失いしもの[参]
「次は誰が仕合をするか」そんな呑気な雑談を交わしていた場に、突如としてけたたましい足音が響き渡った。その場の空気を裂くように俺の元へと走り寄ってきたのは、息を完全に切らせた一人の騎士だった。彼はすぐ様その場に膝を突き、緊迫感を帯びた声を上げる。
「殿下、ノア様、皆様方!どうか、どうか公爵邸内へと至急お入りください!」
「——そんなに慌ててどうした。まずは呼吸を整え、理由を述べよ。」
ただ事ではない。そう直感しながらも、俺はあえて低く落ち着いた声を意識した。俺まで動揺すれば、周囲まで混乱しかねない。目で無言の圧をかけ、騎士に次の言葉を促した。
「飛行型の魔物が皇国の領土内で多数確認され、——現在、西の貴族街を強襲!すでに、多くの死傷者を出している模様です!」
騎士が狼狽えた様子を隠せぬまま報告する。
「西の貴族街だと——!?」
俺の声に引きずられるように、隣にいたジキルの肩がびくりと大きく跳ね上がった。
「そこは……私の……ルンペスト家の邸宅がある、区域です……っ!」
全員の顔から一瞬にして余裕が消え失せ、その場が凍りつく。ジキルの顔からはみるみると血の気が引き、死人のような土気色に染まっていった。いつも崩さなかった温厚な笑みが消え、今にも駆け出そうとするその横顔は、恐怖で歪んでいる。
「ノア様!い、今すぐ私は自宅に戻ります……っ!」
普段の穏やかさは微塵もなく、強い語気を滲ませて、ジキルは叫んだ。
「お待ちください、ジキル様! すでに騎士団や冒険者の混成部隊が討伐に向かっております! 西の貴族街はあまりにも危険です!どうか邸宅内にお入りになってください!」
騎士は必死の形相でジキルを呼び止める。しかし、その必死の制止すら、今のジキルの耳には届かない。
「それなら、私も魔法使いだ!討伐に向かう!邸宅内で待ってなどいられるか……!」
声を荒らげて走り出そうとするジキルの前に、今度はクローディアが飛び込んだ。その細い両腕で、彼の服を縋るように掴み取る。
「ジキル!貴方、魔法使いだと言っても、実戦経験は皆無に等しいのでしょう!?今そんな場所へ行ったら、貴方だって死んでしまうわ!」
「クローディア様、お赦しください。……我が身がどうなろうと、行かなくてはならないのです!あそこには家族がいる……!私が、私が護らなくて誰が彼らを護るというのです……っ!」
掴まれた腕を振り払うかのように、ジキルは声を枯らして叫んだ。見開かれたその瞳には、家族の危機に対する張り裂けんばかりの焦燥と、悲壮な感情が揺らめいていた。
「馬車を……用意しろ。俺も向かう。」
重々しい俺の声がその場を支配し、全員の視線が一斉にこちらへと集まった。
「ノア様!なりません!自らそのような危険な地へと赴くなど……!」
シヴァが拒絶の意志を宿した足取りで一歩前に出ると、俺の進路を遮るようにして毅然と立ちはだかった。その瞳には、主君の身を断固として守ろうとする強い忠誠心が宿っている。
「シヴァ、友を助けるためだ。……止めるな。」
俺は一歩も引かず、射すくめるような強い視線をシヴァへと向けた。有無を言わせぬその眼差しに、シヴァは一瞬だけ息を呑み、承服しかねる思いを押し殺して唇を噛む。
張り詰めた沈黙を破ったのは、低く穏やかな、しかし確かな芯のある声だった。
「……それならば、私とゼノも参りましょう。私たちは少なからず実戦の経験がございます。少しはお力になれるかと。」
ルクシオ先生が歩み寄り、取り乱すジキルの肩にそっと手を置いた。ポンポンと優しく叩くその手には、焦る彼の心を落ち着かせるような、不思議な包容力と頼もしさが籠もっていた。
「そ、それなら、私も……!」
クローディアが一歩前に出た。その声音は、微かに震えながらも確かな覚悟を帯びていた。
「いや、ディアはここにいてくれ。ここには公爵邸の精鋭も、ラエル兄さんもいる。魔物の被害がここまで及ぶことはまずないはずだ。」
「嫌よ、私も行くわ!私もジキルの友達よ!ここでただ待っているなんてできない!」
クローディアは頑なに首を横に振り、一歩も譲ろうとしない強い意志を剥き出しにする。
「ディア、今は言い争いをしている時間はないんだ。——君は、皇女殿下でもあるんだから。」
俺は彼女の細い両肩にそっと手を置き、優しく諭すようにその顔を覗き込んだ。
「どうか、俺のためにここにいてほしい。君が安全な場所にいてくれるからこそ、俺は後ろを顧みずに全力で戦える。もし君を守りきれず、その身体に傷でも負わせてしまったら……俺は一生、自分を許せないだろう。だから、な?……頼む。」
懇願するような俺の眼差しを受け、クローディアの唇が開きかけ、そして閉じた。葛藤を堪えるように一度だけ強く目を閉じ、やがて小さく息を吐き出す。
「……分かったわ。けれど、約束して。誰一人、欠けることなく、傷を負わずに戻ってくると。」
彼女のその言葉に、シヴァ、ルクシオ先生、ゼノの三人が、その場に深く跪いた。
「クローディア様のご命令、しかと承りました。我ら三人の命に代えましても、ノア様とジキル様を必ずやお守り通してみせましょう。」
シヴァが全員を代表して、力強い誓いの声を響かせる。その頼もしい姿に、クローディアはどこか救われたように、小さく安堵の笑みを浮かべて頷いた。
「では、そろそろ向かおう。一刻を争う事態だ。シヴァはまず馬車の用意を。先生方は戦闘の準備をお願いします。俺も着替えてくる。ジキルには俺の戦闘服を貸そう。全員、準備が整い次第、早急に正面玄関の馬車へと集まるように。——よいな。」
「はっ!」
シヴァ、ルクシオ先生、ゼノ先生の三人は、揃って右腕を胸へと当てて一礼すると、その場から散っていった。
「——伝令してくれた、そこの騎士。」
「はっ……!」
その場に取り残され、未だ床に跪いていた騎士の肩がびくりと跳ねる。
「ディアをラエル兄さんの元へと送り届けろ。そして、俺たちの状況を正確に報告するんだ。……よいか、ディアには傷一つ付けるなよ。」
威圧を含ませた俺の声に、ほんの僅かに殺気が混じる。 もし皇女である彼女に何かあれば、ただでは済まさない。無言の圧力を向けられた騎士は、ごくりと喉を鳴らした。
「はっ!この身を呈してでも、必ずや皇女殿下をお守りいたします!」
「……行け。」
俺の放つ圧倒的な気迫に気圧され、僅かに身体を震わせながらも、騎士は「皇女殿下、こちらへ」と促し、クローディアを伴ってラエル兄さんの元へと急ぎ足で去っていった。
嵐のようだったその場に、俺とジキル、二人だけの静寂が戻る。
「……じゃあ、ジキル。俺たちも着替えに行こう。今の格好では、魔物の爪一枚防げないからな。」
「——ありがとうございます、ノア様。」
ジキルは深く頭を下げると、固く拳を握りしめ、俺の後ろを一歩も遅れまいとついてくる。俺たちは互いに視線を交わすこともなく、ただ前だけを見据えて、私室へと向かって駆け出した。
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