得難きもの[玖]
【客車】人間(旅客)を乗せるための車両のこと。
【煤竹色】赤みや黄みを帯びた、深い暗褐色。
【金泥】金粉を膠の水溶液で溶かした泥状の絵の具・インクのこと。
執務室を後にして屋敷の正面玄関を抜けると、すでにクローディアを乗せた馬車が待機していた。
俺はシヴァを伴って歩み寄り、御者に目配せをしてから客車の扉を開ける。先に俺が乗り込み、続いて小柄なシヴァが頭を下げて車内へ入ってきた瞬間、対面のシートに座っていたクローディアが目を丸くした。
「あ、れ……?シヴァ?一緒に行くの?」
驚きを隠せない彼女の声が漏れる。同時に、彼女の瞳が「え?計画は大丈夫なの?」と、無言の焦りを含んで俺を捉えた。
シヴァに秘密を知られるわけにはいかない。俺は平然とした態度を装い、クローディアに向かって苦笑してみせた。
「遅くなるなら安全のためにって、兄さんが。……神殿へ礼拝に行くだけだから、シヴァには馬車で待っていてもらうよ。」
「神殿への礼拝」という大義名分をその場ででっち上げ、視線だけで「合わせてくれ」とクローディアに伝える。すると、隣に座ったシヴァが、生真面目な顔で深く頷いた。
「はい、神殿の中はさすがに安全でしょうから、お二人で行ってきてください。私は周辺の警護のみに徹し、馬車でお待ちしております。」
疑う余地すらないといったシヴァの忠実な物言いに、クローディアは一瞬だけパチパチと瞬きをした。それから、すぐにいつもの落ち着きを取り戻して、小さく息を吐く。
「そうなのね。事情は分かったわ。——では参りましょう。」
車内には、どこか落ち着かない沈黙が流れていた。シヴァの手前、せっかくクローディアが手に入れてくれた鍵について、具体的な使い道の作戦を話すわけにはいかない。
クローディアは窓の外へと視線を向け、俺は手持ち無沙汰に自分の指に嵌められた指輪を眺めていた。彼女が持っている鍵の重みをすぐ近くに感じながら、二人の間で秘密の緊張感が静かに流れた。
そうして道中は特に目立ったトラブルもなく、馬車は目的地の皓白の神殿へと到着した。石造りの厳かな大扉が見え、馬車がゆっくりと速度を落としていく。
神殿に足を踏み入れてからは、驚くほど早かった。一度訪れたことのあるその場所で、俺たちはただ『見つからないこと』だけに全神経を研ぎ澄ませ、張り詰めた空気の中を影のように音もなく進んだ。
そうして、ついに最奥にある禁書庫の重厚な扉へと辿り着く。
「じゃあ、また開けるわね。」
クローディアが鍵を取り出し、そっと鍵穴へと差し込んだ。カチリ、と以前と同様に、鍵の回る音が静寂に響き渡る。直後、扉に刻まれた幾重もの魔導の紋様が明滅し、封印が解ける重々しい地鳴りが足元を激しく揺らした。
軋んだ音を立てて開いた扉の奥。視界に広がったのは、前に来た時と寸分違わない、圧倒的な『本の迷宮』だった。天井まで届く書棚が連なり、埃と古い紙の匂いが鼻腔をくすぐる。
俺たちは言葉を交わすことなく中に滑り込み、急ぎ目当ての『失われた種族』についての古文書を探し始めた。背表紙の文字を一つずつ指でなぞり、目を凝らす。
「——確かこの辺に……。あったわ!これよ!」
クローディアの抑えた、けれど興奮の滲む声が響いた。
彼女の手には、長年、囲炉裏の煙に燻され続けた竹のような、どこか翳りのある煤竹色の背表紙の本が握られていた。経年劣化で擦り切れたその革のタイトルには、金泥の文字でしっかりと『失われた種族』と刻まれている。
「まずは……そうだな。変異を止められる方法があれば知りたい。」
俺は、自分の握り締めた手を見つめながら呟いた。身体の奥で疼く不吉な衝動を、どうにかして抑え込みたかった。
「変異を止める方法ね。調べてみるわ。」
クローディアは真剣な面持ちで頷き、煤竹色の表紙を開いた。俺がヴァンパイアへと変異してしまうのを止めるような、そんな救いの文言を探して、彼女の指先が次々と古びた頁を捲っていく。
静まり返った禁書庫に、紙の擦れる乾いた音だけが不気味に木霊していた。だが、頁を捲るクローディアの手が、ある場所でピタリと止まった。彼女の表情が青ざめていく。しばらくの沈黙の後、クローディアは震える声でゆっくりと口を開いた。
「ノア、残念だけれど……変異を止めることはできない、と記されているわ。」
「……できない?」
「ええ。あなたは亜族だと言われ、亜族として育ってきたわ。それは間違いではないのだけれど……。段々と吸血鬼族化しているから『変異』だと感じているだけで、違うの。あなたは、生まれたその瞬間から吸血鬼族だったのよ。」
クローディアの言葉が、冷たい楔のように俺の胸に突き刺さる。
「身体に起きている変化は病でも呪いでもない。ただの、成長……。背が伸びることや、声が変わることと同じことだそうよ。成長を、止めることはできないわ。」
煤竹色の古文書を見つめたまま、クローディアは痛ましそうに顔を歪めた。自分の身体が別人になっていく恐怖と戦っていた俺に突きつけられたのは、それが『本来の自分自身』であるという、あまりにも残酷な真実だった。
「じゃあ……俺は血を飲む化け物になるしかないのか…。」
か細い声で呟いた俺を安心させるように、クローディアがそっと両手を包み込んでくれる。その手のひらは、今の俺にはこれ以上ないほど温かかった。
「ノア。貴方は化け物なんかじゃないわ。」
彼女は真っ直ぐに俺の瞳を見つめ、言い聞かせるように優しい言葉を紡ぐ。
「人間だって、他の動物や植物の命を奪って、その肉を喰らって生きているのよ。貴方の場合、それが同種の血だっていうだけ。……もし、相手の命を奪わずに済む手段があるのなら、むしろ人間よりもずっと高潔よ。」
「いや……!それでも……!」
そんな綺麗な理屈では、胸を埋め尽くす嫌悪感を消し去れなかった。クローディアの白い肌に触れている己の掌が、急に、穢らわしいものに思えてくる。呪われた血が巡っているこの手で、彼女の純潔を汚してはならない——。
咄嗟に手を引き剥がそうとしたが、クローディアは驚くほどの力で、頑なに俺の手を離さなかった。
「だめよ、ノア!私から離れようとするなんて絶対に許さないわ!」
それは悲愴な願いであり、離したくないという強い意志だった。
「私にとって貴方が亜族であっても吸血鬼族であっても、ノアはノアよ。今まで積み上げてきた日常も、貴方の心も、何一つ変わりはしないわ!」
「ディア……。」
「だから……もう一度本を読みましょう?私は貴方のことをもっと知りたいわ。貴方が背負うすべてを、一緒に分かち合いたいの。」
脳裏に様々な感情が渦巻く。恐怖、嫌悪、絶望。けれどその中心には、暗闇を照らす灯火のような彼女への、深い感謝があった。
——ここまで心を砕き、歩み寄ってくれる彼女のためにも、俺は現実から目を背けてはならない。これから己の身に起こる全てを、受け入れる覚悟を決めなければ。
「……分かった。読もう、その先を。」
その言葉にクローディアは頷き、再び頁を捲り始める。
「ええっと……そうね。いずれ、犬歯が伸びて二本の牙が生えてくるらしいわ。」
文章を追っていたクローディアが、ふと眉をひそめて顔を上げる。
「これは少し問題ね。私たちが天族の世界でこれからも暮らしていくには、周囲に露見しないよう、日々こまめに歯を削って隠さないといけないわ。」
あまりにも現実的で、少し突拍子もない彼女の対策に、張り詰めていた胸の痛みがほんの少しだけ和らぐ。
「それから……これを見て。吸血鬼族には『血冥魔法』という種族固有の魔法があるそうよ。肉体の成長に伴って、自然に扱えるようになるみたい。それに、身体能力の向上や魔力量の増加もあるみたいね。」
「血冥魔法……。」
「なんだか凄く強そうじゃない?頼りにしているわね、ノア。」
他者の血を飲むという未来には、依然として恐怖しか湧いてこない。けれど、俺よりも前を歩き、絶望を希望へと塗り替えようとしてくれるクローディアがいる。
その横顔を見ていると、俺自身もいつまでも俯いてはいられないと、凍りついた心が静かに熱を取り戻していくのを感じていた。
「あとはそうね……。不老らしいわよ。見た目の年齢が止まる頃合いは成長の速さにもよるけれど、大体二十歳前後みたい。」
「それはすごい。今まで聞いた中で一番嬉しい情報かもしれないな。」
思わず口元を綻ばせる。
「ふふっ、そうね。でも……私はこれからおばあちゃんになっていってしまうのに、なんだかノアだけずるい気がするわ。」
彼女はぷくっと頬を膨らませて、拗ねたように笑ってみせる。ランプの灯りに照らされたその横顔は、皮肉なほどにとても綺麗だった。
いつかシワが刻まれていく彼女。その隣で、自分だけが若さを保ち続ける光景が不意に脳裏をよぎり、胸の奥がチクリと痛む。しかし、クローディアはそんな俺の微かな感傷を吹き飛ばすように、弾んだ声で言葉を続けた。
「それに寿命も妖精族や龍族に負けないくらい長いそうよ!きっと千年くらいの長さなんでしょうね。天族も長いけれど、私とノア、どちらがより長生きかしら?」
「楽しみね」と、クローディアが無邪気に笑う。未来への純粋な期待に満ちたその瞳を見つめていると、彼女を置いていきたくない、あるいは置いていかれたくないという、名前のない切なさが静かに募っていく。
彼女は再び手元の本に視線を落とし、頁をそっと捲った。
「……これも大事ね。亜族より出現した吸血鬼族は『先祖還り』の一種であり、その最初の一人目を『始祖』——『ヴァンパイア・ロード』と呼ぶそうよ。」
一拍置き、彼女は文章をなぞるように読み上げる。
「また、『ヴァンパイア・ロード』のみが扱える魔術と契約により、他種族を『ヴァレンティス』または『グランティス』という二種類のどちらかの吸血鬼族に変えることができる、とも。」
「他種族をヴァンパイアに変える……か。」
俺はその言葉を頭で整理する。子孫を残せないという絶望の裏側にある、吸血鬼族としての生存戦略。部屋を満たす静寂の中で、俺は自分の掌を見つめながら、その重みについて思考を巡らせていた。
「——ノア!ヴァレンティスとグランティスが何かについても記載があるわ!」
古びた頁の記述を指先でなぞりながら、彼女が昂った声を上げた。
「その二つはなんなんだ?……どんな違いがある?」
俺はクローディアの手元を覗き込む。
「先にグランティスについての記述を読むわね。」
彼女は一度喉を鳴らし、薄く掠れた文字を読み解くようにして言葉を紡いだ。
「『グランティスはヴァンパイア・ロードの魔法によって心臓の位置に契約の刻印を刻まれた者を指す。契約を結んでも生まれ持った種族は変わらないが、その縛りにより吸血鬼族の特性である[吸血への渇望]を植え付けられる。血を飲まなければ生きていけない身体となるが、同時に吸血鬼族の特性である、身体能力の向上、魔力量の増加、不老長寿の恩恵を受けることができる。ただし……元々の種族自体は不変であるため、血冥魔法を扱うことはできない。ロードが死ぬと、契約によって伸ばした寿命が元に戻り、本来の寿命を過ぎている者は死す。』——そうよ。」
「——メリットとして『身体能力の向上』、『魔力量の増加』『不老長寿』が、デメリットとして『吸血への渇望』が植え付けられるのか。……じゃあ、もう一つのヴァレンティスは?」
「次はヴァレンティスについてね。こっちはかなり特別みたい。」
彼女は一つ一つを確かめるように語り出す。
「『ヴァレンティスは、ヴァンパイア・ロードの六人の妃を筆頭に、ロードを守るために存在する側近達のことである。ヴァンパイア・ロードの血を飲み、ロードの魔力を流し込む特別な儀式を行うことで、完全な吸血鬼族として変貌する。この場合は純潔のヴァンパイアとして生まれ変わるため、血冥魔法を扱えるようになる。ロードが死ぬと、直接血と力を分け与えられたヴァレンティスは灰となり地に還る。』……みたいよ。」
「……え?ちょっと待て。」
俺は思わず聞き返した。聞き捨てならない言葉が混ざっていた。
「ろ、六人? ……いま、六人の妃って言ったか?」
「そ、そう書いてあるわよ。あ、それについての理由も……こっちの頁に載ってるわね。」
彼女は慌てて次の頁を捲り、人差し指で文字を追う。
「『ヴァンパイア・ロードが出現するのは、魔物の力が強まり魔王が復活する時である。ロードは異なる種族の六人の妃を娶り、その血を摂取しつづけることで、強大な結界と力を手に入れ、魔王に対抗する力を得ることができる』……。そういうこと、だから六人も必要なのね。」
ノアは呆然と天を仰いだ。本に書かれたあまりにも身勝手で、あまりにも壮大なスケールに、頭痛がしてくる。
「……それって要するに、俺に『魔王と戦え』って、その本が暗に命令してるってことだよな?」
「そのようね……。どうやら、亜族ではなく、吸血鬼族だった、という単純な事実だけでは終わらないみたい。」
彼女は困ったように眉を下げ、ノアの顔を覗き込んだ。
「ここまでの情報だけでも頭が破裂しそうなのに、その上魔王と戦えとは……。ただの公爵家の次男には荷が重すぎる。」
目の前に突きつけられた過酷な運命の重さに、目眩すら覚える。押し潰されそうな胸を宥めるように、俺は深く、深く息を吐き出す。肺に溜まった熱をすべて吐き出しても、指先は冷え切ったままだ。
「今、そのすべてを受け入れる必要はないわ。あなたが歩むべき道は、誰かに決められるものじゃないもの。」
不意に、優しく、温かい感触が背中に触れた。クローディアがそっと隣に寄り添い、俺の背を手のひらでゆっくりとさすってくれる。服越しに伝わる彼女の体温が、波立つ俺の心を少しずつ凪いでいく。
「成長に伴って変わる変化は、止められないかもしれない。けれど……グランティスやヴァレンティス、そして魔王のこと。それは、これから二人でゆっくり考えていきましょう?」
ね?とのぞき込んできた彼女の瞳には、確かな深情と共にある種の覚悟が宿っていた。
「……そう、だな。悪い、少し混乱してた。とりあえず……今日はもう帰ろう。」
「ええ、そうしましょう。心を休めるためにも、これ以上の無理は禁物よ。」
クローディアは聖母のような微笑みを浮かべ、俺の言葉に深く頷いた。重苦しい空気が満ちていた禁書庫を後にし、俺たちはシヴァの待つ馬車へと向かう。
「おかえりなさいませ」と、いつもと変わらぬ調子で出迎えてくれたシヴァの顔を見て、ようやく日常に戻ってきた実感が湧いた。馬車は静かに走り出し、皇宮でクローディアを降ろした後、公爵家への帰路についた。
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