ゾラム[壱]
【戦鎚】戦闘用に作られた「ハンマー(槌)」のこと
まだ太陽が明るい昼下がり、いつもより早く俺は目覚めた。夕刻からのリオネルに剣術を指導する時間までは、まだたっぷりと猶予がある。俺は談話室へと足を運び、厚手のカーテンを引いて、陽光を遮断した。
ライトをつけ、仕立てのいいソファに寝そべり、背もたれに頭を預けながら、クローディアが神殿から持ち出してきた古文書『失われた種族』の頁をめくる。古い羊皮紙を指先で捲る音と、掠れた文字の配列をしばらく眺めているうちに、じわじわと眠気に襲われる。本の重みを胸の上に感じながら、耐えきれず瞼を閉じた。
浅い微睡みの中でどれほどの時間が流れただろうか。入り口の扉が開閉する音が聞こえた。誰が部屋に入ってきたのだろうと重い身体を起こしかけた、その瞬間。トサっ、という柔らかな音とともに、俺の視界は真紅の薔薇によって埋め尽くされた。一面薔薇の視界の隙間から視線を上げると、アイシスがソファの背もたれの縁にしなやかな身体を預け、蜜蝋色の瞳で俺をじっと見つめていた。ポニーテールに結わえられた髪が、肩口でさらりと揺れる。
「プレゼントだ」
彼女が差し出してきたのは、綺麗に包装された大ぶりの花束だった。瑞々しい花弁から解き放たれた、甘い香りが一気に談話室の空気を満たしていく。まるで身体ごと薔薇の海に沈み込んでいるかのような濃厚な芳香だ。
「ありがとう。……とても、素敵な贈り物だな」
俺は渡された薔薇の花束を、両腕で大切に抱えながら、上体を起こした。すると、彼女は背もたれから滑りるようにして、俺のすぐ真横へと座り直してくる。その顔には、裏社会を統べるボスとしての険しさはなく、少女のような純粋な微笑みが溢れている。つられて、俺の頬も自然と柔らかく解けていった。
「まだ、他にもあるんだ。これを開けてみてくれ」
そう言ってアイシスが手渡してきたのは、手触りの良い紙で丁寧に包まれた長方形の箱だった。受け取り、リボンを指先で滑らせるようにして、包装を解いていく。現れたのは、上下に分かれた重厚な造りの黒い箱。上蓋を静かに持ち上げると、赤いサテン生地の凹みに収められた、細密な銀細工が施された煙草ケースと、特有の金属光沢を放つジガーが、室内の光を反射して煌めいた。
「これは……」
予想だにしない品に思わず息を呑み、指先でケースの冷たい銀の表面にそっと触れる。
「私とお揃いだ」
アイシスは俺の反応を確かめるように、少しだけ身を乗り出してきた。耳元でいくつもの黒いピアスが微かに揺れる。
「前に二人で一緒に煙草を燻らせたとき、アンタが落ち着くと言っていただろう? だから、気分転換をしたい時に使ってほしいと思ってね。……お揃いにするのは、嫌だったかい?」
それまで誇らしげだった彼女の表情が、途端に不安げに曇り、長い睫毛が伏せられる。その、感情のままにくるくると変化する表情が愛らしくて俺は抱えていた薔薇の横に箱を置くと、自然と腕を彼女の頭の後ろへと回していた。首筋を支えるように手のひらで引き寄せ、少しだけ力を込めて俺の方へ引き寄せる。こつん、と、互いの側頭部が優しく触れ合った。
「嫌なわけないだろう。本当に嬉しいよ。……大切に使う」
俺は指先を滑らせて箱からジガーを取り出し、親指でその上部を跳ね上げた。キンッ、という澄み渡る独特の高音が、部屋に心地よく響く。その透明な響きを聞いた瞬間、あの日、夜風の中で二人で紫煙を燻らせながら歩いたロンベルクの夜の光景が、鮮明に脳裏へと蘇ってきた。
体内の魔力をほんの僅かだけ流し込みながら側面の歯車を回すと、ジッという硬質な摩擦音とともに、先端に小さな炎が灯った。
「ノアは詠唱を省略できる魔術師だから、手先から火を出すなんて造作もないことなんだろうけど。でも、やっぱり煙草を吸う時は、これが一番風情があるかなと思ってね」
俺はアイシスの髪を優しく撫でながら、二人でジガーの灯す小さな火口をじっと見つめる。
「ああ、俺もそう思う。味気ない魔術の火でつけるより、ずっと贅沢な心地がするな」
跳ね上げていた蓋を押し閉じると、今度はもう一つの銀のケースを持ち上げた。アイシスが以前に見せてくれた流れるような動作を模倣するように、指先で側面を軽く弾いて開く。内側のバネが弾け、手前に向かって一本の煙草が滑り出てきた。その一本を唇で咥え、ケースを傾けてもう一本をアイシスの前へと差し出す。彼女もまた、慣れた手つきでそれを唇に挟んだ。
ジガーの蓋を再び弾き、小さな炎を近づける。二人の距離が近づき、何も言わないまま、お互いの煙草の先端を炎へと寄せて、静かに火を移し合わせた。深く息を吸い込み、肺の奥に熱を溜めてから、ゆっくりと白く濃い煙を吐き出す。俺は鼻を通り抜けた時の香木の香りが違うことに気づきアイシスへ尋ねる。
「……前に吸わせてもらったやつと、少し香りが違うな?」
「気づいたかい?」
アイシスは嬉しそうに目を細めた。
「ノアはよく、部屋で紅茶を嗜んでいるだろう? だから、もしかしたらハーブティーの類も好むんじゃないかと思ってね。今回のは、特別なハーブをブレンドした特注品にしてみたんだ。……口に合わなかったかい?」
「いや、気に入ったよ。これはこれで、頭の芯がすっと洗われるようで気分が晴れる。今くらいの穏やかな時間に、丁度いい味わいだ」
俺の言葉を聞き、アイシスは心底ほっとしたように胸を撫で下ろすと、談話室の隅に据えられたリカーラックの棚へと歩み寄った。
「酒が置いてある棚の引き出しには、アタシがいつも吸っている煙草の予備が大量に入ってる。使用人が切らさないように常に買い足してくれているから、いつでも好きな時に、好きなだけ吸うといいさ」
そう言いながら、彼女は自身のケースへと手際よく予備を補充し、再びソファの俺の隣へと戻ってきた。談話室の中、二人でただ煙草を嗜み、緩やかな時間を共有する。そこには、無理に紡がれる言葉など必要なかった。会話がなくとも、お互いの気配と漂う白い煙だけで、心は驚くほど深く落ち着いていた。
やがて煙草が指先まで短くなると、俺は手元に魔術の術式を小さく展開し、極小の炎を創り出した。吸い殻の灰や細かな塵さえも、大気の中に残らないほど一瞬で完全に燃やし尽くし、無へと消し去る。それを見ていたアイシスが、驚いたようにその瞳を爛々と輝かせた。
「そんな消し方があったのかい。それは便利だね。灰皿も汚れないし、ゴミも出ない。……本当に、ノアはずるいな」
彼女は長い睫毛を細め、少しだけ拗ねたような、非難めいた視線をこちらへと向けてくる。
「ははは。じゃあ、アイシスのも貸してごらん」
促すと、彼女は短くなった煙草を大人しくこちらへと差し出してきた。先ほどと全く同じように、手元で魔術の炎を爆ぜさせ、吸い殻を跡形もなく完全に消滅させる。
「今度から、アイシスが俺と一緒にいる時は、こうして煙草を消してあげよう。それでいいか?」
問いかけると、アイシスはこくりと素直に頷き、満面の笑みを浮かべた。最初に出会った日の、魔導銃の銃口を突きつけてきたあのとっつきにくい『リントヴルム』のボスは、もうそこにはいなかった。ここにいるのは、ただただ一人の愛らしい女性だった。
「何か、お返しをしないとな。……近いうちに、アイシスに似合うものを買ってくるから、少し待っていてくれ」
「いや、そんな気遣いは必要ないよ。アタシはただ、ノアが常に身につけて、持ち歩いてくれるものをプレゼントしたかっただけだからね」
その言葉を聞き、俺は胸の内で「ああ、なるほど」と納得した。クローディアが買い与えてくれたあのサングラスを、俺が日々欠かさず身につけているのを見ていたから、彼女も同じように、自分と繋がりのあるものを肌身離さず持っていてほしかったのだ。
煙草を吸っていたからか、喉に微かな渇きを覚える。紅茶でも淹れようかと腰を浮かせかけたその瞬間、談話室の扉が再び開かれた。入室してきたのは、シヴァだった。
「……なんだか、色々な香りが充満していますね、この部屋は」
シヴァは部屋に足を踏み入れるなり、前髪の隙間から覗く淡いブルーの瞳を僅かに細め、部屋の空気を敏感に察知した。そして卓上の薔薇の花束に視線を止め、次にアイシスを見つめ、最後に俺の顔へと視線を移した。それも、いつもより随分と長い時間、俺の顔をじっと見つめてくる。
(な、なんだ……?)
シヴァのそのただならぬ無言の圧力に気圧されていると、シヴァは無駄のない洗練された所作で歩み寄り、薔薇の花束をその両腕で抱え上げた。
「お花が傷んでしまいますので、花瓶に生けて参りますね」
シヴァはアイシスへと花瓶の保管場所を尋ね、手際よく薔薇を美しい器へと生け変えていく。すべての花弁がきれいに収まると、満足そうな表情を浮かべた。
そして、シヴァは迷いのない足取りで俺の元へと間合いを詰め、紅茶を口に含もうとしていた俺の顔を、じっと覗き込んできた。氷の結晶のような瞳が、俺を射抜く。
「随分と早めに起きられたのですね。……それなら、昼食を召し上がられますよね? いかがいたしますか? 通常の食事をご用意いたしましょうか? ……それとも、私にいたしますか?」
あまりにも突拍子もない言葉に、俺は思わずブッ、と口に含んだばかりの紅茶を盛大に吹き出してしまった。
「シ、シヴァ……!? 一体どうしたんだ? 普段はそんなこと、絶対に聞かないだろう……っ!」
慌てて口元を拭い、吹きこぼれた液体を片付ける俺を前に、シヴァは手際よく布巾で机の上を拭きながら、抑揚のない声で答える。
「いえ。この時間に起きていらっしゃるのが珍しかったものですから。もしかして、喉の渇きを覚えて目覚められたのではないかと思い、お聞きしたまでです。……決して、他意はございません」
一分の乱れもない、あまりにも淡々とした機械的な物言い。しかし、俺はそのトーンの裏側にあるものを探るべく、脳内で必死に思考を巡らせた。そういえば、ここ最近、シヴァと二人きりで会話を交わす機会が少なかった。ミスティル神皇国にいた頃は、彼女が俺の専属の世話係として、公私ともに一番近くで身の回りの管理をしてくれていたのだ。
(寂しくて、拗ねているのか……?)
有能な執事の仮面の裏に隠された、主君への甘えと独占欲。その健気な理由に気づいた瞬間、俺は彼女の細い手首をそっと自分の手で掴み取っていた。
「アイシス、また後で戻ってくる」
一言だけソファにいる彼女に告げ、俺はシヴァを伴って足早に談話室を出た。
「シヴァ。お前の部屋はどこだ?」
問いかけるも、シヴァは何も言葉を返さなかった。ただ、手首を掴んでいる俺の手を、逆に白手袋の指先で強く掴み、俺を引っ張るようにして廊下を進んで、自身の個室へと招き入れた。
パタン、と扉が閉まる。現れた室内の光景は、なんというか、実に見事に『シヴァ』そのものだった。調度品はすべて完璧な直線で配置され、塵一つ残さず磨き上げられている。生活感を排した、無駄な装飾が一切ない、極めて機能的な空間。
俺はベッドに腰掛け、黒いシャツのボタンを胸元まで緩めた。シヴァの手を傷めぬように引き寄せると、華奢な身体を抱き寄せ、膝の上に座らせる。片側の襟を腕付近まで下ろして首筋を彼女の前にさらけ出した。
「この間捕らえた『ゾラム』の連中の血で、飢えは満たされているものとばかり思っていたが。……もしかして、全然足りていないんじゃないか?」
シヴァがこれほど感情を剥き出しにして動くなど、滅多にあることではない。俺は心配になり、シヴァの首元へと片手を添える。
すると、シヴァは耳の付け根から顔全体までを一瞬にして真っ赤に染め上げ、俺の胸元に顔を伏せて硬直してしまった。
「どうした? 遠慮する必要なんてない。血の渇きが疼いて、自分自身のコントロールが上手くいかなくなっているんだろう?」
優しく先を促すが、彼女の身体は強張ったままだ。
「……ノア様を、この牙で傷つけることなど、私にはできません」
「なぜだ。俺自身が良いと言っているんだぞ」
それでもなお、頑なに動こうとしない彼女に痺れを切らし、俺はシヴァの後頭部を手のひらでそっと包み込んだ。そのまま、拒絶を許さない力で引き寄せ、彼女の唇を、俺の頸動脈がドクドクと脈打つ首筋のすぐ目の前へと押し当てた。皮膚のすぐ下を流れる命の流れに、シヴァの薄い唇が、そして鋭い牙が、耐えかねたように小刻みに震え始める。
「シヴァ。我慢は身体に毒だぞ。余計なことは気にせず、噛みつけ」
その言葉が、彼女の理性を繋ぎ止めていた最後の鎖を断ち切った。ようやくシヴァの牙に本気の力が籠もり、ズブリ、という鈍い音を立ててゆっくりと刺さっていく。
「っっ……!」
一気に深く貫かれるよりも、躊躇いながらゆっくりと肉を貫かれる方が、走る痛みは遥かに鮮烈だった。それでも、彼女はついに衝動を受け入れ、俺の血を啜り始めた。ごくり、ごくりと、喉を鳴らして嚥下する音が、耳元で生々しく響く。
閉ざされた部屋の中に濃厚な血の匂いが充満し、俺の吸血鬼族としての本能もまた、その香りに反応して暴れようとする。だが、シヴァの渇きを癒やすのが先決だ。俺は奥歯を噛み締め、己の衝動を必死に抑え込んだ。しばらくの間、血を啜る音だけを聴いていたが、やがて満足したのか、シヴァの唇がゆっくりと俺の肌から離れていく。彼女は名残惜しそうに傷口を舌先で舐めとると、贄刻を唱え、俺の首の傷跡を綺麗に塞いでくれた。
「……もう、身体は大丈夫か?」
抱き寄せていた身体を離しながら尋ねると、彼女は潤んだブルーの瞳を揺らし、俺の顎に手を添えて顔を近づけてきた。
俺は何事かと動かずにいると、彼女はハッとした顔になり、慌てて離れる。
「……はい。ありがとうございました。……あの、後ほど、私も着替えてから談話室へと戻りますので。ノア様は、先に向こうへ戻っていていただけますか?」
「あ、あぁ。構わないが……本当に、もう無理はしていないか?」
「はい、問題ありません」
「そうか。なら、少し休んでから、落ち着いたときに来るといい」
俺は彼女の髪を上から下に撫でた後、ベッドから立ち上がった。シャツのボタンを一つずつ留め直し、身なりを整えてから、シヴァの部屋を後にして談話室へと戻った。
談話室の扉を押し開けると、そこにはいつの間にかクローディアがおり、アイシスと二人で何かを親しげに話し合っていた。俺の入室に真っ先に気づいたクローディアが、ソファから立ち上がり、「今までどこに行っていたの?」と不思議そうに問いかけてくる。
俺は特に隠す必要もないと判断し、シヴァの体調を案じて俺の血を分け与えていた事実を、そのまま正直に口にした。その瞬間、クローディアの美貌が一変し、慌てたようにこちらへと駆け寄ってきた。
「ノア! 貴方の血を、そんな風に簡単にヴァレンティスやグランティスに分け与えては絶対にだめよ! ヴァンパイア・ロードの血の魔力はあまりにも濃すぎるわ。その血を直接体内に取り込んでしまうと……配下たちの内に眠る服従心が限界まで引き出されるだけでなく、貴方の存在を、狂おしいほどに強く求めてしまうようになるのよ!」
「……っ。それは、妃との間だけの効果ではなかったのか……」
突きつけられた種族の残酷な真実に、俺は今更ながら、己がどれほど取り返しのつかない軽率な真似をしてしまったのかを察した。
「きっとシヴァは、ノアに触れてしまわないよう、必死に理性を繋ぎ止めて耐えていたのよ。私、急いで様子を見てくるわ。ノアは、絶対に来ちゃだめよ」
「あ、あぁ……分かった」
クローディアの声音に押され、俺はそれ以上動くことを諦めた。ソファへと大人しく身体を沈め、隣に座るアイシスと共に、二人がこの場所へ戻ってくるのを待った。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。窓外の闇が深まり、ようやく扉が静かに開いた。入ってきたのは、一安心した表情のクローディアと、いつもの完璧な執事の仮面を取り戻したシヴァだった。
「ノア様、我が身の未熟さゆえに、軽率な行動を招いてしまい本当に申し訳ありませんでした」
シヴァは俺の前に進み出ると、床へと片膝を突き、深く頭を垂れた。床を見つめる白手袋の拳が、微かに震えている。
「いや、悪いのは俺だ。ヴァンパイア・ロードの性質を深く理解もせず、お前に血を差し出した。シヴァ、お前が謝る必要などどこにもない。どうか頭を上げてくれ」
俺は身を屈め、彼女の手をそっと包み込んで立ち上がらせた。クローディアがシヴァを労るように隣のソファへ腰掛けさせ、アイシスが「本当に体調は大丈夫かい?」と気遣わしげに顔を覗き込んでいる。
まさにその時だった。バタン、と凄まじく乱暴な音が響き渡り、談話室の扉が大きく開かれた。息を切らせて入ってきたのは、ルクシオとレイムの二人だった。
「魔物の軍勢が、ロンベルクの領地内へと侵入しました! それも、よりによって『リントヴルム』が管理する側の城門から、一斉に雪崩れ込んでいるとのことです!」
ルクシオは金縁の丸メガネの位置を素早く直しながら、理知的な瞳に緊迫した光を宿して早口に報告する。
「何だって!? あの城門は、分厚い鉄で造られた頑強なものだぞ!何故そんなにあっさりと魔物が中に入ってこられるんだ!」
アイシスは驚愕に目を見張り、勢いよくソファから立ち上がり声を張り上げた。
「……どうやら、外からの破壊ではなく、内側から門を開いた者がいるようです」
ルクシオは信じられないことを語るように言葉を絞り出す。
「城門が開く時間をあらかじめ知っていて、魔物の群れが外で待機していたのだとしたら……それは、人間と魔物が裏で手を組み、協力しているということになる。そんな話、これまで一度だって聞いたことがないぞ」
俺は眉根を深く寄せ、事態の深刻さに胸の奥がざわめく様に波立つ。
「アタシだって聞いたことない……」
アイシスの顔もこれ以上ないほど、青ざめている。
「とりあえず『リントヴルム』側が開いてしまったのなら、こちらの被害が増えるだけだ。街の住民も逃げる所などないだろう。なんとしても始末しなければ……」
俺は思考を高速で巡らせ、あらゆる可能性を考える。
「まず、アイシスと俺と、確かナナシは治癒士だったな?この気に乗じて孤児院が狙われているかもしれないことを考えて、この三人で孤児院へ行く。城門の方へは魔物に対して強いルクシオとクローディアとジキル、それと近接職としてゼノを向かわせよう。シリウスは私邸に残って指揮を執ってくれ。シリウスの護衛としてレイムとガロンを置いていこう。……これでいいか?」
俺の指示に、室内の面々が力強く首を縦に振った。
「……シヴァ。お前は、動けるか?」
俺はシヴァへと真っ直ぐに視線を向け、その状態を確かめるように問いかけた。
「はい、問題ありません。ノア様のご命令とあらば、いつでも」
彼女は一切の隙を排した冷静沈静な執事の調子で答えを返してきた。
「なら、シヴァは俺と共に来い。孤児院の周辺は、対人戦となる可能性が高い。」
「御意」
シヴァは完璧な所作で一礼する。
「ルクシオ、レイム。まずはこの配置と指示を、急ぎ各々の部屋にいる者たちへ伝えてくれ。俺たちはナナシを見つけ次第、孤児院へ向かう。頼んだぞ」
「御意」
ルクシオはレイムと共に急ぎ、部屋を退出していった。
「アイシス、ナナシがいそうな場所、分かるか?」
「恐らく地下だ。そこに拷問室がある」
その言葉を合図に、俺たちはすぐさま階下へと続く冷たい石の階段を駆け下りた。地下室の扉を押し開けた先で目にしたナナシは、無数の拷問道具に囲まれた床の上で、静かに両膝を突き、両手を合わせて熱心に何かを祈り続けていた。
「ナナシ、出動だよ。アタシたちについてきな。……向かってくる敵は殺していい。」
アイシスの命令がナナシの耳へと届くと、祈りを捧げていたシスタードレス姿のナナシが、素早く顔を上げた。レースの目隠しで瞳は見えないものの、その唇が狂喜に歪み、華やかな笑顔へと変わるのがはっきりと分かった。
「天理を切り裂き、隠されし領域を現出せよ。『マジックボックス』。」
彼女が美しい透き通った声で呪文を紡ぐと、眼前の空間が四角く黒く切り裂かれる。その闇の奥から彼女の白い手が引き抜いたのは、人一人の背丈ほどもある、巨大な戦鎚だった。
その戦槌は、まるで星の核を切り出して鍛え上げられたかのような、青く澄んだ光を放っていた。巨大な双頭の鎚頭は硬質な蒼銀の金属で覆われ、中央には十文字に交差するフレームに守られた、眩い結晶体が埋め込まれている。柄には、滑り止めの漆黒の革が緻密に巻き付けられ、随所に施された黄金の装飾が、この武器がただの鉄塊ではなく、神聖な儀礼の器であるかのように見せていた。
「さぁ、では今夜は、格別な悲鳴を聴きに参りましょう」
ナナシは聖女のような微笑みを浮かべ、巨大な戦鎚を片手で軽々と肩へと担ぎ上げた。
戦える治癒士もいるのだなと感心しながら、俺たちは孤児院を目指し全速力で走り出した。
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆やリアクションで応援お願いします!執筆の支えになります!




