リントヴルム[漆]
【臙脂色】黒みがかった、とても濃い赤色。
アイシスの私邸へと辿り着くと、扉の先でシリウスが出迎えた。
「アイシス、何があった!?」
シリウスはアイシスの両肩を掴み、安全を確かめるように僅かに揺さぶった。
「帰り道に襲われたんだ。どうやら、今日はアタシがターゲットだったみたいだね」
アイシスは忌々しそうな顔をすると、シリウスから離れ、仕立ての良い上着に付着した埃を払った。
「またか……。ここ最近、頻度が多すぎはしないか?」
「アタシ達『リントヴルム』が、よほど邪魔で仕方ないんだろうさ。……シリウス、悪いが『三影葬』をここに呼んでくれるかい? 一人、ノアが気絶させたのを連れてきた。残りの連中は路地でくたばってるから、そいつらの回収をするよう他の連中に指示も頼むよ」
「……ああ、わかった」
シリウスは、一言だけ短く応じて素早く部屋を退出していった。
シリウスが去ってしばらくすると、肌を粟立たせるような濃厚なプレッシャーと共に、三人の人影が部屋へと滑り込んできた。
「『三影葬』が一人、レイム、馳せ参じました」
最初に跪いたのは、凝固した鮮血を思わせる、臙脂色の髪の男だった。乱雑に切り揃えられた髪の隙間から覗く双眸は、ギラギラと周囲を射すくめるような閃光を放っており、まるで磨き抜かれたイエローダイヤモンドが嵌め込まれているかのようだった。口元を完全に覆う黒いマスクが、彼の纏う不穏な気配を一層際立たせている。
「『三影葬』が一人、ナナシ、馳せ参じました」
次に両膝を地につけ澄んだ声を放ったのは、漆黒のフードを目深に被ったシスタードレス姿の女性。その顔は、フードの下に重ねられた黒いレースの目隠しによって瞳まで完全に覆い隠されている。首元から豊満な胸元へと複雑に絡み合う幾重もの細い金属チェーンの先には、異形とも神聖ともつかない、歪な意匠のロザリオが厳かに鎮座していた。
流れ落ちる白銀の髪の美しさとは裏腹に、彼女の身体から溢れ出る毒々しい魔力は、さながら生と死の境界に立つ者のようだった。
「『三影葬』が一人、ガロン、馳せ参じました」
最後に跪いたのは、無造作に払われた艶のある黒髪の間から、目元を完全に塞ぐ黒いレザーの目隠しをした大柄な男。視界を遮断しているにもかかわらず、その佇まいには微塵の隙もない。むしろ、この緊迫した状況すら愉しんでいるかのような、掴みどころのない微笑を唇に浮かべている。
鋼を思わせる逞しい胸板と肩を拘束するように走る、無数の黒いレザーベルトと鈍色に光る金属のバックル。その無機質な装具のすべてが、彼の内側に眠る圧倒的な凶暴性を辛うじて繋ぎ止めているように見えた。
「ご苦労、よく来てくれたね。堅苦しくする必要はないよ。適当にソファにでも座んな」
アイシスが声をかけると、三人は立ち上がり、各々がリラックスできる格好でソファへと腰を下ろした。その一連の動きからも、彼らが尋常ならざる手だれであることが容易に伝ってくる。
「それで?私たちをお呼びになった理由を伺っても?」
シスタードレス姿のナナシが、目隠しの奥から探るように口を開いた。
「これさ」アイシスが、ゼノによって床へと転がされていた気絶中の男を、つま先で軽く小突く。その瞬間、ナナシが、勢いよく立ち上がった。
「まぁ……! まさかアイシス様、この男を私にくださるの!? 最近、新しい『オモチャ』を頂けないから退屈で死にそうだったのです! なんて素敵な日なのかしら! きっと今夜は、格別につややかで新鮮な叫び声が聞けるわね! うふふ、うふふふふふ……!」
ナナシは胸の前で両手を合わせ、少女のように身を震わせて恍惚とした笑みを漏らす。その純粋なまでの狂気に、部屋の空気が一気に凍りつく。
「オ、モチャ……?」
俺の隣に控えていたジキルが、眉を顰めながら、引きつった声を零した。人間を前にして発せられるにはあまりに似つかわしくない単語に困惑する。
「ナナシは尋問と拷問を専門としてうちの組織に身を置いているんだ。……それ以上は深く聞かない方がいいよ。数日間は夢に出てきて頭から離れなくなるからね」
アイシスが苦虫を噛み潰したような顔で忠告してきた。
「あら? そういえば……いつもとは異なるオーラを纏った方々がいらっしゃるのですね。アイシス様、こちらのお連れ様方は……?」
ナナシの言葉に、残る二人の男——レイムとガロンの意識も俺たちへと向けられた。
「アタシの友人さ。訳あってここに匿ってる。間違っても手を出すんじゃないよ」
アイシスが釘を刺すように言い放つ。
しかし、目を頑丈なレザーベルトで塞いだガロンという男は、その警告を鼻で笑い飛ばすように、不敵な笑みを深くした。
「アイシス様、そんな人聞きの悪い!俺は立ち向かってくる気概のあるやつしか相手にしないよ」
ガロンはソファの背にもたれかかったまま、あからさまに挑発するような態度をとる。部屋の温度が急激に低下したような感じがした。
「……それは、私たちが貴方に怯えているとでも?」
ゼノが甘い微笑みでガロンへと問いかける。
「……やめな。ガロン、アンタが悪いよ」
アイシスがガロンを鋭く睨み据え、嗜める。
「はーい」
ガロンはつまらなそうに両肩を落とした。どこか緊張感に欠けるその態度といい全体的に軽い印象を受ける男だ。
「驚かせただろう。ナナシとガロンは理由があって目が見えていないんだ。だが、普通の人間よりも、ある意味では色んな物が見えている。戦闘に関しては何の心配をする必要もないよ。ガロンは身内の不始末を取り締まる『粛清』を、レイムは『暗殺』を担当してる。レイムは過去に口を怪我していてね。だから口数が少ないんだが、許してやってほしい」
アイシスの言葉を受けるように、それまで沈黙していたレイムがスッと口元の黒いマスクを下ろした。露わになった彼の唇の両端には、糸で幾重にも縫い合わされた、痛々しい傷痕が刻まれている。
「ところでアイシス様。この男から、私に何を聞き出してほしいのです?」
ナナシが、これからの拷問が待ち遠しくて堪らないといった様子の明るい声で尋ねる。
「今回の襲撃の目的だよ。本当にアタシがターゲットだったのか、他の思惑があるのか調べてほしい。……ガロン、一緒に行ってその男を運んでやんな」
アイシスが顎で転がっている男を示すと、「あいよ」とガロンがその大柄な体躯で軽々と担ぎ上げた。ナナシは嬉しそうに鼻歌を混じえながら、ガロンと共に部屋を退出する。
「レイム、アンタは『ゾラム』へ行って、何か新しい動きがないか調べてきてほしいんだ」
「ゾラム……?」
聞き慣れない単語に俺が聞き返すと、アイシスが答えた。
「この街のもう半分を仕切っている、例の組織の名前さ」
「ゾラム、か……。それなら、ルクシオも連れて行くといい。周囲の音を遮断する防音の魔術や、隠密に役立つ多彩な魔術が扱える。きっと助けになるだろう」
俺の提案に、ルクシオがレイムへとにこやかに微笑みかける。レイムはペコっと小さく丁寧な動作でルクシオへ頭を下げた。この二人は意外にも相性が悪くなさそうだ。退出していく二人の後ろ姿を眺めながら、俺は息を吐き出した。
「これでひと段落だね。あとは各自、空いてる部屋で自由に休むといい。……今日は本当に助かったよ」
アイシスは片手をあげて礼を告げると、夜風の吹き込むバルコニーへと姿を消した。
静まり返った部屋の中。隠しきれない憂色を顔に浮かべ、ゼノが近づいてきた。
「ノア様、お怪我はされませんでしたか?駆けつけるのが遅くなり申し訳ありませんでした。」
ゼノが前へ後ろへ上へ下へとあちこちを点検しながら俺の身体に触れていく。
「やめろ。触るな」
シヴァが冷たく言葉を浴びせながらゼノを引き離した。
「大丈夫だ。弾丸が掠めた程度で、出血している箇所はもうで塞いだ。むしろよく駆けつけてくれた。あの状況で、信号弾に気づかない可能性もあったからな」
そう声をかけるとジキルが落ち着いた声で返す。
「あれだけ戦闘の音が街中に響いていたら、私たちとて警戒もしますよ。その上で、信号弾のように魔力を爆発させ、正確な位置を知らせてくださったのは流石です」
ジキルは何度も感心したような頷きを繰り返す。
その姿を眺めていたら、ふと夜市で買ったマスクのことを思い出した。
「そうだ、ジキル。あとで渡したいものがあるんだ。ディアと一緒に俺の部屋で待っていてくれないか? 俺は少しアイシスと話してから行く」
「かしこまりました。それではクローディア様、一緒に部屋へ参りましょう。……ノア様、失礼いたします」
ジキルは一礼をすると、クローディアの手をとり、静かに部屋へと向かっていった。
「シヴァとゼノも、今日は疲れただろう。もう休むといい」
「はい。何かあればすぐにお呼びください」
二人も一礼し、影が溶けるように部屋を出ていく。その姿を見届け、俺は先ほどアイシスが出ていったバルコニーへと足を向けた。ガラス扉を開けると、ひんやりとし夜気が肌を撫でる。
「アイシス」
名前を呼ぶと、髪を夜風にたなびかせていたアイシスが、ゆっくりと振り返り不思議そうに俺を眺める。
「どうした? もうすぐ夜が明けてしまう。……太陽は身体に毒なのだろう?」
「ああ、もう部屋に行く。ただ……」
俺はアイシスに歩み寄り、片手を伸ばした。アイシスは一瞬、驚いたように身を竦めたが、拒絶はしなかった。そのまま彼女の滑らかな頬へと躊躇いなく触れる。
「赤き情念を以て、去にし時を逆巻け。贄刻。」
呪文を唱え終わると同時に、アイシスの頬の薄皮を裂いていた傷が、跡形もなく消え去っていく。
「傷があるのが見えてな。……その綺麗な顔に痕が残ってしまったら大変だろう」
アイシスの頬からゆっくりと手を離そうとした。しかし、その瞬間——アイシスが、離しかけた俺の手首を衝動的に掴む。
肌と肌が触れ合う。アイシスはハッと我に返ったように目を見張り、俺の手のひらを見つめる。
「あっ……いや、その、吸血鬼族の手というのはこんなに冷たいものなのかい?……心地よくて思わず掴んでしまった。……すまないね」
アイシスは慌てて手を離すと、耳の付け根をほんのりと赤く染め、誤魔化すように視線を夜闇へと逸らした。予想外の反応に、思わず言葉が詰まってしまう。風が二人の間を通り抜ける音だけが響き、しばしの間沈黙が流れた。
「……シヴァとクローディア、どっちがノアの妃なんだ?」
アイシスの瞳が再び俺を見据える。
「クローディアだ」
俺はバルコニーの手すりに両腕を預け、遠い夜空を見つめながら答えた。
「……クローディアのことは、種族で選んだのかい?種族の違う妃が六人必要なんだろう? 」
「いや、愛してるからだ。……もし魔王の一件がなかったとしても、身分の壁さえ乗り越えられたなら、俺は間違いなくディアを妃に選んでいたさ」
「……そうなのか」
アイシスも俺と同じように手すりに両腕を置き、空を見上げる。夜明け前の冷えた空気に二人の白い息が混じる。
「……そういえば、アイシス。一つ頼みがあるんだ」
俺は大事なことを思い出す。
「ん? どんなことだい?」
アイシスは空を見つめたまま、声だけで反応する。
「今、気絶した奴らを回収しているだろう? 必要な情報を聞き出し終えたら、そいつらを殺さずに、俺たちに引き渡してほしいんだ。……血を奪う相手を探しに行かずにすむ」
アイシスが息を呑みながら俺を見た。
「構わない、けど。……そうか、血を飲む必要があるのか」
「ああ。仲間同士で吸血し合っても、一時凌ぎにはなるが血液が減っていくだけで、根本の解決にはならないからな。どうしても外からの『供給』が必要なんだ」
「……ノアは? 今は大丈夫なのかい? 」
「……俺に襲われると思ってるのか?ははは、大丈夫。まだ平気だ。」
俺はアイシスが安心できるよう笑顔を向ける。
すると、アイシスが驚いた表情を浮かべた。
「な、なんだ?」
急に凝視されて、俺は思わず戸惑った声をあげる。
「……ノアも、そんな風に笑うんだなと。いや、悪い意味ではないんだ。あまりにも優しそうに笑うから、少し意外でね」
その真っ直ぐな言葉が急に気恥ずかしくなり、俺は咄嗟に片手で顔を隠した。すると、顔を隠した俺の手に向けて、アイシスがそっと自分の手を伸ばしてきた。指先で俺の手を掴み、下へ下ろすよう優しく促してくる。
「隠さなくていい。——もっと、その笑顔を私に向けてほしい……」
サングラス越しの俺の瞳を覗き込むアイシスの表情は、ひどく切実なものとなっていた。だが、自分が口にした言葉の重さに気づいたのか、彼女はハッとして、自身の口をもう片方の手で慌てて塞いだ。
そのまま数秒間考え込んだ後、ゆっくりとその手を下ろす。
「……忘れてくれ。どうやら、少し酔ってしまったらしい」
彼女の手に酒の入ったグラスは握られていない。だが、俺はあえてそれには触れず、静かに「ああ」とだけ返事を返した。
「……もうすぐ太陽が上がる。俺は部屋に戻るよ。アイシスも、ゆっくり休んだ方がいい」
俺はアイシスの肩に労うように片手を軽く置き、その場を後にした。
——案内されていた自室の扉を開け中に入ると、そこには約束通り、ジキルとクローディアが静かに俺の帰りを待っていた。
「待たせたな。ジキル、渡したいものがあるんだ」
俺は夜市で購入していた、嘴を模したようなマスクと黒いハットを手渡した。もしかしたらジキルの好みに合わないかもしれない、と頭の片隅で少し不安がよぎる。だが、それらを目にしたジキルは、瞳を輝かせて手へと取り上げた。
「……! これを、私にですか? 素晴らしい……実にかっこいい」
ジキルは子供のように声を弾ませると、さっそくその場でマスクと帽子を身につけ、鏡の前で嬉しそうに何度も角度を確かめている。
「正体を隠して行動したい場合にも使えるだろう。好きな時に使ってくれ」
ジキルの喜ぶ姿を眺めながら声をかけると、彼は振り返り、深く頭を下げた。
「ノア様、お心遣いに感謝いたします。……生涯、大切にいたします」
ジキルは一旦マスクと帽子を名残惜しそうに外すと、大事そうに脇へと置く。俺は二人の隣へと腰を下ろし、ここへ至るまでの日々を振り返りながら、三人で久しぶりに様々な思い出話に花を咲かせた。
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