得難きもの[捌]
【意匠】製品や作品のデザイン、装飾、またはそれらを作るための工夫や凝った趣向。
【豪奢】並外れて贅沢で、非常に華やかなこと。
【静謐】静かで落ち着いており、穏やかなこと。
【慇懃】非常に礼儀正しく、品があり、心がこもっていること。
兄さんに呼ばれて執務室の重い扉を押し開けると、まず目に飛び込んでくるのは、深い紺青のカーテンだった。
高い天井からは繊細な意匠の施された黄金のシャンデリアが対になって吊り下がり、部屋の隅々に潜む影を静かに照らしている。
部屋には、俺たちの関係性を物語るように二基の机が据えられていた。中央で圧倒的な存在感を放つのは、背もたれに豪奢な彫刻を施された椅子を従える、兄さんの机。
そして左手の格子窓の傍らには、もう一回り小ぶりで上品な造りの、俺のための机が静かに控えている。
幾何学模様の美しい絨毯が足元を覆い、中央の飾り棚に収められた古書や見慣れた魔術道具が、この部屋の持つ長い歴史と静謐な権威を無言で主張していた。
「兄さん、お呼びですか。」
「ノア来たか。さっそくで悪いが、この書類の整理を手伝ってくれるか?」
差し出されたのは、厚手の革のバインダーに綴じられた何枚もの羊皮紙だ。受け取る際に指先がかすかに触れ、彼の真剣な体温が伝わってくる。
「はい。すぐに取り掛かりますね。」
自分の机へと移動し、使い慣れた魔導筆を手に取る。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。窓の外の白い霧がゆっくりと濃くなっていくのを気にかける余裕もないほど、俺は作業に没頭していた。真剣に数値を書き足し、山積みの書類を分類していく。
部屋に響くのは、二人の魔導筆が走るカリカリという音と、時折重なる紙の乾いた擦れる音だけだった。
その静けさを破るように、突如として扉をノックする、規則正しい音が響いた。
「どうぞ。」
兄さんが視線を書類に落としたまま、落ち着いた声で返事をする。軋んだ音を立てて扉が開かれ、逆光の中にその姿が現れた。そこに立っていたのは、クローディアだった。
「これはこれは。第三皇女殿下ではございませんか。」
兄さんはすぐさま椅子から立ち上がると、流れるような美しい所作で一礼した。その声には、公爵家嫡男としての寸分の隙もない完璧な敬意が込められている。
「弟は只今、公務中でして……。よろしければ、こちらのソファにお座りになってお待ちください。お飲み物は何がよろしいですか?」
兄さんがクローディアの手をそっと取り、部屋の隅にある豪奢なソファへと案内しようとした、その時だった。クローディアがわずかに身を引き、兄さんの動きを優しく、だが明確に制止した。
「ラエル様、こんにちは。どうか私のことはお構いなく。……今日はノアに、少し言伝があって来ただけですから。」
彼女の言葉に、兄さんは表情ひとつ変えず、ただ深く頭を垂れる。
「左様でございますか。では私は仕事の続きをいたしますので、何かご入用であれば何なりとお呼びください。」
慇懃にそう告げると、兄さんは迷いのない足取りで中央の執務机へと戻り、中断していた魔導筆を再び走らせ始めた。
カリカリという音が、静まり返った部屋に再び響き出す。すると、クローディアは絨毯を踏みしめ、てくてくと俺の机の方へ寄ってきた。
「ノア。」
目の前まで来ると、彼女はわずかに腰を落とし、俺の耳元に顔を寄せた。背後の兄さんには決して聞こえぬよう、衣擦れの音にさえ気を配るような、極限まで声を潜めた囁き。
「——鍵が、手に入ったわ。」
その単語が鼓膜を震わせた瞬間、俺の心臓がバクンと、大きく跳ね上がった。全身の血がにわかに騒ぎ出すのを感じながらも、中央の机にいる兄さんに悟られぬよう、必死でいつもの表情の裏へと押し殺す。俺は手元の書類を凝視したまま、同じように声を低く潜めて返した。
「——っ! 分かった。もう少しで今の作業は終わるから、馬車で待っていてくれ。すぐに行く。」
俺の言葉に、クローディアは美しい笑みを微かに浮かべて、同意するように頷いた。そして、何事もなかったかのように踵を返すと、音もなく部屋を出て行った。
パタン、と重い扉が閉まる。残された執務室には、再び兄さんの魔導筆が紙を引っ掻く音だけが響いていた。俺は平静を装いながら、作業を再開させる。
——兄さんの魔導筆の音が心地よく響く中、俺は最後の一枚を仕分け終えた。机の上の書類を綺麗に揃え、ゆっくりと立ち上がる。
「兄さん、今の書類整理が終わったから、少し外出してきてもいいかな?もしかしたら、帰りも遅くなってしまうかもしれないんだけど。」
静寂を破った俺の声に、兄さんは手元の魔導筆を置き、こちらへ顔を向けながら穏やかに答える。
「——いいだろう。幸い、今急ぎの案件はないからな。」
兄さんは小さく微笑み、それから少しだけ真面目な顔になって続けた。
「だが、遅くなるというのなら心配だ。ゼノ先生かシヴァのどちらかを連れていきなさい。」
突き放すような冷たさは一切なく、純粋に俺の身を案じてくれているのが伝わってくる。だからこそ、これからクローディアと秘密の行動を起こそうとしている身としては、その優しさが少しだけ胸に痛んだ。
「分かった。先生かシヴァに今から時間があるか聞いてみるよ。」
俺は努めていつも通りの笑顔で答えた。整理の終わった書類の束を、兄さんの机の空いているスペースへ丁寧に置く。兄さんは「気をつけてな」と優しく声をかけて、再び書類へと視線を戻した。
部屋の隅のハンガーから上着を取り、袖を通す。執務室の扉を開けて廊下へ出た瞬間に、張り詰めていた緊張の糸が緩み、思わず小さな息が漏れた。クローディアの待つ馬車へ向かう前に、まずは兄さんとの約束を果たさなければならない。
俺は二人の予定を確認するため、屋敷の廊下を急いだ。幸いにも、最初に見つかったのはシヴァだった。声をかけると、彼女は片目を隠す黒髪の下で、双眸を冷静に瞬かせ、隙のない所作で頷いた。
「お供いたします、ノア様。」
頼もしい執事の快諾を得て、俺はシヴァを引き連れ、クローディアが待つ馬車へと足を速めた。
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