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リントヴルム[拾]

部屋を出たはいいものの、広い邸宅の中でアイシスが今どこにいるのか明確な居場所は分からなかった。だが彼女のいそうな場所なら、探さずとも自然と頭に浮かんだ。——アイシスの私室の横に広がる、月光の射し込むバルコニーだ。


俺はアイシスの私室の前に立ち、扉を静かにノックした。室内からの返答はない。鍵の掛かっていないドアノブをゆっくりと押し回し、控えめに中へと足を踏み入れて様子を確かめる。バルコニー側の一面ガラス張りの壁の向こう、音の消えた世界を見据えるように、外の景色をじっと眺めているアイシスの細い輪郭が、真っ暗な室内の暗がりに浮かび上がっていた。やはり、予感通りここにいた。


俺は開け放たれていたガラス扉を、さらに指先でコツンと軽く叩いて存在を知らせる。


「アイシス、少し話がしたいんだが、構わないか?」


夜の静けさに溶け込んでいった俺の声に、アイシスは小さく肩を揺らして振り返り、指先で燻らせていた煙草を灰皿へと押し付けて消した。


「ああ、大丈夫だよ。入りな」


彼女のハスキーな声に促され、俺は冷たい夜気(やき)の満ちるバルコニーへと歩み出た。月の光に照らされたアイシスは、いつも隙なく着こなしているテーラードジャケット姿ではなかった。肌を滑るように覆う、薄い絹のナイトドレスを一枚だけ身に纏(まと)っている。高い位置でラフに結ばれていたプラチナシルバーの長い髪も、今は結び目を解かれ、柔らかな夜風にサラサラと揺れながら剥き出しの細い肩へと流れ落ちていた。


アイシスの心と真っ直ぐに向き合うと覚悟してここへ来たはずだったが、普段とはあまりにもかけ離れた彼女の無防備な姿に、直視するにはどこへ視線を向ければよいのか分からなくなる。



「……もう、就寝するところだったのか」


「そう。ただね、あまりにも気持ちの良さそうな夜空だったから、シーツに潜り込む前に一服したくてね」


俺は「そうか」とだけ応じながら、彼女が話しやすい空気を作れるよう、そっとアイシスの真横に位置を取って手すりに両腕を預けた。



「……シリウスに、全てを訊いた。シリウスとアイシスとルードのこと。それから……『三影葬(さんえいそう)』の凄惨(せいさん)な過去も」


アイシスは一瞬驚きに目を見張ったが、すぐに表情は元に戻り、寂しげに斜め下へと視線を伏せた。


「それで? アタシの哀れな過去を憐れんで、わざわざ慰めに来てくれたのかい?」


自嘲気味(じちょうぎみ)に問いかけるアイシスの声音は、いつもの覇気(はき)が嘘のように、どこか弱々しかった。今にも折れてしまいそうなほど孤独を背負ったその細い身体を、この腕で強く抱きしめてあげたいという衝動が激しく胸を突いたが、俺は奥歯を噛み締めてそれを必死に堪えた。その場しのぎの優しさで解決するほど、彼女の傷は生優しくはない。



「俺はアイシスの心に触れにきた。どんなことでもいい、今アイシスの胸を苦しめているものを、……一人で抱え込まずに、俺に話してはくれないか」


アイシスは、冷えた手すりを掴む指先にきゅっと力を込めたまま、俯いて何も答えようとしない。夜風が木々を揺らす音だけが響く。


「……ディアの血を飲んでいる姿を水浴び場で見られてから、アイシスとの間に、見えない壁ができてしまった気がするんだ。……本当は怖かったんじゃないのか?もしかして俺と話すこと自体がアイシスを苦しめているのか?」


「それは違う!」


アイシスが、張り詰めた沈黙を切り裂くような力強い声を上げ、激しく首を横に振った。


「……確かに、一瞬だけね。あの水浴び場の暗がりで、かつてルードの地下室で目撃した、返り血に塗(まみ)れたあの男の狂気に満ちた姿が重なって見えたのは事実さ。……だが、違うんだよ。ノア、アンタとルードは、根本から全く異なる存在なんだ……」


俺はアイシスの剥き出しの感情を遮らないよう、彼女の唇から手繰(たぐ)り寄せられるように紡がれる、心からの言葉をただ聞き続けた。


「ルードの瞳は……完全に狂気に侵され、生きながらにして化け物に成り果てていた。……だが、アンタの横顔は、その真紅の瞳は……触れる者を包み込むような愛に溢(あふ)れていたよ。クローディアの白い首筋に痛々しい牙の痕が残っていても、そこから鮮血がどれほど滴り落ちていても……彼女はね、この世の誰よりも幸せそうな顔をしてアンタを抱きしめていた」


アイシスはゆっくりと顔を上げ、俺のサングラスの奥にある瞳を切なげに、縋(すが)るように見つめ返しながら、その目元から一筋の涙を滑り落とした。


「……アタシはね、他でもないクローディアに嫉妬したんだよ。ノアのその温かい腕の中に、抱かれているのがアタシではないという事実に。……気づいてしまったんだ、自分の愚かな心にね。アンタが他人の血を啜って生きる、絶滅したはずの吸血鬼族(ヴァンパイア)だとしても、アタシにはもうそんなことどうでもいい。怖くなどないんだ。……アタシは、誰よりも優しそうに微笑むアンタを知っている。リオネルに真摯に向き合って剣術の基礎を教えている姿も、自分の配下であるヴァレンティスを命懸けで大事にする姿もね。こんな薄汚い裏社会の女を、出会った最初の日から一人の女性として丁寧に、気品を持って扱ってくれていることも。……アンタを、好きにならずにはいられなかったんだよ」


アイシスは、自身の白く滑らかな両手を俺の黒いシャツの胸元へと押し当て、そのまま体重を預けるようにして額を俺の胸へと深く埋めてきた。薄い絹越しに、彼女の激しい鼓動の刻みがダイレクトに俺の肌へと伝わってくる。


「だけど、ノアには命を懸けて守り抜いた第一妃のクローディアがいる。だから、この想いは一生アタシの胸の奥深くに葬(ほうむ)り去っておくつもりだった。……それなのに、日に日にアンタへの気持ちを抑え込むことができなくなっていくんだ。その姿を視界に捉えるだけで、その気怠げな声を聞くだけで、アンタが欲しくて堪らなくなる。アタシだけを、その瞳で見つめてほしいと、叫び出したくなるんだよ」


俺は、片手をゆっくりと伸ばし、彼女のプラチナシルバーの長い髪をやさしく撫でた。


「……アイシスを、怯えさせてしまっているわけではなくて、本当によかった」


アイシスの柔らかな髪は驚くほどにサラサラとしていて、俺の指先の隙間をスルスルと滑るように抜けていく。その手触りとぬくもりを手のひらで確かめながら、俺はもう片方の腕を彼女の引き締まった腰へと回し、その身体をしっかりと引き寄せた。


「……俺は、その真っ直ぐな気持ちから逃げずに、ちゃんと向き合いたい。これまでクローディア以外の女性を愛したことがないし、自分の心をコントロールすることもできない。けれど……アイシスと過ごす時間をこれから増やして、アイシスという一人の女性のことを、もっと深く知りたいと思う。……アイシスは俺の『第二妃』となる過酷な道を、自らの意志で望んでくれるか? それとも、アイシスただ一人だけを永遠に愛してくれる、そんな平穏な男を望んでいるか?」


アイシスは俺の問いかけに応じるように、胸元に置いていた両腕を俺の背中へと深く回し、骨が軋(きし)むほどの強い力でしがみついてきた。夜風が二人の身体を撫でていき、長い沈黙の時間が二人の間を支配する。俺はアイシスの柔らかな髪を撫でていた手の動きをそっと止め、両腕を彼女の細い腰に回し、じっと彼女の唇から零れ落ちる返答を待ち受けた。


「……アタシは……ノアが愛してくれるなら、第二妃になりたい。でもまだアタシを愛していないだろう? ……だから愛してもらえるよう努力する。第二妃になってほしいと言わせてやる」


アイシスは妖美に瞳を輝かせ、悪戯(いたずら)っぽく笑った。


「……綺麗だ。これからも色んなアイシスを見せてくれ」


「あぁ、アタシから目を離すんじゃないよ」


「分かった」


俺は彼女を一度強く抱きしめた後、離そうとしたが、アイシスは俺のシャツを掴んで離れようとしない。


「どうした。他にも話したいことがあるのか?」


俺は首を傾げ、もう一度腰に手を回す。



「……アタシもノアに噛みつかれたい」


直球な言葉に鼓動が強く脈打ち、思わず顔を逸らしてしまう。その逸らした顔を、アイシスは俺の顎(あご)に手を添えて正面を向かせる。


「血を飲むまでここから逃す気はないよ」


さすが組織のボスと言うべきか。凄んだ時の表情には迫力がある。クローディアとはまた違う美しさに言葉を失った。


アイシスはクローディアより背が高い。抱き上げなくても首筋が口元に近く、血管の流れがよく見える。本能が呑まれそうな誘惑に息を呑む。


「シヴァの血も飲んでいるんだろう?アタシの血も飲んでほしい」


少し背伸びをしたアイシスがわざと耳元で囁く。


「……痛むぞ」


抗いきれるわけがなかった。

俺は一言告げ、彼女の首筋に牙を立てた。


「……っ、くっ……」


痛みに耐える声が溢(こぼ)れ、俺の背中へ回した彼女の爪が皮膚に食い込む。シヴァやクローディアとも違う、彼女だけの血の味と香りを堪能する。


最後に唇を離し、傷口を舐めとると、アイシスは膝から崩れ落ちた。俺は慌てて彼女を抱き止める。


「すまない。アタシには刺激が強かったみたいだ」


赤らめた頬で俺のシャツを掴む彼女を横抱きにし、傷を塞ぐ。


「このままベッドへ連れて行こう。今夜はもう眠るといい」


室内へと戻り、アイシスをベッドへと横たえる。ブランケットをかけ、アイシスの頬に触れる。


「おやすみ、アイシス」


「おやすみ、ノア」



俺はその言葉を聞き届け、電気を消して部屋を退出した。



クローディアのいる自室に戻ると、血の匂いに気づいた彼女に爪痕を指摘される。浮気のような、そうでないような複雑な気持ちになり、俺の愛は変わらないとクローディアを抱きしめ愛を伝える。


今日は朝まで私を離さずに寝なさいと言われ、俺はクローディアを腕に包み込み決して離さぬように寝た。




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