リントヴルム[陸]
孤児院の木扉をくぐり抜けた途端、俺の視界は小さな龍族の子供たちで埋め尽くされた。彼らは津波のような勢いで俺の周りへと群がってくる。
「おにーさん、だぁれ?」
「ねぇねぇ、アイシスねえちゃんの男なの?」
「不審者……じゃないよね? アイシスねぇちゃんが『怪しい奴は絶対に敷居を跨がせるな』って言ってたもん」
無邪気な、けれど猜疑を含んだ言葉が、矢継ぎ早に放たれていく。
「俺はアイシスのお友達だよ」
俺は膝を折り、彼らと視線の高さを合わせながら笑みを浮かべた。
「皆と美味いご飯を食べに来たんだ。……仲間に入れてくれるか?」
「いーよ!」
「席はこっちこっち! 私の隣に座ってよ!」
小さな、手のひらが、俺の黒いシャツの袖を力任せに引っ張る。服の擦れる乾いた音を響かせながら、俺はそのまま賑やかな食堂へと引きずり込まれていった。
背後では、アイシスが可笑しそうに肩を揺らしてその光景を眺めている。ランプの灯りに照らされた食堂は、木材の匂いと、微かに漂う温かいスープの香りで満ちていた。
その喧騒の只中、中央の長い木製テーブルの端に、ぽつりと一人だけで座っている男の子がいた。何故かその小さな背中から視線が外せなくなり、俺は他の子供たちの誘いを手で制して、彼の隣のベンチへと滑り込んだ。
「君は偉いな。先に座って、大人しく夕食を待っているのか?」
怯えさせないよう、極力声のトーンを落とし、穏やかさと優しさを意識して話しかける。すると、その子は細い肩をびくりと跳ね上げ、悲しげに翳った瞳でゆっくりとこちらを振り向いた。
「……僕は、役立たずだから」
「役立たず……? どうしてだ?」
「僕には……生まれつき、魔力が全くないんだ」
震える唇から漏れた声が、食堂のざわめきに消え入りそうになる。
「だから、魔道具を使って皆の仕事を手伝うこともできない。僕にできるのは、ただ物を運んだり……こうして、邪魔にならないように大人しく座っていることだけなんだ」
俯く彼の声は段々と小さくなり、小さな拳が悔しげに膝の上で硬く握りしめられていくのが見えた。
「そうか」
俺はそっと手を伸ばし、彼のまだ柔らかい髪を指先で優しく撫でた。幼く白い肌は、他人のぬくもりを求めているかのように僅かに震えている。
「魔力が無いというのは、確かに不便かもしれない。だがな、君にもできることは他にもたくさんあるぞ」
「……僕に、あるの?」
虚ろだった彼の瞳に、一縷の小さな光が宿る。
「ああ。たとえば、魔術に頼らずとも剣の技術を覚えて、ここにいる皆を守る盾になることもできる。身体を厳しく鍛え上げて、誰よりも重い物を持ってあげることだってできるだろう」
俺は彼の華奢な身体をそっと両手で抱き上げ、自身の膝の上へと落ち着かせた。
「出来ないことに心を囚われて下を向くよりも、これから出来ることを一つずつ見つけていく方が、きっと何倍も楽しい。もし君が本気で剣を覚えたいと願うなら、俺が教えてやる。剣を握って地を蹴っていれば、自然と強い身体は作られていくものだ。そうしたら、君が皆の役に立てる機会は、いくらでも増える。どうだ? やってみるか?」
俺は少年の白い頬にそっと触れ、その顔を上向かせて、真っ直ぐにその瞳の奥を覗き込んだ。
少年はしばらくの間、じっと迷うように逡巡していたが、やがて意を決したように大きく頷く。
「……うん! 僕、やってみる! 僕も……僕も皆の役に立ちたい!」
「よし、良い返事だ。じゃあ、そのためにはまず、何よりも体力をつけるためにしっかりご飯を食べることだ。まずは皆と一緒に、配膳の手伝いから始めようか」
「分かった!」
弾んだ声と共に、少年の強張っていた表情が柔らかく解けていく。
「あ、そうだ。君の名前を聞いていなかったな」
「僕、リオネルっていうんだ!」
「じゃあリオネル、頑張ってこい」
「うん!」
俺の膝から飛び降りた少年は、他の子供たちの輪へと混ざっていき、小さな体で一生懸命に大皿の料理を運び出し始めた。
「……ノア、ありがとう」
ふいに横から、落ち着いたアイシスの声が届く。
「ん? 何がだ?」
「アタシもあの子のことはずっと気にかけていたのさ」
彼女はリオネルの姿を目で追う。
「魔力が少ないならまだしも、全く魔力を持たない子はこの世界じゃ生きづらい。仲間外れになって俯いているあの子に、アタシがしてやれることと言えば『もう一度みんなのところへ行ってきな』と背中を押すくらいだったんだ……。だけどあんたは、あの子の俯いた心を救いあげてくれた。感謝するよ」
「俺は特に何もしていないさ」
俺は子供達が持ってきてくれた手元のグラスを見つめ、指先でその縁をなぞった。
「あの子自身がもう一度前を向こうと、自分の足で力強く立ち上がっただけだ。……根がとても強い子なんだろう」
「それでもさ。アタシにとっても大きな救いだ。ありがとう」
「気にする必要はない。……なぁ、アイシス。しばらく、ここへ通ってもいいか? あの子に直接剣を教えてやりたいんだ」
「もちろんさ!歓迎するよ。あの子だけじゃなく、他の連中も大喜びするさ。ここを訪れる人間なんて、そうはいないからね。……おっと、料理の準備が整ったようだ。さぁノア、温かい内に一緒に食べよう」
「ああ、ありがたくご馳走になる」
それからは、小さな龍族たちに囲まれ、賑やかな夕食の時間を過ごした。
普段はどんな悪戯をして遊んでいるのか。この孤児院を切り盛りしている先生たちがどれほど温かい人たちなのか。子供たちは小さな口を忙しなく動かしながら、次から次へと楽しそうに話してくれた。
賑やかな夕飯の時間を終え、一休みした後、俺たちは孤児院を出た。一歩外へ踏み出すと、そこは月明かりすら届かない、街灯の消えかけた完全な暗闇だった。冷え込んだ夜風が俺たちの白髪をサラサラと揺らす。しばらくの間、二人の足音だけが静まり返った夜道に響いていた。
そんな中、パキリ、と不自然に木の枝が折れて落下する音が耳に入る。その方向へと視線を走らせた瞬間、俺の全身が反応した。
「アイシス!」
「——!?」
驚きに俺を見つめる彼女を強引に抱き寄せ、体内の魔力を一気に練り上げバリアを展開する。
バン!という音が鳴り響きアイシスがいたはずの空間を、目に見えぬ弾丸が猛烈な風圧と共に突き抜けた。やや後方の地面へと着弾した衝撃で、分厚い石畳の道が甲高い音を立てて粉々に砕け散り、鋭い小石の破片がバラバラと俺たちの足元へ飛んでくる。
「奇襲か!?」
アイシスは咄嗟にジャケットの懐から使い慣れた魔導銃を抜き、警戒した姿勢で闇を睨み据えた。だが、夜目が効かない彼女には、弾丸が放たれた正確な方向までは定められないようだった。
(孤児院の敷地からはもう十分に離れている。周囲の気配の動きを見るに、明確な狙いはアイシスだな)
「アイシス、完全に囲まれている。俺から絶対に離れるな」
彼女の身体をしっかりと片腕で固定したまま、脳内で術式を高速で組み立てていく。空間を拒絶するように展開した透明な障壁の向こう側へ、俺の手から、激しい火花と共に数条の紫電が迸った。
暗闇の奥、密かに息を潜めていた敵の影へと正確に雷撃が吸い込まれていく。
「がはっ……!」
命中した敵が、木の枝から重々しい音を立てて地面へと容赦なく落下していくのが見えた。しかし、それを合図に、周囲に潜んでいた他の敵たちが一斉に動き出した。
木々や建物の硬い石壁を盾にしながら、一斉に魔導銃の銃口をこちらへと向けてくる。バン! ババン! と乾いた破裂音が夜の街にけたたましく鳴り響き、放たれた魔力の弾丸が猛烈な勢いで俺のバリアへとぶつかる。凄まじい衝撃波が走るたび、強固だったはずのバリアにガラスのような細かい亀裂が走り始める。
(相手は遠距離から狙う銃士だけなのか……? いや、最悪の展開を想定して、近接職を含めた複数のジョブが網を張っていると考えた方がいい)
アイシスも銃撃の火花が散った方向へと果敢に撃ち返しているが、敵は一発放つごとに素早い動作ですぐに物陰へと身を隠してしまうため、その弾丸はほとんど虚空を削るばかりで当たっていない。
「アイシス、一度抱き上げるぞ」
「わっ……!」
このまま遮蔽物のない平地で足を止めていては、危険すぎる。俺は彼女の細い腰へと腕を回し、その身体を横抱きにすると、吸血鬼族としての圧倒的な身体能力を解放して地を強く蹴った。息が止まるような跳躍。風を切り裂き、俺たちは一瞬にして数メートル上空にある建物の平坦な屋根の上へと飛び乗った。
上まで追いかけてこられるほどの脚力を持った人間は、流石に多くはなかった。だが、下層の路地からは未だに絶え間なく、執拗な銃撃が足元を撃ち続けている。厄介な状況であることには変わりはなかった。
「アイシス、このまま全速力でここを駆け抜ける。俺にしっかりとしがみつけ!」
アイシスの両腕が、俺の黒いシャツの胸元をギュッと掴み、その身体を預けてくるのを確認した瞬間、俺は全神経を足へと集中させた。ドンッ!と鼓膜を震わせるほどの衝撃音を響かせ、建物の屋根を高速で蹴り上げる。視界の端が猛烈な速度で後ろへと流れていく。
「ちっ、しつこい……」
背後から死に物狂いで追いすがってくる人影に向け、俺は跳躍の勢いのまま空中で身を翻した。遠心力を乗せ魔力が伴った足蹴りが空を裂き、容赦のない風の刃となって闇へと翔ぶ。見えない衝撃波が追っ手の胸元へと容赦なく叩き込まれる。直撃を受けた肉体がくの字に曲がり、屋根から転がり落ちる。
俺はさらに空を仰ぎ、体内の魔力を別の術式へと変換した。手のひらから放たれた複数の火の玉が、夜空を灼き焦がすような激しい爆音と共に炸裂する。これは、私邸へ残してきた仲間たちへ、俺の現在地と危機を知らせるための即席の信号弾だった。
本来なら、アイシスの私邸へと一直線に向いたかったが、戦況はそれを許さない。やはりこちらの予測通り、追っ手の中には遠距離専門の銃士だけでなく、魔術師や、魔法使い、さらには気配を完全に遮断して隙を狙い攻撃してくるアサシンまでが混ざっていた。飛来する魔法や魔術、弾道を避けるため、俺はジグザグに軌道を変えながら夜の街を逃げざるを得ない。
「——死ね」
月光を弾いて冷たくきらめいたアサシンの短刀。その死角からの一閃すら、今の俺の研ぎ澄まされた視覚は完全にその軌道を見切り、紙一重の最小限の動きだけでかわしていく。
放たれる弾丸の暴力に防壁が割れるたび、息つく暇もなく厚い魔力のバリアを多層に張り直した。
苛烈な攻撃と防御を同時に行いながら、どうにか私邸の方向へと歩みを進めていると、前方の地上から、凄まじい風圧と共に跳ね上がってくる複数の影が俺の視界に映り込んだ。
先ほど打ち上げた、夜空を赤く染めた火の玉の爆発に気づいてくれたのだろう。
「ノア!」
波打つ至白の髪を夜霧にたなびかせながら、クローディアたちがしなやかな動作で屋根の上へと着地した。
「ディア、バリアでは銃撃を完全には防ぎきれない」
俺は腕の中のアイシスを慎重に床へと降ろし、息を整えながら指示を飛ばす。
「強固な防壁を築き、アイシスを守ってくれ。ゼノとジキルはここに残り、二人を死守しろ。……ルクシオ、シヴァ、行くぞ。相手は殺すな。確実に生け捕りにしろ。……狩りの時間だ」
「「はっ!」」
クローディアが手にした杖を天へと掲げ、冷たい石の床を頑強な壁へと鮮やかに作り替えるのを見届けると、俺は瞬時に身体を反転させ、迫り来る敵の群れへと向かって躍り出た。
互いの死角を完全にカバーし合える完璧な三角形の陣形で、俺たち三人は夜の闇を突き進んでいく。
こちらの人数が倍増し、戦況がこちらに傾き始め、仲間が次々と声を上げる間もなく気絶させられていくのを見て、敵の連携は一瞬にして瓦解した。形勢不利を悟った残党たちは、蜘蛛の子を散らすように散り散りになって逃亡を図り始める。
「……シヴァ、ルクシオ、もう十分だ。深追いして罠に嵌まる必要はない。いったんディアの元へと戻るぞ」
「「御意」」
二人の短い、けれど忠誠の籠もった返答を背に受けながら、俺は再びクローディアの築いた防壁の元へと歩み寄り、声をかけた。
「ディア、ジキル、ゼノ。こっちは無事か?」
「ええ、平気よ」
クローディアが優美な所作で壁をさらさらと崩し、何事もなかったかのように微笑んで返事をする。
「アイシス、怪我はないか?」
「アタシは問題ないよ。すまないね、ノア。余計な面倒をかけた」
彼女は魔導銃を慣れた手つきで懐へ収め、少しだけバツが悪そうに苦笑した。
「いや、このために一緒に行ったんだ。気にする必要はない。……それと、これだが」
俺は左手で襟首を強く掴んでいた敵の身体を、ドサりと乾いた音を立てて硬い床の上へ無造作に投げ捨てた。
「一人だけ、引っ張ってきた。その他の羽虫どもはその辺の路地で気絶して転がっているから、その回収だけ後で頼めるか?」
「ああ、手下にやらせる。」
アイシスはスーツの埃を払いながら答える。
「この一匹は私が運びましょう、ノア様」
ゼノはその場に跪くと、投げ出された男の身体を軽々と肩へと担ぎ上げた。その眼差しには、主を脅かした逆賊への静かな怒りが宿っている。
「……一旦、アタシの家へ戻ろうか。」
アイシスの言葉に俺は頷き、再び彼女の身体を横抱きにした後、なるべく衝撃を与えないよう地を蹴った。
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