得難きもの[拾弍]
【張り出し窓】建物の外壁から外側へ飛び出すように作られた窓。
「うっ、……っぅう。」
肌をチクチクと刺すような奇妙な違和感に、意識が深い底から引きずり上げられる。眩い陽光が容赦なく瞼を透かし、俺はゆっくりと目を開けた。
視界に映ったのは、窓枠に立てかけられた自身の片膝と、投げ出された足。肩には、見覚えのない温かなブランケットが一枚かけられていた。
どうやら、張り出し窓の縁に腰掛けたまま、いつの間にか眠り込んでしまったらしい。意識の霧が晴れた瞬間、心臓が跳ね上がった。
「はっ……!ディア!?」
記憶がフラッシュバックし、勢いよく飛び起きた。慌ててベッドへと視線を移す。しかし、そこにクローディアの姿はなかった。
「ディア!?どこだ!?」
寝起きで乾燥した喉から、掠れた声がこぼれ落ちる。
「ノア。私ならここよ。」
隣室の扉が開き、小さな足音と共にクローディアが現れた。多少足元がふらついているものの、彼女は確かに自分の足で立っている。その姿を見た瞬間、胸を支配していた焦慮が、すっと引いていくのが分かった。
「ディア……。起きてても大丈夫なのか?」
居ても立ってもいられず、俺はクローディアのもとへ歩み寄った。その表情は気高さのなかに慈愛を滲ませた、普段と何も変わらないクローディアのままだった。
「ええ、平気よ。傷が少し痛むだけ。」
痛む身体を引きずってまで自分を安心させようとする、その健気な姿に堪らなくなり、俺は思わず彼女を抱きしめていた。
立ったままふらつくその身体をしっかりと支えながら、傷のある首筋には決して触れないよう、彼女の胸元へとそっと額を預ける。
「すまない。本当にすまなかった……っ。」
彼女の衣服に顔を埋めたまま、俺は震えた声で、ただひたすらに懺悔を繰り返した。
「謝らなくていいのよ。貴方はなにも悪くないわ。吸血衝動が起きることは、古文書で読んで知っていたもの。いずれこうなることは、私だって予想できたはずよ。……むしろ、相手が私でよかったの。」
クローディアは怯える子供を宥めるように、片手でそっとノアの頬をなぞった。その指先から伝わる微かな体温が、かえって俺の胸をえぐる。
「ディアでよかっただなんて……そんなこと、あるわけないだろ……! 予想できたのなら、俺がもっと対策をするべきだったんだ……っ!」
「大丈夫。大丈夫よ、ノア。」
取り乱す俺を落ち着かせるように、クローディアはそっと俺の胸元へと身を委ねてきた。俺は怪我をした彼女の首筋に負担がかからないよう、静かに自身の胸へと額を受け入れる。そして、クローディアは背中に両腕を回すと、愛おしそうに俺の身体をぎゅっと抱きしめた。
「私も貴方も、今ここに生きて立っている。私はそれだけでいいの。貴方が息をして、私の目の前にいてくれれば、それだけで……。」
「ディア……っ!」
言葉にならない感情が、熱い塊となって喉の奥まで込み上げる。守るべき幼馴染の肉体をこの牙で傷つけ、一国の皇女をこの腕で不遜にも抱きしめている。その事実だけでも万死に値する罪深いことなのに、彼女のどこまでも純粋な愛が、俺の胸を狂おしいほどに締め付けた。
コンコン、と。静寂を破り、張り詰めた部屋の空気を震わせる規則正しいノックの音が響いた。
「失礼いたします。——ノア様、クローディア様。」
躊躇いのない引き締まった声と共に、隣室の扉が開く。現れたのは、シヴァだった。一切の乱れもない燕尾服を纏った彼女は、俺たちが抱きしめ合っている光景を見ても眉一つ動かさない。
ただ、その双眸に一切の動揺を見せず、ただ静謐な理性のみを湛えて、俺たちの側へと歩み寄ってきた。
「シヴァ……。」
前夜、己の異変をすべて打ち明けた相手。シヴァの瞳にあるのは俺を責める色などではなく、主君を案じる深い憂いと、揺るぎない忠義だった。
「ノア様、どうかご自分を責め立てるのはおやめください。昨日申し上げた通り、私は貴方様の片腕。主君がどのような宿命を背負おうとも、私の忠誠が揺らぐことはございません。……ですが、二度目があってはなりません。」
シヴァは、クローディアから腕を離した俺の斜め前に立ち、彼女の白い首筋に巻かれた包帯を痛ましそうに見つめた。
「クローディア様はノア様の大切な幼馴染であり、一国の皇女殿下であらせられます。その御体にこれ以上の負担を掛けるわけにはまいりません。しかし——我が主が再び飢えに狂って破滅へと向かう事態も、私は絶対に容認いたしません。」
「シヴァ、お前……。だが、俺は一体どうすれば……。」
すぐに思いつく策もなく、絶望に染まりそうになる俺の前に、シヴァは静かに一歩踏み出した。そして、迷いのない手つきで自身の衣服の襟元に手をかけ、白い肌をさらけ出す。
「——今後は、計画的に吸血を行ってください。……クローディア様と、この私の二人から。」
「なっ……!? シヴァ、お前、何を言っているんだ!?」
唐突な提案に、俺は息を呑んだ。しかし、驚く俺とは対照的に、隣にいるクローディアの表情に動揺はなかった。それどころか、彼女はシヴァの言葉に深く頷き、どこまでも純真な愛情が籠もった瞳で俺を見つめてくる。
「驚かせてごめんなさい、ノア。でもね、これはシヴァと二人で決めたことなのよ。」
「ディア……? シヴァと二人で、って……。」
呆然とする俺に、シヴァは淡々と、けれど確かな決意を込めて告げた。
「ノア様が張り出し窓の縁で眠っていらっしゃる間に、クローディア様と今後の対策を話し合いました。昨日ノア様が仰った通り、血を飲まなければいけない現状において、どちらか一人だけでは失血による肉体的負担が大きすぎます。」
「ええ。何より、皇女である私の血がこれ以上減少し、体調を崩すようなことがあれば、周囲に露見するかもしれない。そうなれば、医師の口を封じるだけでは隠蔽しきれなくなるわ。だから——。」
クローディアは、シヴァのさらけ出された首筋にそっと視線を落とし、それから俺の手を優しく包み込んだ。
「秘密を共有している私と、シヴァの二人で分散するの。そうすれば負担は最小限に抑えられ、言い訳も容易になる。……ノア、貴方を一人で苦しませたりしないわ。これは、私たち二人が出した答えよ。」
シヴァの眼差しにも、クローディアの声音にも、一切の迷いはなかった。俺を救うため、そしてこの大罪を共に背負うために、身分を超えて一晩中必死に導き出した唯一の解決策。二人の優しさと深い覚悟が、俺の胸を激しく揺さぶった。
「……分かった。吸血しなければ暴走してしまう以上、あとはこの手で命を断つしか方法はない。だけど、俺はまだ、生きていたい……。だから……っ。」
二人を傷つけることでしか生き長えられない。その残酷な現実に視線が床へと落ちる。
「ノア、顔を上げて。」
俯く俺の頬に、クローディアの柔らかな両手がそっと添えられた。怪我をした首を刺激しないよう、彼女は慎重に、けれど確かな温もりで俺の顔を上向かせる。
「私の表情もシヴァの表情も貴方の目に映ってる?——見て、私たちはどちらも、嫌な顔なんて一つもしていないわ。」
促されるまま、俺はクローディアの澄んだ瞳を見つめ、それから目の前に佇むシヴァへと視線を移した。二人の顔に浮かんでいるのは、嫌悪でも恐怖でもない。ただ、俺を慈しみ、支えようとする揺るぎない想いだけだった。
「さっきも言ったでしょう?私も貴方も、今ここに生きて立っている。私はそれだけでいいと。だから……そんな苦しそうな顔をしないで、ノア。」
「……っ。ディア、シヴァ、ありがとう……。」
こみ上げる熱い感情をぐっと押し殺し、俺は二人の優しさを噛み締めた。これ以上、二人を心配させるわけにはいかない。心の底からの誓いを込めて、掠れた感謝の言葉を紡ぎ出す。
「ノア様のためにこの身がお役に立つのであれば、むしろこれ以上の幸せはございません。」
シヴァは己のすべてを主君に捧げた本物の『影』として、深く頭を垂れた
「ノア、大好きよ。」
そしてクローディアが、微笑みながら俺の耳元で愛を囁く。二人から与えられた無条件の優しさに、俺の胸は張り裂けそうなほどに激しく震えた。
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