得難きもの[陸]
【天蓋】ベッドや祭壇などの上方を覆う、装飾用の布製のひさしや屋根。
【侍医】天皇、皇族、または王や貴族などの身分の高い人に、お抱えの医師として常に付き従い、診察や健康管理を行う主治医。
拒むように閉ざされた瞼を持ち上げると、最初に出迎えたのは見慣れた夜天の如き天蓋だった。光を吸い込むその黒は、まるで時さえも呼吸を止めた、濃密な静寂そのものだった。
「ここは……。俺の……ベッド?」
僅かに身を起こし、辺りを見回す。そこには見慣れた、自分の寝室の景色があった。美術品のように精巧なシャンデリアも、贅沢な刺繍が施された背もたれの高い椅子も、すべてがいつもあるべき場所に収まっている。
夢と現実の境界線で彷徨っていた意識が、その馴染み深い調度品たちを目にすることで、ようやくしっかりと現実に繋ぎ止められるのを感じた。
「ん……んぅうん……っ。」
微かに、こぼれ出るような甘い吐息が耳に届く。視線を落とせば、ベッドの脇に置かれた長椅子に腰掛け、上半身だけを俺の枕元に横たえるようにして、誰かが眠っていた。
「ディア……か?」
顔は見えなかったが、見覚えのある至白の髪に、毛先に向かって黒く溶けていくような波打つ髪。これほど見事な髪の持ち主を、俺は一人しか知らない。
(なぜ、こんなところで眠っているんだ?)
このままでは体を冷やしてしまう。そう案じた俺は、自分が被っていた上質なウールのブランケットを剥ぎ取り、そっとその背に掛けてやるべく、ベッドの上で身を乗り出した。
「んん……。ノア……?」
気配を察したのか、彼女が小さく身じろぎする。
「あぁ、俺だよ。」
遮るもののない彼女の美しい髪を、サラリと優しく指先で優しく横へ流し、露わになった愛らしい頬をそっと撫でる。その温もりに、生きている実感が湧いた。
「……ノア!?起きたの!?」
直後、弾かれたように顔を上げたクローディアの瞳に、はっきりと覚醒の光が宿る。
「ど、どうしたんだ……?」
突然の勢いに気圧されながら、慌てて飛び起きた彼女の顔を覗き込むようにして、俺はその様子を窺った。気丈な彼女にしては珍しく、その完璧な美貌が酷く窶れているように見えた。
「どうしたんだ……じゃないわよ。本当に、心配したんだから……。ノ、ノアが……このまま死んでしまうのではないかと……。」
覗き込んだ彼女の大きな瞳から、堪えきれなくなった一筋の涙がこぼれ落ちる。それはベッドのシーツに、小さな暗い染みを作った。
(俺が……?死ぬ……?)
なんのことだ、と疑問が浮かんだ直後、記憶の欠片が唐突に噛み合う。
(——そうだ、俺は倒れたんだ!)
慌てて自分自身の体を確かめるように、胸に手を当てる。だが、記憶の最後に俺を苛んでいたあの強烈な激痛も、胸の奥で渦巻いていた異様な熱も、嘘のように消え去っていた。肺は問題なく空気を吸い込み、脈も正常に時を刻んでいる。
(そうか。だからディアは、俺が目覚めるのをここで待ち続けて……。)
疲れ果てて眠ってしまうほど、彼女は俺の傍を離れなかったのだ。申し訳なさが込み上げると同時に、目覚めるまで傍にいてくれたクローディアの献身的な温かさに、胸が締め付けられるように熱くなった。
「俺は……意識を失って倒れていたのか。だが、もう大丈夫だ。見ての通り、もう痛みも息苦しさも感じていない。……心配をかけたな。」
「本当に……?本当にもう平気なのね……?」
クローディアはすがるように俺の胸元に顔を埋め、なおも視線で答えを追い求めてくる。その瞳はまだ、恐怖で小刻みに震えていた。
「——もう嫌よ。あんなに苦しそうな貴方を見るのは……!ノアが倒れて、私がどれほど恐ろしかったか……っ!」
堰を切ったように溢れ出す言葉を受け止めながら、俺は静かに彼女を見つめ返した。
「……大丈夫だ。俺はここにいる。だから泣かないでくれ。」
なおも、俺の黒いシャツを掴み、声もなく涙を流し続けるクローディア。その細い指先には、俺を二度と手放したくないというような、痛切なまでの力がこもっていた。
本当なら、このまま彼女を腕の中に抱きすくめてしまいたかった。だが、俺たちの間には、決して超えてはならない厳然たる一線がある。
俺は胸の奥に生じた衝動を辛うじて抑え込み、ただそっと、彼女の柔らかな髪へ手を伸ばした。手のひらから伝わる温もりだけで、己の生存を、確かな現実を、彼女の心へ染み込ませるように優しく撫でる。
それでも、彼女の涙がすぐに止まることはなかった。シャツを掴む彼女の指の震えが収まるまで、俺はただ、動くことも抱きしめることもできぬまま、静かに流れる時間と切ない痛みを分かち合っていた。
しばらくの沈黙の後、ようやく落ち着きを取り戻したのか、クローディアがゆっくりと顔を上げた。
「——ごめんなさい。私、取り乱したりして……。」
伏せられた睫毛には、まだ大粒の涙が残っている。俺は愛おしさを堪えながら、指先でその涙を優しくすくい上げた。
「いいんだ。ずっと側についていてくれてありがとう。……寒くはないか? 暖かいミルクティーでも一緒に飲もう。」
彼女の華奢な肩に、ずり落ちかけていたブランケットをもう一度かけ直す。それから、シヴァを呼ぶため、手元にある銀の呼び鈴を静かに鳴らした。
涼やかな鈴の音が廊下に響き、しばらくして、規則正しいドアのノック音が静寂を破る。
「入れ。」
俺の短い返事と同時に、扉が静かに開いた。姿を現したのは、いつもは冷静沈着な執事のシヴァだ。しかし今ばかりは、その端正な顔を驚きと安堵で歪めている。
「——ノア様! 意識が戻られたのですね!? クローディア様に呼ばれ、私がこの部屋に駆けつけた時には既に気を失われており……どれほど心配したことか……っ!」
「すまない、心配をかけたな。だが、もう問題ない。」
いつになく冷静さを失いかけている彼女を宥めるように微笑むと、シヴァは一つ深く息を吐き、いつもの冷静沈着な執事らしい厳かな表情へと戻した。白手袋を嵌めた手を恭しく前で組む。
「……侍医にも診ていただきましたが、意識を失われた明確な原因は見つけられなかった、とのことです。」
「そうか。原因は分からないか……。」
胸の奥に小さな引っかかりを覚えながらも、今はそれ以上追及するのをやめた。
「悪いが、シヴァ。隣の部屋に暖かいミルクティーを用意してくれるか?」
「かしこまりました。——意識が戻られたとはいえ、決してご無理はなさらないでください。今夜は早めにご就寝いただくよう、お願いいたします。」
「あぁ、そうするよ。」
俺の言葉にシヴァは深く一礼し、足音を立てずに部屋を後にした。
「さぁ、ディア。ここは少し肌寒い。隣の部屋で暖まろう。」
まだ名残惜しそうに俺の服の袖を掴んでいるクローディアの肩を、優しく支えるようにして抱き寄せる。俺たちはゆっくりと、温かな灯りの灯る隣室へと移動した。
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