リントヴルム[玖]
【リカーラック】ワインやウイスキーを機能的に収納する棚。
それからしばらくの間、『ゾラム』に目立った動きはなかった。俺たちは相変わらず陽の沈んだ薄暗い時間に孤児院へと足を運び、リオネルに剣術の基礎を教え込む平穏な日々を重ねていた。
アイシスとは、私邸の中で顔を合わせればごく普通に言葉を交わす。しかし、二人の間には、どことなく余白を挟んだような距離があった。俺自身、彼女に何を問い掛ければよいのか分からず、その空気は溶けぬまま時間だけが流れていっていた。
そんな中、久々にルクシオを含めたヴァレンティスたちが一堂に会し、談話室の深いソファで他愛のない歓談に興じていた時のこと。ドアを、控えめにノックする乾いた音が室内に響いた。
「入れ」俺の短い返事と同時に、軋む音を立てて扉が開く。入室してきたのは、シリウスだった。
「寛いでいるところすまない。……少し、話があるんだ」
彼の低く抑えられた声には、彼の真剣さがそのまま重みとなって乗っていた。その響きだけで、俺に用件があるのだろうと察したルクシオたちが、席を譲るために立ち上がり、その場を後にしようとする。しかし、シリウスは「いや、全員に聞いてほしい」と片手を軽く上げ、彼らの動きを引き留めた。
室内の空気が張り詰める。ただ事ではないと察した者たちが再び深く腰を掛け直し、シリウスもまた、促されるまま空いていた一脚へとその身体を沈めた。
「話すべきか、最後まで迷った。だが……既にあなた達を『ゾラム』との戦いに巻き込んでしまっている以上、今、ここで全てを打ち明けておく必要があると判断したんだ」
「言っておくべきこととは……?」
わざわざ全員が揃っている時を見計らって話しにきたのだ。相当重要な話だと覚悟をし、続きを促す。
「——俺たちの組織、代々続く『リントヴルム』の先代のボスの話になる。元々、このロンベルクという街の裏社会は、俺たちの組織が全てを統治し、仕切っていた。小規模な敵対勢力こそ点在していたものの、街の勢力を二分するほどの巨大な対抗組織はいなかったんだ。裏稼業とはいえ、『リントヴルム』には一つの絶対的な信念があった。——不当に売買される龍族の命を、人身売買の魔の手から阻止すること。その確固たる目的のために強固な絆で結ばれ、街を裏から支配しながら、治安を保っていたんだ」
シリウスは、細い指先を顔の前で硬く組み、重苦しい一呼吸を挟んだ。
「俺とアイシス、そして……現在『ゾラム』のボスであるルードという男は、奇しくも同時期に、それぞれ全く別の村から奴隷として攫われ、競売のために集められていた。そこを、先代のボスに命を救われたんだ。故郷も、帰るべき場所も全て失っていた俺たちを、先代は孤児院へ受け入れ、実の子供のように可愛がってくれた。やがて、成長に伴って俺たちに戦闘の才が芽生え始めると、先代は組織の跡取り候補として俺たちを厳しく、かつ大切に育ててくれるようになったんだ。……特にルードは、誰よりも圧倒的に強かった。誰もが奴を、次代のボスだと噂していたよ。人当たりもよく、頼り甲斐があって、多くの者達から絶大な信頼を寄せられていた。……そんなルードに、アイシスが心を惹かれていくのは、当然の流れだったのかもしれない」
シリウスの言葉が、ひんやりとした壁に吸い込まれていく。
「ルードはその気持ちに応え、アイシスにプロポーズをした。二人は、正式な婚約者となったんだ」
シリウスはそこで一旦言葉を区切ると、静かに立ち上がった。部屋の隅に据えられたリカーラックへと向かい、棚から取り出したクリスタルグラスに琥珀色の酒を注ぎ込む。トクトクと響く液体特有の音が、沈黙した部屋に鮮明に響いた。
アイシスと、『ゾラム』のボスであるルード。二人がかつて未来を誓い合った元婚約者同士であり、そして現在は、互いの命を狙い合う宿敵となっているという、あまりにも悲劇的な真実。その二人の間に、一体どれほどのことがあってそんな関係に至ったのか。部屋に残された全員が息を潜め、シリウスの次の言葉を待った
シリウスは手元のグラスを傾け、喉を鳴らして一口酒を含むと、視線を落としたまま言葉を繋いだ。
「当時、俺とアイシスはここ、先代の私邸に寝泊まりしていた。だがルードは、現在の『ゾラム』の本拠地となっている邸宅をあてがわれ、俺たちとは別々に住んでいたんだ。……ある日の夕暮れ、アイシスがルードに会うために、その邸宅を訪ねた。室内には静けさが満ちていて、ルードの姿はどこにも見当たらなかったそうだ。不審に思いながら歩いていると、地下室へと続く階段の奥から、かすかな光が漏れているのに気づき、アイシスはそこを下りていった」
シリウスの握るグラスが、指先の力でわずかに軋んだ。
「その地下室の奥で、ルードは……顕現魔法を扱える幼い龍族の子供達を拉致し、その肉体を使った、見るも無残な非人道的実験を行っていたらしい。……レイム、ナナシ、ガロン。『三影葬』の三人は、全員その実験の生き残りであり、被害者だ」
その名を聞いた瞬間、俺の脳裏に、私邸の奥に控えるあの三人の異様な姿が鮮明に浮かび上がった。目隠しを施された異形の姿、縫い合わされた唇。それらを思い起こすだけで、その地下室の暗がりで行われていたであろう悍ましい所業の数々が、容易に想像できてしまえる。
「アイシスは激昂し、すぐにルードへと詰め寄ったそうだ。だが……ルードは、かつて皆に慕われていたあの穏やかな笑顔を浮かべたまま、こう答えたらしい。『俺は世界が欲しい。何者にも、どんな理不尽にも脅かされることのない、絶対的な力を手に入れるんだ』とね。……ルードの心は、とうに壊れていたんだよ。幼い頃に目の前で故郷を滅ぼされ、売り飛ばされるために集められたあの絶望の日々、人として扱われることのなかった呪われた記憶に、奴の精神は耐えられていなかった。……その夜、ルードは私邸から姿をくらました。そして数ヶ月後、突如として大勢の兵を率いて現れ、先代に反旗を翻したんだ。組織の底辺で、同じように世界への憎悪を燻らせていた者達を、奴は裏で周到に集め、既に準備を完了させていた。……その日から、この街の日常は終わりを告げ、『リントヴルム』と『ゾラム』という、決して相容れない二つの闇に引き裂かれた。先代が心労で亡くなり、アイシスがその跡を継いだ今でも、その血塗られた日常は続いている……」
「そう、だったのか……。この街で行われている争いは、単なる利権や縄張りの奪い合いではないのだな。もっと根深く、引き剥がすことのできない怨念が募っているのだな……」
俺は、想像を遥かに超えた過去の惨劇の重さに、胸の奥を抉られるような感覚に囚われた。隣に座るジキルたちもまた、沈痛な面持ちを浮かべたまま、重苦しい空気に圧されて言葉を発することができずにいた。
すると、グラスを机に置いたシリウスが、再び俺へと真っ直ぐに視線を向け、唇を開いた。
「……ノア様。お気づきかは分かりませんが、アイシスは、貴方に惹かれ始めています。クローディア様がすぐ隣にいらっしゃるこの場所で、このような無礼な話をするべきではないと重々承知していますが……どうか、アイシスと一度、二人で話をしてやってくれませんか? アイシスが今、何を思い、何に悩み、あのバルコニーで立ち尽くしているのか……俺が尋ねても、決して答えてはくれないのです。……俺は、あいつの弟のような存在だ。これ以上、姉が自らの身を引き裂くような思いで孤独に耐えている姿を見てはいられない。貴方に、あいつの気持ちに応えろと強制するつもりはありません。ですが……せめて、真っ直ぐに向き合ってあげてほしいのです。……どうか、お願いできませんか?」
シリウスはソファから立ち上がり俺の前に跪くと、俺の真紅の瞳を真っ直ぐに捉え、 縋るような目で切願した。
アイシスが、俺に想いを寄せている——。これまでの道中、バルコニーでの会話や、あの夜明け前の指先の熱、視線の揺らぎを思えば、心当たりが全くないわけではなかった。
だが、最愛のクローディアと結ばれたばかりの俺は、無意識のうちにその事実に気づかない振りをし、思考の奥へと追いやっていたのかもしれない。
魔王に対抗するため、この先六人の種族の異なる妃を迎える必要があるのだと、あの禁書庫の古書を読んで頭では理解していたつもりだった。けれど、俺自身の心は、その過酷な宿命の速度にまるで追いついていなかったのだ。
一瞬の沈黙が、静まり返った室内を支配する。俺が答えを出せずに深く考え込んでいると、背後のソファからふわりと甘い香りが立ち上り、ドレスの擦れる滑らかな音と共に、俺の首筋に柔らかな両腕が回された。後ろから包み込むように、優しく強く、抱きしめられる。
「ノア、いいのよ」
耳元で、心地よく響くクローディアの透徹した声がした。
「貴方がこれからどんな答えを導き出そうと、私は貴方の第一妃。どこにも行きはしないわ。それよりも、貴方の心と真っ直ぐ向き合って、ノアが今、したいように行動すればいい」
俺はクローディアの確かな体温と温もりを肌で感じようと、わずかに後ろへと体重を預け、彼女の腕に自身の頬をそっと寄せた。
「貴方は優しすぎるから……。アイシスの過去や、シリウスの話を聞いてしまったら、もう後戻りができなくなると思って怯えているのでしょう? 自分が前に進むことで、私やアイシスを深く傷つけてしまうのではないかと、そんな風に恐れているのよね。……でもね、そんなこと気にしなくていいのよ。貴方がアイシスの想いを受け入れるにしても、受け入れずに拒むにしても、何よりノア、貴方の心が一番大事だわ。……それに貴方が、傷ついたアイシスをこのまま放っておけない人だっていうことも、私はちゃんと分かってる。……だからいってらっしゃい」
その耳元で 囁かれた言葉を噛み締めるほどに、俺は心の底からクローディアに愛されているのだと実感させられた。彼女の果てしない慈愛に触れ、冷え切っていた胸の奥がじわじわと熱くなっていく。
俺は己の頬を寄せていたクローディアの柔らかな手の甲へと、慈しむようにそっと唇を押し当て、口づけを落とした。それからソファを離れて立ち上がる。
「……アイシスに、会ってくる」
俺は室内に残る面々へそれだけ告げると、迷いのない足取りでドアへと向かい、冷たい金属のドアノブを静かに掴み引き寄せた。
後ろの暗がりから、シリウスの張り詰めていた息を吐き出す気配と、「……感謝します、ノア様」という、低く深く響く声音が、閉まりゆく扉の隙間から俺の耳へと滑り込んできた。
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