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失いしもの[弍]

【アクアマリン】主に3月の誕生石として知られる美しい「青色の宝石」。

不可視化の魔術が解け、実験を終えた俺たち三人は、傍(かたわ)らに置かれた木製のベンチに腰掛け、一時の休息をとっていた。乾いた喉を潤していると、背後の木陰から静かな足音が近づいてくる。



「おや。模擬戦は、既に終わってしまいましたか。」



聞き覚えのある穏やかな声に振り返ると、そこにはルクシオ先生が立っていた。その隣にはゼノ先生、そして少し後ろには、ジキルの姿もある。



「手合わせを願おうとルクシオを誘って歩いていたのですが……公爵邸を訪れていたジキル様とお会いしましてね。三人で混ぜてもらおうと来たのですが、一足遅かったようですね。」



ゼノ先生が残念そうに肩を落とす。



「こんにちは!クローディア様、ノア様!もう模擬戦は終わりですか?」



ジキルが気さくに片手を上げて歩み寄ってきた。



「いや。ディアとシヴァと三人で軽く戯(たわむ)れていただけなんだ。だから体力はまだ残っているが……。」



俺の言葉に、ルクシオ先生が眼鏡の奥の切れ長な瞳を、訓練場の支柱へと向けた。刻まれた術式の残滓(ざんし)をじっと見つめている。



「——軽く戯(たわむ)れていた、ですか。不可視化の術式を重ね、あのシヴァを相手に……と?」



さすがはルクシオ先生だ。支柱へと書き足した術式を見逃さなかった。だが、関心はシヴァと行ったであろう仕合へと向いている。これは俺たちにとって、これ以上ないほど好都合な展開だ。ルクシオ先生は、俺たちが不可視化を利用した『血冥(けつめい)魔法の実験』の存在には気づいていない。



「秘密の特訓をなされていたのです。ノア様はさらなる高みを目指し、日々努力を重ねておいでです。——ルクシオ、それ以上細かく聞くのは野暮(やぼ)というものだ。」



すかさずシヴァが、一歩前に出て助け舟を出す。その言葉にゼノ先生が敏感に反応した。



「そんな……っ!ノア様!そのような素晴らしいお時間を過ごされるのでしたら、なぜ私をお呼びくださらないのですか!ノア様のご成長される尊いお姿を見逃すなど、私にとっては死よりも耐え難い苦痛!……まさか、シヴァに無体(むたい)な傷をつけられたりしていませんよね!?」



ゼノ先生は胸に手を当て、大真面目な顔で俺に近づいてくる。その過保護ぶりに、シヴァが冷淡な視線を向けた。



「私がノア様に傷をつけるわけがないだろ。お前じゃあるまいし……。」


「そうですか?常に忠実な『影』であろうとする貴女のことだ。ノア様の命令とあれば、例えそれがご自身を傷つけるような無茶であっても、従ってしまう気がしなくもないですが。」



ルクシオ先生は一呼吸おき、シヴァへと鋭い視線を向けた。


「ノア様のことは、どうか命に替えてもお守りするようお願いしますよ?」



底冷えするようなルクシオ先生の言葉に、シヴァの眉が僅かにピクリと動いた。この三人が一堂に会することが滅多にないから忘れていたが、シヴァ、ゼノ先生、ルクシオ先生は幼なじみだった。シヴァが俺の前で完璧な『執事の仮面』を外し、敬語ではない素の口調を覗かせるのは、本当に久しぶりに聞いた気がする。



「あらあら。ノアったら、ずいぶんと愛されているのね。」


クローディアが、楽しそうにクスクスと笑う。



「クローディア様。愛ならば、このゼノが誰よりも深くノア様にお捧げしております。」


ゼノ先生はその場に流麗な動作で傅(かしず)き、俺の前に跪(ひざまず)いた。



「気怠げで、どこか浮世離れしたその美しい瞳に見据えられたならば……私はこの命、魂のすべてを差し出しても惜しくはございません。」



真剣そのものの熱を孕(はら)んだ瞳で見上げてくる剣術の師に、俺はただ溜息をつくことしかできない。



「あはは、ゼノ先生は本当にノア一筋ですね。」



その熱烈な光景を、ジキルがいつもの調子で呑気に笑いながら眺めていた。



「——そういえば、ノア様。ジキル様と一戦、手合わせをさせていただいてもよろしいでしょうか。先ほど、ここへ歩きながらそのようなお話をしていたのです。」



ルクシオ先生が、綺麗に揃えた右手の指先をそっと胸元に当て、伺いを立てるように微笑んだ。



「ジキルと先生が、ですか?——ええ、構いませんが。万能の魔術師である先生と、水魔法の使い手で魔法使い(ウィザード)であるジキルの戦い……。これは見ものですね。ぜひ、見学させてください。」


「もちろんですとも。——それではジキル様、お手合わせをお願いしても?」


「はい、喜んで!」


待ってましたとばかりに、ジキルが少年のような笑みを浮かべて快諾する。



「では、訓練場の結界を張り直しますね。不可視化の術式はいったん消しておきます。」



俺は腰掛けたまま、右手を軽く前方へかざす。手の先から青い魔力のラインが走り、空中に術式が浮かび上がる。そこから放たれた四つの水球が、訓練場を囲む四本の支柱へと正確に吸い込まれていった。魔導筆(まどうひつ)で描いた術式を消去し、再度魔力を注ぐ。それを見届けると、ルクシオ先生とジキルが、適度な緊張感を纏(まと)いながら訓練場の中央へと足を進めていった。



「——天理(てんり)を切り裂き、隠されし領域を現出(げんしゅつ)せよ。『マジックボックス』。」



ジキルが短く呟くと、彼の前方に小さな術式が明滅した。本来、これは魔術師が開発した空間収納の術式だ。だが、極限まで簡略化されたこの術式に限っては、魔力を持ち得る者なら誰でも起動させることができる。空間が四角く切り取られ、光すら届かない常闇の亀裂が現れる。


ジキルがそこへ手を差し入れて引き抜いたのは、一本の美しい杖だった。漆黒の金属が美しい曲線を描き、天頂(てんちょう)へと伸びる洗練された意匠(いしょう)の杖だった。その先端には、澄み渡った海を切り取ったかのような、透き通った水色のアクアマリンが美しく嵌められている。宝玉(ほうぎょく)からは冷涼(れいりょう)な魔力が立ち上り、周囲の空気を清らかに満たしていた。



「綺麗なアクアマリン。水魔法の使い手であるジキルには、これ以上ないほど相性のいい宝石ね。さすがは伯爵家、素晴らしい眼識(がんしき)だわ。」


ジキルの杖を目にしたクローディアが、感心したようにその瞳を輝かせる。



「——お互い、このくらいの間合いでよろしいですかね。魔法使い(ウィザード)は基本的に後衛職ですから、少し広めに距離を取りましょう。」



ルクシオ先生の提案にジキルが頷き、二人は訓練場の端と端、すぐには間合いを詰められないほどの距離まで離れて対峙(たいじ)した。



「あら?魔術師も魔法使い(ウィザード)と同じく、後ろから呪文を唱える後衛職ではなくて?」


クローディアが小首をかしげ、素朴な疑問を口にする。



「クローディア様、それは魔術師本人の扱える魔術と、その戦い方によります。魔法使い(ウィザード)は特定の属性を極める性質を持ちますが、魔術師は属性という概念に囚われません。術式さえ正しく組み立てられるのであれば、前衛、後衛、あるいは奇策(きさく)……その戦い方は無数に存在するのですよ。」



隣に控えるゼノ先生が、クローディアの疑問に答えた。



「クローディア様は、魔法使い(ウィザード)であると伺っておりますが、皇女というお立場上、実戦的な仕合をされる機会は少なかったとお見受けします。せっかくの機会ですから、二人の模擬戦を鑑賞しながら、私が魔術師と魔法使い(ウィザード)の戦術的な違いについて、細かくご説明いたしましょう。」



ゼノ先生は優しい穏やかな笑みでクローディアへと提案する。



「ゼノ先生ほどの名高き剣士から直々(じきじき)にご教授いただけるなんて光栄ですわ。ぜひとも、お願いいたします。」


クローディアは少女のように嬉しそうに微笑み、訓練場へと視線を戻した。



「——では、私が審判を務めます。両者、準備はよろしいですね?——始め!」



シヴァがパンッと鋭く手を叩いた合図と同時に、張り詰めていた大気が爆発するように両者が動き出す。先手を打ったのはジキルだった。



「——流転(るてん)する水脈よ、理(ことわり)の鎖(くさり)を解き放ち、氷結(ひょうけつ)の顎(あぎと)となれ。『グラキエス・グレイヴ』!」



澄(す)んだ詠唱が響き渡ると同時に、アクアマリンの杖が眩(まばゆ)い光を放つ。大気中の水分が一瞬で巨大な氷の塊(かたまり)へと姿を変え、凄(すさ)まじい質量と速度でルクシオ先生へと飛んでいく。だが、ルクシオ先生の表情には微塵(みじん)の動揺もない。



「万象(ばんしょう)を拒絶せよ。『バリア』。」



静かな呟きと共に、ルクシオ先生の前面の空間が歪んだ。そこに出現した不可視の障壁(しょうへき)に激突した瞬間、ジキルの放った氷塊(ひょうかい)は粉々に砕け散り、霧となって霧散(むさん)する。



「見事な防壁ですね。……さて、まずは基本中の基本ですが、魔術師と魔法使い(ウィザード)では、根本的に『詠唱の長さ』が異なります。この差が生まれる理由は、両者の力の源泉にあります。魔法使い(ウィザード)は、『自然の祝福』を受けており、その力を借りる存在。己の意図(いと)を自然へ正確に伝えるために、あの美しい詠唱呪文と、媒介(ばいかい)たる杖が不可欠なのです。ですから、詠唱を短縮することも、省略することも決して叶いません。」



ゼノ先生は「一方——」と言って、片手の人差し指をスッと立てて言葉を繋いだ。



「魔術師にも詠唱はありますが、彼らは『自然の祝福』を受けていません。魔術師は、己の頭の中で世界の理(ことわり)を書き換える『術式』を組み立てる存在。ですから、詠唱で効果のイメージを固め、術式でそれを世界へ具現化(ぐげんか)させるという、二つの工程を経て初めて力を放出します。ですが……ここが魔術師の恐ろしいところ。卓越(たくえつ)した才能に恵まれてさえいれば、最初の工程である『詠唱』の部分だけは、おのれの脳内で限界まで短縮、あるいは完全に省略することが可能なのです。」



そこでゼノ先生は話を区切ると、ふっと悪戯な笑みを浮かべて俺の方を見た。



「何も言わずに、突然手から凶悪な衝撃波を出す……といった、『ズル』が可能になるのが、まさにその場合ですね。」



……どうやら、前の訓練で俺が先生に思わず放ってしまった不意打ちのことを、まだ覚えているらしい。俺の視線を受け流しながら、ゼノ先生は楽しげに肩を揺らす。



「ちなみに、ルクシオは今しがた律儀(りちぎ)に『万象(ばんしょう)を拒絶せよ』と詠唱していましたが、彼は本来『詠唱短縮』が可能な魔術師です。『バリア』という一言であっても、あの完璧な障壁を展開してみせたでしょうね。」



ゼノ先生が解説を続けている間にも、訓練場内ではジキルの放つ鋭利(えいり)な氷塊(ひょうかい)が幾度となく空中を飛び交い、それをルクシオ先生が様々な魔術の防壁でことごとく撃ち落としていた。



「これだけを聞くと、詠唱を短縮できる魔術師の方が圧倒的に有利に見えるでしょう。しかし、魔法使い(ウィザード)にはそれを補(おぎな)って余りある最大の利点(りてん)が存在します。一度基本の詠唱さえ終えてしまえば、杖に魔力を流し続けている限り、同じ魔法をほぼノータイムで放ち続けることができるのです。もちろん、別の魔法に切り替える際には再び詠唱が必要になりますが……。連射性能においては魔法使い(ウィザード)の独壇場(どくだんじょう)です。逆に魔術師は、いかに詠唱を縮めようとも、魔術を行使するたびに毎回、脳内で術式を完全に再構築しなければなりません。」



「なるほど……。手数は多いけれど、一発ごとに構築の手間がかかる魔術師。最初の手間はあるけれど、一度発動すれば怒涛(どとう)の連射が効く魔法使い(ウィザード)。だからこそ、両者の実力は拮抗(きっこう)していると言われているのですね?」


クローディアが深く納得したように、確かめるような呟きを漏らす。



「ええ、その通りです。消費する魔力量の違い、詠唱にかかる時間、そして本人の才能の差。これらが複雑に絡み合うため、一概(いちがい)にどちらのジョブが強いとは言い切れないのです。」



ゼノ先生は腕を組み、戦況を鋭く見つめながら言葉を締めくくった。



その直後、訓練場の空気が一変する。防戦一方だったルクシオ先生が、ついに反撃へと転じたのだ。



「火炎よ、舞(ま)い爆(は)ぜろ。『フレア・レギオン』。」



ルクシオ先生が短く唱えた瞬間、彼の周囲に凶悪な熱量を孕(はら)んだ無数の火球(かきゅう)が出現した。それらは激しい爆音を響かせながら、意志を持つ軍勢の如き速度でジキルへと襲いかかる。



「——凛冽(れんりつ)する大気よ、光の歩(あゆ)みを凍(い)てつかせ、不可侵(ふかしん)の結晶世界を謳(うた)え。『アイシクル・パレス』!」



迫り来る爆炎に対し、ジキルは即座(そくざ)に杖を突き立てた。地面から突き出した無数の巨大な氷柱(つらら)が、まるで美しい宮殿の障壁(しょうへき)のように連なり、ルクシオ先生の爆炎を間一髪で受け止める。凄(すさ)まじい水蒸気が視界を覆う。だが、炎と氷。属性の相性としてはジキルの方が圧倒的に不利だ。連射が効くとはいえ、このまま防戦を強いられればジリ貧になるのは目に見えていた。



「——ここからよく見ていてください。」



ゼノ先生が真剣な面持ちで目を細め、戦況の転換点を指し示す。水蒸気の向こう側で、ジキルが覚悟を決めたようにアクアマリンの杖を天へと掲げた。



「——狂い咲(ざ)け、荒れ狂う水源よ。凍化(とうか)せしめる冷気と混ざり合い、一切を噛み砕(くだ)く嵐となれ。『カタラクト・グレイシア』。」



ジキルの咆哮(ほうこう)と共に、訓練場の上空に黒雲(こくうん)が立ち込めた。次の瞬間、刃(やいば)のような鋭さを持った豪雨(ごうう)と、巨大な氷の塊が、訓練場の全域を埋め尽くすほどの凄(すさ)まじい密度で天から降り注ぐ。まさに天災そのものの猛威(もうい)だ。



「魔術師は、魔術の影響範囲を広げようとすると術式が乗算的に複雑化するため、実戦で広域魔術を使うのを避ける傾向にあります。対して魔法使い(ウィザード)は、詠唱さえ済めば、効果範囲は『魔力量』に依存するため、調整が容易。そのため、このような必中の『範囲魔法』を好みます。」



ゼノ先生の解説が響く中、訓練場は激しい雨音と氷塊(ひょうかい)の破砕音(はさいおん)に支配されていた。しかし、その嵐の只中(ただなか)を凝視(ぎょうし)していたクローディアが、ハッと息を呑む。



「あら?ルクシオ先生はどこへ……?」



視界を遮る凄(すさ)まじい数の水と氷の嵐。その暴力的な光景の中に、確かにそこにいたはずのルクシオ先生の姿が、影も形も消え失せていた。



「——『アイスブレード』。」



激しい雨音を切り裂き、ジキルが盾として展開していた巨大な氷柱(つらら)の影から、ルクシオ先生が音もなく、しかし驚異的な勢いで飛び出した。ジキルの眼前へと肉薄(にくはく)した瞬間、ルクシオ先生の手に魔術の紋様が明滅する。次の瞬間には、彼の右手に鋭利(えいり)な氷の刃(やいば)が握られていた。その切っ先は、完全に虚(きょ)を突かれたジキルの喉元へと突き立てられている。



「そこまで!」



無音となった訓練場に、シヴァの鋭い拍手が再び鳴り響き、模擬戦の終了が告げられた。



「——術式さえ正しく展開できれば、その場に武器すら創り出すことができる。そして、詠唱が短いからこそ、このように隙を突いて敵の懐(ふところ)へと一瞬で肉薄(にくはく)できる……。これが、魔術師が必ずしも後衛職ではない、と言われる最大の理由ですよ。」



ゼノ先生はいつもの甘い表情へと戻り、「ねっ?」と首を傾(かし)げてクローディアに微笑みかけた。



「……なるほど。ノアが無詠唱で魔術を使えるからこそ、ゼノ先生に剣術も教わっているのだと思っていましたが……そもそも魔術師という存在自体が、近距離戦を可能とする柔軟性を持っているのですね。」



クローディアは心底(しんそこ)納得のいった様子で、深く頷いた。



「いやはや、ルクシオ先生には完全に参りました。一体、何手先まで読まれて動かれていたのやら……。僕の動きのすべてが、最初から先生の織り込み済みだったかのような鮮やかな展開でしたね。」



ジキルは手にしたアクアマリンの杖をマジックボックスへと仕舞いながら、両手を上げておどけた風に降参のポーズを取ってみせる。



「魔法使い(ウィザード)は、一度懐に入り込まれれば無力も同然ですからね。これからはご自身の広域(こういき)魔法で視界を奪われ、それを敵に悪用されることのないよう、どうかお気をつけください。」



ルクシオ先生は手にした氷刃(ひょうじん)を大気へと霧散(むさん)させると、眼鏡の位置を直しながら、自身の癖である人差し指を口元に当てる仕草をした。そして、先ほどのゼノ先生の真似をするように、ふっと意地の悪い笑みを浮かべて「ねっ?」とジキルへ語りかける。


それを見たゼノ先生が「おい、私の真似をするな」とばかりに苦い顔をし、シヴァが小さく鼻で笑う。やはり、この三人の空気感は昔から何も変わっていないらしい。俺とクローディア、そしてジキルのように積み上げてきた思い出がたくさんあるのだろう。この空間はとても居心地がよく、感慨深(かんがいぶか)いものだった。




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