リントヴルム[捌]
翌日、俺はいつもより早めに目を覚ました。昼の店がやっている時間に、アイシスに頼んで数本の木剣を買い調えてもらった。今日から始まるリオネルの剣術指導のためだ。
「ねぇ、私もついて行っていいかしら?」
ざらついた木肌の木剣を麻紐で束ね、着替えを用意していると、背中にクローディアの柔らかい手のひらが触れた。
今回の『アイシス襲撃事件』は、やはり彼女自身を明確に標的としたものだったらしい。先ほどアイシスが直接そう報告してくれた。
だが、ルクシオとレイムが持ち帰ってきた偵察結果には、さらに気になる情報があった。真の目的は孤児院の子供たちの誘拐であり、アイシスの襲撃は「ついでに亡き者にできれば儲けもの」という程度の優先順位だった可能性があるというのだ。
そうなると、アイシスの周囲だけに護衛を厚くすれば解決するという話ではなくなる。私邸に残って周囲を警戒するもの、俺やアイシスと行動を共にするもの、吸血鬼族側の人間も分散配置する必要があった。
俺は室内の長椅子にもたれかかっているアイシスへ声をかける。
「アイシス、今日のこれからの予定は?もし無いなら、俺と孤児院へ行かないか?」
「構わないが……アタシがついていって、邪魔にならないかい?」
彼女は足を組み直しながら俺を見る。
「そんなことはない。むしろ守るべき対象がすぐ側にいてくれた方が、こちらも動きやすくて助かるんだ」
アイシスはしばし逡巡するように視線を落とした後、頷いた。同行を受け入れるという意思表示だろう。
それならば、私邸に残す人員は最小限で構わない。ルクシオはレイムと共に再びゾラムの偵察へ出向いている。残る面々の戦闘の相性を考えるなら、ジキルとゼノの二人にここの防衛を任せるのが良さそうだ。
方針を決め、俺はクローディアの方へと向き直る。
「じゃあディアも孤児院へ行こう。動きやすい服に着替えておいで」
そう告げると、ディアは嬉しそうに口元を綻ばせ、着替えのために自室へと足早に向かっていった。
「シヴァも一緒についてきてくれ。対人戦闘において、シヴァと渡り合えるものは滅多にいないだろう」
俺は傍らに控えていたシヴァに視線を合わせる。
「はい、お任せください」
シヴァは右手をそっと胸に当て、俺の眼差しを正面から受け止めた。その佇まいには微塵の隙もなく、いつも通りの有能な執事の姿がそこにある。頼もしいかぎりだ。
「アイシス。シリウスも連れていくか?」
「そうだね。少し大所帯になってしまうが、この私邸の周りは他の部下たちにも巡回させている。シリウスは私の護衛として連れて行くのが最善だろう。……お前たちを匿うという話だったのに、逆にそちらの負担を増やしてしまって本当にすまない」
「俺からも礼を言わせてほしい」
アイシスの隣に控えていたシリウスが立ち上がり、深く頭を下げた。
「気にするな」
持ち物の点検を終えた俺は、クローディアの支度が整うのを待った。しばらくすると、艶やかな髪をまとめ、すっきりとした細身のパンツスタイルに変えた彼女が現れる。
「ディアはどんな格好をしていても、美しいな」
「そう?ありがとう」
クローディアは満面の笑みを浮かべ、俺の頬へと柔らかい唇を寄せた。
「じゃあ、出発しよう」
ジキルとゼノに私邸の留守を預かるよう伝え、俺たちは孤児院へと足を向けた。太陽が出ている時間を避けて出発したため、現地に到着した頃には周囲の空気はすっかり薄暗くなっていた。
もっとも、夕食の鐘が鳴るにはまだ少し早い時間だ。俺はリオネルを広場に呼び出し、彼の体躯にちょうど良さそうな木剣を選んで手渡した。
「いいか、リオネル。これは木で作られた軽い剣だが、常に真剣だと思って握るんだ。剣は大切な誰かを守ることにも使えるが、その剣先が向く相手を傷つける凶器でもある。そして扱い方を間違えれば、自分自身をも傷つける。だから、決して雑に扱うな」
「はい!」
俺の言葉の重みを受け止め、リオネルの目つきが引き締まったものへ変わった。以前に見せた、自分を責めてばかりで自信を失っていた怯えの表情はもうない。この眼差しなら、鍛錬を始めても問題ないだろう。
「まずは素振りからだ。リオネルが思い描いていた華やかな剣の練習とは違うかもしれないが、これが身につかなければ、剣などただ振り回すだけの棒切れに過ぎない。退屈で辛いかもしれないが、根を上げずに頑張れるか?」
「はい!」
「いい返事だ」
俺はリオネルの髪を優しく撫で、彼の真横に位置を取る。
小さな手足の位置を一つずつ修正しながら、基本の構えを身体に覚え込ませる。
「握り方はこうだ。背筋を伸ばして姿勢を正し、右足を前に。左足のかかとは少し浮かせるんだ。上半身だけで振ろうとせず、左手も意識して、軌道が真っ直ぐになるよう大きく振りかぶって下ろす。大事なのは、下半身の踏み込みと身体の動きを利用することだ。細かいことは、やりながら教える。まずはこの姿勢、刃筋、身体の連動の三つだけに集中してやってみろ」
「はい!」
「よし、始め!」
俺の合図とともに、リオネルは一生懸命に木剣を振り始めた。俺はその軌道をじっと見つめながら、要所で言葉をかけ、時には自ら木剣を握って見本を示した。
夕暮れの広場には、孤児院の子供たちが物珍しそうに集まり、遠巻きにリオネルの奮闘を眺めていた。それを、アイシス、シリウス、クローディア、シヴァの四人もまた、静かに見守っていた。
やがて辺りが完全に夜の闇に包まれる頃、建物の奥から出汁や焼き物の芳しい香りが漂ってきた。
「リオネル、今日はここまでにしよう。かなり体を使っただろう。裏手で水を浴びて、汗を流してくるといい」
少年の顔に戻ったリオネルは「うん!」と元気よく応じると、軽やかな足取りで走り去っていった。
入れ替わるように、クローディアとシヴァが歩み寄ってくる。手にはそれぞれ、冷たい飲み物と、冷えたタオルが握られていた。
「お疲れ様です、ノア様」
「お疲れ様、ノア」
「あぁ、ありがとう」
それらを受け取り、額や首筋の汗を拭う。しかし、思いのほか熱が籠もっていたようで、肌に張り付いた衣服がひんやりと冷たく感じられた。渇いた喉にグラスの水をグイッと一息で流し込み、空になった器をシヴァに手渡す。
「思ったより汗をかいたらしい。着替えるついでに、俺も水浴び場で汗を流してくる」
「はい。それではお着替えを用意してお持ちしますので、先に水浴びをなさっていてください」
シヴァが静かに一礼し去っていく。
「ディアは先に孤児院の中に入っているといい。温かい夕飯が待っているぞ」
「……そうね。分かったわ」
クローディアは小さく頷くと、明かりの灯る孤児院の玄関へと向かった。俺はそれを見送り、建物の裏手にある簡素な外の水浴び場へと足を向けた。水浴び場には、もうリオネルの姿はなかった。
湿った服を脱ぎ捨て、タオルを腰に巻き、据え付けられた桶から頭へと一気に水を被る。
「はぁ……」
冷たい水滴が肌を滑り落ちるたび、溜まった疲労が洗い流されていくようで心地よい。そのまま身体を流していると、背後から歩いてくる音と共に声がかかる。
「ノア」
振り返るまでもない、クローディアの声だった。
「どうした?先に中に入ったんじゃなかったのか」
俺は水をすくう手を止め、濡れた髪をかき上げながら振り返る。
「その予定だったのだけれど……ノアも慣れない指導で疲れていると思って、気になって戻ってきたの」
確かに、他人に剣を教えるのも子供の相手をするのも初めての経験だった。だが、それが彼女がわざわざここへ足を運んだ理由とどう結びつくのか分からず、俺は首を傾げた。
するとクローディアは、湿った地面を踏み締めて近づき、俺の首筋に白く細い両腕を回してきた。
「順番が逆だけれど、夕飯の前にデザートはいかが?」
彼女の指先に微かな力が籠もり、俺の顔が自然と彼女のうなじのあたりへと引き寄せられる。それで俺は理解した。クローディアは、血を飲んでいいと誘っているのだ。渇きを覚えた身体の前に、極上の美酒が差し出されている。それを拒む理由など、俺にあるはずがなかった。
「ディア」
俺は彼女のしなやかな身体を持ち上げ、背後の壁にそっと押し当てた。そのまま彼女の腿の間に自身の身体を割り込ませ、足と腰の力でその彼女の体をしっかりと支える。
「あら、ずいぶん素直なのね」
クローディアは俺の両頬を包み込み、艶美な微笑を浮かべた。その視線と表情に脳の奥が痺れる。我慢の限界だった。俺は衝動のままに、彼女の白い首筋へと鋭い牙を深く突き立てた。
「……っっ、あっ……」
クローディアの唇から切ない吐息が漏れ、俺のなかの枷が更に外れた。溢れ出る鮮烈な血を一滴たりとも無駄にしないよう、喉を鳴らして飲み込んでいく。彼女の細い背中を壊さんばかりに強く抱きしめ、ひたすらにその甘美な血を啜り続けた。
その時、ザッザッという足音が聞こえ始め、こちらへ向かって近づいてくる気配がした。
「ノア、今日はありが、と……」
角を曲がって現れたのは、丁寧に畳まれた着替えを抱えたアイシスだった。アイシスは俺とクローディアの姿を視認すると、言葉を失って呆然と立ち尽くした。
「す、すまない。取り込み中だったのか……。お礼のついでに、シヴァから着替えを預かってきたんだ。ここに置いておくから、ゆっくり戻ってくるといい」
アイシスは早口にそれだけを捲し立てると、踵を返し、慌てた様子で去っていった。
「……見られてしまったわね」
「あぁ」
予定ではシヴァが着替えを持ってくるはずだった。だが、不測の事態で目撃されてしまったものは今更覆らない。
俺はクローディアの身体をそっと地面へと下ろし、彼女の首筋の傷口を塞いだ。それから手桶の水で自らの口元を洗い流し、置いてある服を身に纏う。
「ディア、服が濡れてしまっていないか?」
自分の濡れた肌が彼女の服に直接触れていたことを思い出し確認する。
「少し湿ったくらいだから平気よ。……戻りましょうか」
俺は頷き、彼女の細い手をとって、再び孤児院の食堂へと足を戻した。室内では、アイシスがシリウスの隣の席に座り、二人で言葉を交わしていた。
俺はクローディアを空いている席に腰掛けさせ、給仕台へ料理を取りに向かおうとした。すると、その動線の途中にシヴァが影のように立っていた。近づくと、新しい乾いたタオルを差し出してきた。
「髪がまだ濡れております。これをお使いください。……それから、先ほどはアイシス様をそちらへ向かわせてしまい、私の配慮が至らず大変申し訳ありませんでした」
アイシスが戻ってきた際の、ただならぬ空気の揺らぎを察知したのだろう。シヴァは頭を下げた。
「いや、シヴァが謝る必要はない。気にするな」
俺はタオルを受け取って濡れた髪をごしごしと拭き、シヴァと共に皿に料理を盛り分けた。席に戻り、クローディアやシヴァと三人で他愛のない話を交わしながら食べ進める。視線をリオネルの方へ巡らせると、彼は周りの子供たちとすっかり打ち解けた様子で賑やかに食事を楽しんでおり安心した。
夜も更け、帰路につく時間となった。リオネルに「明日も来る」と伝えると、彼は笑顔を見せた。今日は地味な素振りしかさせていないというのに、その瞳はやる気に満ちあふれている。案外、剣の才能が眠っているのかもしれない。
静まり返った帰り道、俺はシリウスに軽く目配せをして、アイシスのすぐ隣へと歩調を合わせた。彼女は終始口を閉ざし、自らの足元を見つめたまま歩いている。
「……俺が怖いか?」
「いや」
アイシスは視線を上げ、真っ直ぐに前方を見つめた。
「……俺のことが、化け物に見えるか?」
「いや」
短いが返事が返ってくるだけで、それ以上の言葉は続かない。ただ、彼女は一瞬だけ俺の横顔に視線を走らせ、すぐにまた前方へと視線を戻した。その横顔には、怒りや怯えではなく、ただどこか寂しげで、悲しみの色を湛えている。
俺は今の彼女にどんな言葉をかければその心を救えるのか分からず、ただ無言のまま隣を歩き続け、やがて静まり返った私邸へと辿り着いた。
玄関でアイシスと静かに別れ、俺はクローディアと共に自室へと戻り、眠りへと落ちていった。
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