得難きもの[漆]
【反芻】過去の経験や言葉を、心の中で何度も繰り返し思い返して深く考えること。
隣室へと移動した俺達は、並んで深いソファへと身体を沈めた。部屋には、シヴァが淹れてくれた温かなミルクティーの優しい香りが満ちている。銀のトレイに載せられた磁器のカップからは、かすかに白い湯気が立ち上っていた。
俺達はそれ以上、言葉を交わさなかった。ただ静かに、互いの存在を確かめ合うように、ぬくもりの残るカップを手に取って口へ運ぶ。カチリ、と銀のスプーンが触れ合う小さな音だけが、静まり返った部屋に心地よく響いていた。
「そういえば——。」
ふと思い出したように、クローディアが小さく口を開く。その表情には、まだ不安の影が色濃く残っていた。
「ノア、貴方の意識が無くなる直前……瞳が、不気味なほどの真紅に染まっていたの。」
「真紅に……?」
「ええ。いつもの月白の瞳の色じゃなかったわ。さっきベッドで意識が戻った時には、もう元の色に戻っていたけれど……。本当に、何ともないのね?」
特段、今この瞬間に痛みがあるわけではない。胸の中に妙な熱が残っているわけでもなかった。ましてや、自分の瞳が真紅に染まるような異変など、まるで心当たりがなかった。
——しかし、本当に「何ともない」と言い切れるだろうか。俺は過去の記憶をさかのぼり、心当たりのある違和感を口にする。
「……いや、実は最近、日中の眠気が酷いんだ。身体がまるで鉛のように重く感じる日も、しばしばあって……。それと何か関係があるんだろうか。」
「日中の眠気……? 身体が重いだなんて、そんなこと一言も……。」
驚きに目を見張るクローディアに対し、俺は静かに頷き、自身の内側で起きていた異常を打ち明ける。
「ああ。意識を失うほどの明確な発作は今回が初めてだった。だけど……まるで内側から何かを強引に吸い上げられているような感覚や、逆に、抑えきれない魔力が熱を持って体内を暴れ狂うような感覚は、かなり前から何度も感じていたんだ。」
「そんな……!」
クローディアが珍しく感情を露わにして声を荒げる。
「ゼノ先生の授業で、体調に問題がないか確認したでしょう? その時にはそんなこと、一言も言ってくれなかったわ!」
「すまない。ただの寝不足か、少し疲れが出ているだけだと思っていたんだ。」
俺は眉をひそめ、自身の状態を冷静に分析するように言葉を返す。
「——それに、俺は元々、魔力量が人より多いと聞いていただろう? 体内の熱も、てっきりその制御がうまくいっていないせいかとばかり……。」
「……っ! 待って。」
クローディアが何かを思い出したように、自らの言葉を突如として遮った。俺の言葉を頭の中で反芻しているのだろう。彼女は、記憶の欠片を繋ぎ合わせようと、険しい表情を見せる。
「真紅の瞳……魔力の異常な熱……それに、激しい日中の眠気……。おかしいわ、最近どこかで、これと全く同じ症状を記述した文献を見聞きした気がするの……。」
「それは……一体どこで!?」
俺は思わずソファの座面に手を突き、隣の彼女へと顔を向けた。彼女は視線を彷徨わせていたが、不意にその瞳が一点で止まった。
「えぇっと……確か……。——っ、そうよ! そうだわ! あそこよ! 禁書庫の中で、私が読んでいた『失われた種族』というタイトルの古文書!」
「『失われた種族』……? そこに俺の症状の理由が……?」
「そう。今現存する十種の種族の他に、失われた十一種族目が過去に存在していたとされる書物を読んでいたの。『吸血鬼族』、ヴァンパイアと呼ばれる種族の記録よ。」
「吸血鬼族……。ヴァンパイア……。」
聞いたこともない不穏な響きに、肌の産毛が逆立つような錯覚を覚える。
「それはどんな種族なんだ?」
問いかけられたクローディアは、酷く話しづらそうに、躊躇うように薄い唇をきゅっと噛んだ。
「……他者の血を飲んで生きる種族だと書いてあったわ。」
「他者の……血を!?そんな……それじゃまるで、化け物じゃないか……。」
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。全身の血の気が引いていく。
「それから魔族や鬼族と同じで夜行性だったはず。貴方が日中に激しい眠気に襲われたり、身体が鉛のように重たくなるのは、その性質が原因だと考えれば説明がつくわ。」
クローディアの静かな指摘が、重く胸に突き刺さる。
確かに、夜行性の種族が無理に太陽の下を出歩けば、深刻な体調不良や活動機能の低下を招くと聞いたことがある。俺のこの異常な身体の重さは、病などではなく、種族の『本能』の拒絶反応だったというのか。
「……それに、まだ貴方に当てはまる決定的な事実があるの。ノア、貴方……公爵家の養子だったわよね?」
「あ、あぁ。俺は元々、兄さんの補佐を務めるために引き取られた。それが、俺の身体と何か関係があるのか?」
「大事なのは養子という経緯そのものより、貴方の『血筋』なの。貴方、亜族よね?自分自身がなんの種族の混血か分かる?」
「天族と鬼族の混血、だと聞いているけど。」
「そこが歪みなのよ。吸血鬼族は子孫を残せない。その代わり、ある日突如として亜族の中から『出現』するらしいの。そうして現れては消え、歴史の裏で絶滅を繰り返してきた。……時間が足りなくて、絶滅に至る詳細な背景までは読み解けなかったけれど。」
クローディアはもどかしげに眉をひそめ、組んだ指先にきゅっと力を込めた。その言葉の重みに、部屋の空気が目に見えて沈み込んでいく。
「そう、なのか……。今後俺はどうなる?吸血鬼族へと変異していくのか?」
喉の奥から絞り出した俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。自身の身体が未知の存在へと変貌していく恐怖が、じわじわと背筋を這い上がってくる。
「正直……分からないわ。」
クローディアは痛ましげに、長い睫毛を伏せた。
「すべてを読み解けたわけじゃないから……。その変異を止められるのかどうかも、今の私には……。」
確かな答えを返せない悔しさと不安が、彼女の横顔に陰を落とす。部屋を支配する沈黙は、先ほどよりも一層深く、重いものへと変わっていった。
冷めかけたミルクティーからは、もう湯気は立ち上っていない。そんな硬直した空気を破るように、クローディアが意を決したように顔を上げる。
「……ノア、提案があるのだけれど。」
「どうした?他にもなにか思い出したのか?」
「いいえ、思い出せてはいないわ。ただ、だからこそもう一度行くべきだと思うの。……あの禁書庫に。」
「禁書庫に?」
彼女の意図を測りかねて眉をひそめた俺に、彼女は強く、真っ直ぐな視線を向けた。
「ええ。まだ分からないことが多すぎるわ。貴方の身体に起きていること、そして吸血鬼族の真実を知るためにも、行くべきだわ。」
しばしの沈黙が流れる。窓の外で夜風が木々を揺らす音だけが響く中、俺は彼女の提案を頭の中で反芻した。危険を伴うのは間違いない。だが——。
「そう……だな。鍵の問題や、最奥の塔まで誰にも見つからずに辿り着けるかといった問題の難しさはある。だが、このまま何も知らずにただ怯えて待つ方が、よほど危険だ。」
「鍵なら心配いらないわ。またどうにかしてお父様の引き出しから持ち出してみせるから。」
「……ありがとう。いつも迷惑をかけてすまない。」
「いいのよ、気にしないで。他でもない、貴方のためだもの。」
ふっと緊張を緩め、柔らかく微笑む彼女の姿に、胸の奥が震えた。俺にだけ向ける特別な甘さが、その緋色の眼差しから穏やかに滲み出ている。
「ディアには感謝することばかりだな。……気づけば、随分と夜も更けてしまった。帰りの馬車を用意させよう。」
「そうね。貴方も身体のことがあるのだから、今夜はよく休んで。」
「ああ、そうするよ。」
俺は机の上の銀の鈴を手に取り、静かに鳴らした。澄んだ音色が静寂を渡っていく。現れた執事のシヴァに馬車の手配を命じるとともに、俺たちの間で約束が交わされる。
——禁書庫への再侵入。鍵が手に入り次第、クローディアが再びこの公爵邸を訪れる手はずとなった。暗闇に包まれた最奥の塔を思い描きながら、俺は押し寄せる不安を、決意の裏側にそっと隠した。
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