得難きもの[拾壱]
【帷】室内を遮断したり、空間を区切ったりするために上から吊り下げる大きな布(垂れ幕、カーテン)。
絹の壁紙に覆われた寝室で、ひときわ存在感を放つのは、夜天の如き天蓋を戴くベッドである。透け感のある上質な薄絹の帷は、風を孕んで幽かに揺れている。金糸で縁取られたワインレッドの寝具、そして鈍い輝きを放つ真鍮の支柱。それらは豪華でありながらも、決して悪趣味に陥らない洗練さを物語っていた。
その俺のベッドに、今はクローディアが横たわっている。駆けつけた侍医の手当てにより、首筋の傷は塞がれていた。あれほどの鮮血に塗れながらも、幸いにして命に別状はなかった。
(よかった……。本当に、よかった……。)
張り詰めていた心が落ち着き、心の底から安堵の息が溢れる。静まり返った寝室に、彼女の安らかな息遣いが響く。その小さな音が、クローディアは今も生きてここにいるのだという事実を、俺の胸に優しく刻みつけてくれる。
(起こしてしまっては悪いな。今日はこのまま、安らかに眠らせておいてやりたい。)
俺は極力物音を立てないよう慎重に足を進め、寝室を区切る扉を開けて隣室へと入った。薄暗がりのなか、ソファの傍らにはシヴァが微動だにせず佇んでいた。
「——本日の一件は、飛行型の魔物がクローディア様を襲ったということにしておきました。医師が多少、傷口に違和感をもっていたようですが、口を封じるように申し付けてあります。」
「助かった、シヴァ。今のお前の胸中は、数々の疑問と、先ほど目撃した惨劇への恐怖で一杯だろう。……これからすべてを正直に話す。だが、その前にまずは、お前を巻き込んでしまったことを謝りたい。本当に、申し訳なかった。」
俺は彼女に向き直り、深く頭を下げた。主君としてのプライドなど、今この瞬間には必要ない。
「い、いえ!ノア様!どうか頭をお上げください!」
シヴァは動転した声を上げ、慌てて俺を制そうとする。
「私に謝罪をされる必要など、どこにございましょう。私は生涯を捧げると誓ったノア様の片腕にございます。……私の方こそ、主君の危機という大事な局面で狼狽え、お役に立てず、本当に申し訳ありませんでした。」
今度はシヴァが深く、その身を折るように頭を下げた。床を見つめる彼女の拳は、主君の危機を前に何もできなかった己への悔しさで僅かに震えている。
絞り出すようなシヴァの声に、俺は静かに首を振った。
「いや、仕方のないことだ。俺がシヴァの立場なら、やはり正気を失っていたさ。」
痛みを分かち合うような苦笑を浮かべ、俺は傍らの一脚を視線で示す。
「——それで、今回の件についてだが……。とりあえず座ってくれ。長い話になる。」
「……かしこまりました。では、失礼いたします。」
シヴァは促されるまま、静かに腰を下ろす。それを見届けてから、俺はぽつりぽつりと語り始めた。
自身の体に起きた異変、神殿の禁書庫に眠っていた古文書の記述。そして——自分が吸血鬼族と呼ばれる種族であるという真実。今まで胸の奥に秘めていたことの全てを明かしていった。
「そんなことが、あったのですね……。ノア様の異変に気付きながらも、何も察することができず、本当に申し訳ありませんでした。」
沈痛な面持ちで、再び頭を下げようとするシヴァを、俺は手を挙げて制した。
「いや、もう謝らないでくれ。俺が意図して隠していたんだ。シヴァに落ち度は何一つない。」
その言葉に、シヴァは躊躇いながらもゆっくりと顔を上げた。その瞳には、主君を案じる深い憂いが色濃く滲んでいる。
「……それで、ノア様は今後どうされるおつもりですか。」
「血を飲まなければいけない体になってしまったからな……。いつまでも今のままではいられないだろう。とはいえ、現時点では何の策もないのが現状だ。」
そこで一度言葉を切り、俺は自嘲気味に息を吐き出した。
「それに——このことに関しては、ディアとも話し合うべきだと思う。あんな大怪我を負わせてしまった後で、彼女がまた俺と話す気になってくれればの話だが。」
深い後悔が胸を刺す。しかし、シヴァは毅然とした口調で寄り添ってくれた。
「左様でございますね。私も微力ながらお力になりますが、事態の打開にはきっと、クローディア様のお知恵も必要となりましょう。あの方なら、きっとノア様の言葉に耳を傾けてくださいます。」
「あぁ。だから、この話はまた明日にしよう。今は吸血衝動も落ち着いている。これまでの感覚からしても、一日や二日で正気を失うほど悪化するとは考えづらいからな。」
「かしこまりました。では……ノア様の寝室は現在クローディア様がお使いになられておりますので、急ぎ別の部屋をご用意いたします。」
立ち上がろうとするシヴァに、俺は首を振った。
「いや、その必要はない。今の俺はほとんど夜行性になってしまっているからな。ディアに万が一のことがないよう、今夜は横で見守っておくことにする。」
何より、自分の暴走で傷つけた彼女を、もう一秒だって一人にしたくなかった。シヴァは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに全てを察したように深く一礼した。
「承知いたしました。それでは明日の朝、改めてノア様のお部屋へ伺います。」
「あぁ、おやすみ。シヴァ、今日は本当に苦労をかけた。ゆっくり休め。」
「いえ、それでは失礼いたします。」
シヴァはそっと部屋を退出し、静かに扉を閉めた。
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