失いしもの[壱]
公爵邸の広大な敷地の一角。俺がいつも使っている訓練場には白い石床が敷き詰められている。剣術の授業をしても、魔法・魔術の授業をしても問題ない、十分な広さと頑強さだ。
空間を囲むように天を突く四本の巨大な石柱には、複雑な術式が刻まれている。この四本の柱を起点として、目に見えない強固なバリアが四面に展開される仕組みだ。おかげで、どんなに激しい剣撃の衝撃波も、爆炎を伴う魔法の余波も、その透明な壁に阻まれて外には一切漏れない。
今日、俺とシヴァはその訓練場へとクローディアに呼び出されていた。
「ノア、シヴァ、おはよう。」
いつものように微笑む彼女の表情には、幼さや可愛らしさよりも、凛とした気高さや気品が強く滲み出ている。
「おはよう、ディア。訓練場に行きたいだなんて珍しいな。どうしたんだ?」
「ふふっ、これよ。」
俺たちの前に進み出たディアは、大切そうに抱えていた一冊の本を差し出した。表紙には、『失われた種族』という文字が刻まれている。
「その本が、本日の予定に関係するのですか?」
初めて目にするその古文書に、シヴァが不思議そうに視線を落とした。それが禁書庫から密かに持ち出されたものであること。そして、万が一にもバレれば厳罰に処されるような危険な代物だとは、今のシヴァには分かるはずもない。
「シヴァ、この本が『例の本』よ。」
クローディアが差し出している本を見て、シヴァの目が見開かれた。
「『例の本』って……まさか、あの吸血鬼族について記されているという、禁書庫の……!?」
「何度も通う方が危険かと思って、持ち出してきたわ。」
国家機密レベルの犯罪を、クローディアは事も無げに、まるで庭の花でも摘んできたかのような調子で言ってのける。
「私に言いたいことは山ほどあるでしょうけれど、もう持ち出してしまったものは仕方がないわ。有益に使いましょう?」
綺麗な微笑みの中に有無を言わせぬ光を宿され、俺は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。確かに彼女の言う通り、ここにある以上は時すでに遅し、だ。
「………………そうだな。」
長い沈黙の後、あっさりと降伏した俺を見て、シヴァが頭を抱えて深いため息を吐いた。
「それで?訓練場で何をする気なんだ?」
「それを話す前に……ノア、これを受け取って。」
クローディアは言葉を区切ると、一本の魔導筆を取り出し、俺の手に握らせた。意図が分からず、俺は手元の魔導筆と彼女の顔を交互に見つめる。
「ノアって、ここの結界を『不可視化』できるかしら?」
その一言で、彼女が何を企んでいるのかがすべて繋がった。
「なるほど、だから魔導筆なのか。」
苦笑交じりに呟きながら、俺は四本の支柱の一本へと近づいた。淡く光る既存の魔術式を見定め、その隙間に魔導筆の先を滑らせていく。新たな術式が、白い石柱に滑らかに刻まれていく。流れるような手際で、俺は残りの三本にも同じ処置を施していった。
後ろで様子を見ていたシヴァが、片腕を胸に抱き、もう片方の手の指先を顎に添えて首を傾げた。
「ノア様、何をされているのですか?」
何が何だか分からないという様子のシヴァに、俺は魔導筆をクローディアに返しながら答える。
「ディアはこれから、その古文書に書かれている『人に見られてはまずい何か』をここで試したいんだ。だから結界そのものを外から見えないように遮断した。……だけど、不可視化の術式を直接石柱に刻むと後で消せなくなる。だから、訓練が終われば簡単に洗い流せる魔導筆を持ってきた。——ってところだな。」
「大正解。さすがはノアね。」
自分の意図を完璧に読み取ってもらえたのが嬉しかったのだろう。クローディアは満足そうに微笑んだ。
「術式は描き終えた。あとはここに、俺の魔力を流して……。これで二時間くらいは、外からは中が完全に何も見えないはずだ。」
結界が不可視の膜へと変貌するのを見届けて、シヴァは感心した吐息を漏らした。
「さすがはノア様。日頃の鍛錬だけでなく、これほど高度な魔術まで使いこなされるとは。」
「師に恵まれただけだよ。……っと、そういえばシヴァは、暗殺者がジョブだったよな?」
「はい、左様でございますが……?」
唐突な問いにシヴァが眉をひそめる。俺はそんな彼女に向き直ると告げた。
「そこにそのまま立っていてくれ。」
何歩かシヴァから距離を取り、俺は訓練場の中央へと移動する。ある程度の間合いを確保したところで、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「得物はナイフだよな?」
「はい。」
「じゃあ、ナイフでそこから本気で俺に切り掛かってくれないか?」
「本気で、ですか……?」
シヴァの細い眉がさらに深く寄せられる。だが、冗談を言っているようには見えない俺の視線を受け止め、彼女の空気が一瞬で鋭いものへと変わった。
「ああ、手加減しないでくれ。」
(——暗殺者は圧倒的に身のこなしが速い。だからこそ、試すには最適だ。)
俺の意図を察したのか、シヴァは小さく息を吐く。
胸元に滑らせた手が、次の瞬間には一本のナイフを握っていた。
「……死なないでくださいね。では、参ります。」
言葉の終わりと同時に、シヴァの姿がブレた。地面を蹴る凄まじい踏み込み。一瞬で間合いをゼロにした彼女は、右手のナイフを、俺の首筋を狙って容赦なく一閃、——鋭い風を切る音とともに振り抜いた。
(やはり速い……だが、見える。)
驚くほど世界が緩やかに感じられた。刃が首皮一枚に到達する寸前、俺はただ、顔をわずかに傾ける。銀の閃光が、刃の風圧だけを残して鼻先を通り過ぎていった。ほんの一瞬、瞬きをするほどの間の出来事だった。
「今の動き……。ノア様、完全に『見えて』ましたね?」
「ギリギリだったけどな。前の俺なら確実に死んでただろう。」
動きを見切るために止めていた息を深く吐き出し、俺は乱れた呼吸を整える。その一瞬の神業のような攻防に、傍らで見ていたクローディアが首を傾げた。
「どういうこと?剣術を使わない私にも分かるように説明してくれると嬉しいわ。」
「今ノア様は、最小限の動きだけで私の剣を避けられました。それはつまり、私の動きを『予想』して動いたのではなく、私の動きを『見てから』動いたということです。」
シヴァはナイフを、流れるような手際で音もなく燕尾服の中へ収めた。そして、驚きを隠しきれない視線を俺へと向けながら言葉を紡ぐ。
「通常、大きく避けるということは、それだけ自身の体勢を崩すということです。それでは避けた後に、次の反撃へ移るのがどうしても遅れてしまう。ノア様が大きく動かなかったのは、私のナイフの軌道が完全に見えていて、恐れる必要がなかったから。そして、避けた直後の体勢から、いつでも私を斬り返せる状態を維持するためです。完全に『見えて』いなければ、怖くて絶対に真似などできません。ですから、剣士としてはあの最小限の回避こそが至高であり、ベストなのです。」
淀みのないシヴァの解説に、俺は頷いて言葉を引き継いだ。
「前の俺だったら、今のシヴァのスピードにはとてもついていけず、反応すらできずに首を撥ねられていただろう。……だが、最近自分の中で吸血鬼族化が進んでいるからか、ただの鍛錬だけでは説明がつかないくらい、身体能力が跳ね上がっている感覚があったんだ。魔力も、以前とは比べ物にならないほど増えている気がするしな。」
「——それで、シヴァに自分を斬れと指示したわけね?」
遮るように響いたクローディアの声音が、すっと低くなった。
「ノア。実験をするのは構わないけれど、どうか安全を最優先に行なってほしいわ。私との、約束よ……?」
唇に浮かぶ微笑みはいつも通りに美しく、完璧だった。しかし、声音だけは氷のように冷たく、明確に怒っている。これはいわゆる、完全に叱られているやつだ。
「あ、あぁ。約束するよ。」
笑顔の裏にあるクローディアの圧倒的な迫力に冷や汗を流しながら、俺は慌てて首を縦に振った。
「分かってもらえてよかったわ。——それで、私が今日ここで試したかった実験なのだけれど。この古文書に記されている『血冥魔法』を、ノアが扱えるかどうかを確かめたいの。」
「血冥魔法……。俺が読んだ古文書に書かれていた種族固有魔法と呼ばれているものか。」
俺の言葉に、シヴァが記憶を探るように目元を細めた。
「種族固有魔法……ですか。有名なものだと龍族の顕現魔法が挙げられますね。一部の龍族はドラゴンの姿へ肉体を変貌させられるという……。」
「ああ、それと同じだ。俺が読んだ古文書には、他にもいくつか種族固有魔法について載っていたが……。」
「それは非常に興味深いですね。では、吸血鬼族の種族固有魔法こそが『血冥魔法』であり、ノア様がそれを発現できる可能性があると……。もしそうなら、ぜひこの目で拝見したいです。」
シヴァの探求心に満ちた言葉に、クローディアは手元の古文書へ視線を落とした。
「そう、ね。この古文書によると、牙が生え、吸血衝動が目覚め、身体能力や魔力が劇的に向上したとなれば、ノアの肉体はもうほとんど吸血鬼族としての進化を終えているようなの。……完全な吸血鬼族へと成長すると、瞳が『真紅』に染まってしまう、という記述に関しては、今後どうにかして周囲を誤魔化す方法を見つけなければいけないのだけれど……。」
そこで一度言葉を区切り、クローディアは「困ったわね」と困惑の混じった苦笑を浮かべる。
「ただ、瞳の問題とは別に、私がどうしても今ここで血冥魔法を実験したかった理由があるのよ。」
「理由? 一体なんだ?」
「ノアが血を飲むために誰かの首筋に牙を突き立てた後、その『残った傷跡』をどう処理するか、ずっと悩んでいたの。まさか毎回、お抱えの侍医を呼んで治療してもらうわけにはいかないでしょう? 不審がられて一発で秘密が露見してしまうわ。……だから古文書を読み漁っていたのだけれど、見つけたのよ。血冥魔法の中に、傷を塞ぐ『治癒』の記述をね。」
「治癒、ですか!?」
シヴァが思わずといった様子で、驚愕の声を上げた。
「もしそれが事実なら、大変なことです。現在は、魔法使いの特異派生である、治癒士にしか使えない魔法だとされているのですから。」
シヴァは動揺を隠せないようだった。
「それはどうしたら俺に扱えるんだ?」
「それに関しては特に記述が無いのよ。」
それまで古文書を精査していたクローディアが、困惑したように顔を上げる。
「ヴァンパイア・ロードとヴァレンティスが扱える、とだけ書かれているわ。……それから、自身の血を贄として、とも記されているから、濫用は控えた方がよさそうね。呪文が書かれているから、恐らく通常の魔法のように詠唱するだけなんじゃないかしら。」
「古文書を俺にも見せてくれるか?」
俺はクローディアの手元にある古文書を覗き込んだ。
「これが呪文か。覚えるのは難しくないな。あとは……。」
実験台は俺でいいか、と言いかけたその時だった。シヴァはすでに覚悟を決めた目で、自身の衣服の襟元に手をかけていた。躊躇いのない動作で、はだけた襟元の隙間から白い肌をさらけ出し、トントンと指で促す。
「あ、いや。俺は自分自身で試そうと……。」
最後まで言う前にシヴァが言葉を放つ。
「実験というのは、実用性を兼ねているべきです。どちらにせよ、そろそろ血を飲まなければいけないのですから、試してみましょう。」
俺の制止を遮り、シヴァが言葉を放つ。その声はいつもの冷静さを完全に取り戻しており、だからこそ拒絶を許さないトーンがあった。差し出された首筋。その薄い皮膚の下で微かに脈打つ血管に、思考が麻痺しそうなほど、視線が吸い寄せられた。
「……噛むぞ。」
拒むことなどできなかった。シヴァの身体を支えるように、その頭と腰にそっと手を回す。引き寄せた首筋に、容赦なく牙を立てた。
「んっ……。」
シヴァの口から、微かな痛みの声が漏れる。流れ出る濃厚な血を貪るように飲み、服を汚さぬよう、傷口に這わせた舌で丁寧に舐めとっていく。吸血の恍惚が頭を支配しそうになるのを、必死に理性で繋ぎ止めた。
俺は唇を離し、まだ血の滲む傷口の手前に片手をかざした。古文書に刻まれていた呪文を、一言ずつ噛み締めるように紡ぐ。
「赤き情念を以て、去にし時を逆巻け。……『贄刻』。」
刹那、かざした掌が赤黒い光を放つ。すると、たったいま抉ったばかりの傷口が、まるで時間を巻き戻すかのように、みるみるうちに塞がっていった。
「成功、したのか……?シヴァ、痛みや違和感はあるか?」
光が収束するのを待って問いかけると、彼女は自身の首筋を確かめるように、指先でそっと撫でた。
「いえ……痛みも、違和感もございません。本当に、傷が消えてしまいました……。」
信じられないものを見るような、感嘆の吐息が彼女の口から漏れる。するとクローディアが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「ノア、あなたの体調はどう?フラついたり、気分が悪くなったりはしていないかしら?」
「今のところは問題ない。恐らく、かなり多用しなければ大丈夫なんだろう。」
「そう、よかった……。じゃあ、もう少し実験してみる?この古文書、他にも面白そうな血冥魔法がいくつか載っているのよ。」
パラパラと頁をめくる彼女の提案に、俺は頷いた。
「そうだな、異変を感じたら伝える。」
「『少しでも』、ですよ。決して我慢などなさらないでくださいね、ノア様。」
すかさずシヴァが、声音を少し硬くして嗜めるように言った。主への忠義と心配が入り混じったその眼差しに、俺は苦笑しながら応じる。
それから俺たちは、古文書に記された未知の魔法をいくつか試していった。幸いにも体調が崩れる兆候はなく、不気味だったはずの血の魔法は、いつしか三人で謎を解き明かすような、奇妙な高揚感と楽しみに満ちた時間へと変わっていった。
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