。消耗が大きく、息が中々整わない。左親指の根元がちりちりと痛む。

 この術を使うには、対象との上下を確定し、自分の優位を確信しなければならないという。ここ最近修行しているシノレの体感でも、それは事実だと感じる。


 シノレだって、痛い思いをして喜ぶ趣味はない。できるものなら合格したいのだ。だができない。少なくない期間、最底辺の弱者として生きてきた本能がそれを許さない。

 他の生き物より自分が上位などと思える、その感覚が分からない。動物でも難しいのに、人間相手にそんな心持ちになれるはずがない。

 九月の後半はそんなシノレと、何とか修得させようとする蜥蜴のせめぎ合いで流れていたのだった。


「……ていうか、魔力を使うと魔獣が寄ってくるでしょう。そこは大丈夫なんですか」

『問題ない。元々南は魔獣が少ないし、余った分はその護符に吸わせていよう。それでも多少は漏れるだろうが、現時点では誤差の範疇に収まる』

 蜥蜴は淡々と答えて、念を押してきた。

『良いか。端女が到着するまでに干渉の術を修めろ。それが最初の課題だ。このままでは埒が明かんから、その指を賭すつもりで臨め。……幸いまだ九本あるしな』

 暗い部屋の中、指輪がほの白く輝く。親指がずきりと痛み、シノレは濁った目を伏せた。


 ――この時しっかりと考えていれば、シノレは気づけたはずだった。ここに留まり続けることの意味と危険性に思い至ることができたはずだった。嵐が来る前に逃げ出すなり、聖者と合流するなり――より良い対応が、前途が、きっと何通りもあったはずだった。けれどシノレは、騎士団が大きく揺れる直前、誰にとっても一番重要な時期を、指図されるまま修練に費やしてしまった。


 シノレは今だけを生きることに特化していた。己の立ち位置を考え、過去と今を分析し、先を見通す。そうしたことが極度に苦手だった。


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