得難きもの[拾]
【ガゼボ】西洋の庭園や公園などに建てられている、「壁がなく、柱と屋根だけで作られた東屋(あずまや・休憩用の小さな建物)」のこと。
【欺瞞を弄しても】どんなに人をだますようなペテンや嘘のテクニックを使おうともという意味。
庭園の散歩道を進む。綺麗に刈り揃えられた生垣は俺の首元ほどの高さがあり、視界の先を見通すのを拒むように連なっている。
その僅かな隙間の向こう、遠く離れた場所にぽつりと建つガゼボが見えた。そこではシヴァとクローディアが、親しげに言葉を交わしている。
空を覆う雲は厚く、お世辞にも良い天気とは言えなかったが、肌を撫でていく少し冷え込んだ風だけは心地よかった。木製のベンチに深く腰掛け、肺に溜まった重い空気を吐き出す。
やはり、日中は身体が鉛のように怠い。自分が吸血鬼族である事実は、クローディア以外には秘匿している。それゆえに、他の人と同じように陽の下で活動し、同じように振る舞わなければならなかった。追い打ちをかけるように、近頃は夜になると逆に意識が冴え渡ってしまい、慢性的な寝不足が続いている。
「ふぅ……眠たくなってきたな……。」
ぽつりと溢れたため息とともに、灰色の寒空を仰ぎ見る。瞳を覆う瞼が重い。本当に、このまま眠りに落ちてしまいそうだ。
目を閉じ、生垣を吹き抜ける風の音に意識を委ねていると、すぐ側で足音が響き、俺を呼ぶ声がした。
「ノア様。まだ肌寒い季節ですから、このような場所で眠られては風邪を引いてしまいますよ。」
ゆっくりと目を開けると、いつの間にかガゼボから移動してきたシヴァが、心配そうにこちらを覗き込んでいた。ふと、彼女が気遣わしげに傾けた首元へ、吸い寄せられるように視線が向く。
白い肌のすぐ下で、ドクドクと明瞭に脈打つ血管。生きている人間の、温かい血の巡り。それが、嫌に鮮明に見えてしまった。
怠い身体を起こそうとした時、シヴァの隣に並んだクローディアが、同じように俺の顔を覗き込んできた。
「ノア……?どうしたの、顔色が悪いわ。また、どこか具合でも悪いの?」
今度は、クローディアの首元が視界を占める。彼女の細い首筋でもまた、同じように、規則正しく命の拍動が刻まれていた。
ドクン、ドクン、と、自分の心臓ではない音が耳の奥で響く。血の匂いを本能が過敏に察知したのか、頭の芯が急激に熱を持ち、急速に思考が奪われていく。
意識の輪郭が、ずるずると闇に溶けていく。このままでは危険だと、辛うじて残った理性を総動員し、強く頭を振って強制的に自我を保とうとした——その瞬間だった。
ズクンッ……!
心臓の奥底が、割れるように激しく脈打った。ドクドクと不気味な速度で跳ね上がる鼓動。全身の血液が、沸騰した湯のように煮えたぎり、血管を内側から焼き焦がしていく。
「ぐっ……。が、あ……っ!」
「ノア!?」
「ノア様!?」
重なるようにして、二人の驚愕に満ちた悲鳴が鼓膜を叩いた。視界が真っ赤に染まっていく。俺は朦朧とする意識のなかで、必死に目の前の影へ手を伸ばした。
「クロー……ディア……っ!」
「ノア!?どうしたの……っ!?」
差し伸べられたクローディアの手が、俺の手に触れる。だが、その瞬間の俺は、燃え盛る業火の中に突き落とされたような熱に支配されていた。冷たい救いを求めるように、繋がった彼女の手を、全力で自らの胸元へと引き寄せる。
「キャッ……!」
不意を突かれたクローディアは体勢を崩し、俺の胸へと倒れ込んできた。生温かい人間の体温。それと同時に、彼女の剥き出しの首筋が、再び至近距離で視界に飛び込んでくる。
(これは……っ!)
霧が晴れるように、すべての点と点が繋がった。吸血への飢餓、圧倒的な『渇望』がもたらした前兆だったのだ。
(ディアを、離さなければ……!)
強く拒絶しようとすればするほど、身体はその命令に背く。彼女の細い首筋で脈打つ命の源から、どうしても、視線を逸らすことができなかった。
ズクンッ……!
再び、心臓の奥底が引き裂かれるように激しく脈打つ。その一瞬の衝撃に、俺の中の理性は跡形もなく消し飛んだ。身体の制御権を、完全に飢えた本能へと奪われる。
ガッ……!
「キャァァァ!」
「ノ、ノア様!?何を……っ!」
これまで必死に削り、隠し続けてきたはずの牙が、一瞬にして肉を裂く兇器へと変貌していた。肉を貫く鈍い音が、俺の頭蓋の内側に響く。気づいたときには、俺はクローディアの首筋に深く牙を突き立てていた。
完全に、我を失っていた。傷口から溢れ出す、甘美で、温かい生命の源流。それを喉へと流し込み、貪るように啜り続ける。俺を支配していた熱が、彼女の血によって満たされていく悦びだけが脳を埋め尽くしていた。
「ノア様……っ!クローディア様からお離れください!」
視界の端でシヴァが叫び、無理矢理にも俺を引き離そうと腕を伸ばしてくる。だが、今の俺は自制を失った獣だった。血の味以外のすべてが思考から排斥され、邪魔者を拒むように、クローディアの身体をさらにきつく抱き寄せた。
「ノア様!……っ、どうかお赦しを!」
シヴァの、悲痛に満ちた声が響く。直後、俺の鳩尾へ、容赦のない痛烈な一撃が叩き込まれた。
「ぐぁっ……!かはっ。」
肺の空気をすべて搾り取られ、目の前が真っ白になる。凄まじい衝撃に抗えず、クローディアを抱きしめていた両手の力が強制的に解かれた。それと同時に、冷や水を浴びせられたように、身体の制御権が俺の元へと戻ってくる。
「俺は……なにを……。ディ、ディア……!」
我に返った俺は、血の気が引くのを感じながら、慌てて地面に倒れ込んだ彼女の側へと寄る。クローディアはすでに意識を手放していた。首筋からは未だに赤い雫が伝い、その顔は、まるで蝋細工のように蒼白く染まっている。
「これは……、いっ、一体、何がどうなって……。」
正気を取り戻した俺とは裏腹に、シヴァはその場に立ち尽くしていた。恐怖と混乱に激しく狼狽えている。血に塗れた俺と、倒れ伏すクローディアを交互に見つめるその白手袋の手元が、微かに震えていた。
追い打ちをかけるように、遠くから、先ほどの悲鳴を聞きつけたであろう騎士や家族たちの足音が、複数重なって近付いてくるのが聞こえた。
「シヴァ!説明は後で必ずする!今はディアを医者へ見せなければっ……!」
辺りの芝生まで赤く染まったこの惨状だ。まともな言い訳など思い浮かぶはずもない。だが、このまま全員が見つかれば、取り返しのつかない事態になることだけは分かりきっていた。
「シヴァ!シヴァ、俺の声を聞け!」
取り乱す彼女の肩を掴み、どうにかその正気を引き戻そうと必死に叫ぶ。
「——はっ、はい!ノア様!」
「俺は口元まで血塗れだ。一度、自室へ戻る!……こんなことを頼んで悪いが、他の者たちには適当に誤魔化してくれ。何よりも侍医を急がせ、ディアを俺の部屋へ運ぶんだ!」
「か、かしこまりました……っ!」
彼女が困惑しながらも頷いたのを見届け、俺は最速でその場を蹴った。誰一人として、この姿を見られてはならない。今の俺の状態だけは、どんな欺瞞を弄しても言い訳のしようがなかった。
近付いてくる足音から逃れるように影を縫い、裏道を使って自室へと駆け込む。
鍵を閉めるなり、血に汚れた服を脱ぎ捨てて洗面台にしがみついた。水をすくい、顔にこびりついた血を必死に洗い流す。
ふと、鏡に映った自分の顔が目に入った。唇を、顎を赤く染め、真紅の瞳に狂気を宿らせたその姿は——自分が最も恐れていた、醜悪な化け物そのものだった。
激しい嫌悪が胸を突くが、今はそれどころではない。クローディアの安否を確かめるのが先決だ。
クローゼットから新しい衣服を引っ張り出し、着替えようとする。だが、指先が激しく震えて、ボタン一つまともに留められない。自分が引き起こしてしまった惨劇への恐怖が、今になって津波のように押し寄せていた。
(ディア……!ディア……!)
何にも代え難い。自分の命など喜んで差し出せるほど、何より大切で愛おしい彼女を、この手で、この牙で傷つけたのだ。目を逸らすことすら許されない非情な現実に、胃の底からせり上がるような激しい吐き気が俺を襲う。
間もなく、シヴァの手によって医者とともにクローディアがここへ運ばれてくるはずだ。その時には、彼女の側にいてやらなければならない。
(どうか……どうか……無事でいてくれ……っ。)
俺は気が狂いそうな己の心に鞭を打ち、どうにか着替えを済ませると、血の臭いが染み付いた服を隠すように処分した。そして、ただ祈るような思いで、最悪の瞬間を待つようにクローディアの到来を待ち受けた。
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