リントヴルム[伍]
翌日、俺たちは宿を引き払い、あの薄暗い倉庫街の建物へと再び足を運んだ。入り口には、昨日と変わらぬ男が不動の姿勢で立っている。
俺は男に向けてアイシスに呼ばれている旨を告げた。男は濁った両眼で俺の姿を頭からつま先まで値踏みするようにしばらく沈黙を保った後、顎を小さくしゃくって中へ入れと促した。
重い鉄扉を開けて足を踏み入れる。内部には、以前と同じように疎らな人影が椅子やソファに座っており、その奥では革のソファにアイシスが座っていた。
「来たね」
アイシスが視線を俺に向け、ハスキーな声を響かせる。
「待たせてないといいんだが……。世話になる」
「いや、丁度よかった。今から出かけるところだったんだ。ついでにアンタ達が住むところに案内する」
ソファから立ち上がった彼女は、仕立ての良い上着を羽織った。
「そうか。よろしく頼む」
アイシスの背を追うようにして倉庫街の建物を後にし、さらに光が届かない、湿った隘路へと分け入っていく。レンガの壁は黒ずみ、足元には正体の知れない濁水が溜まっていた。
すれ違う人影の質が、歩を進めるごとに変質していく。一般的な街並みとは異なり、粗末な麻布を身につけたゴロツキのような輩や、アイシスと同じように仕立ての良いスーツを隙なく着こなした、油断のない目つきの者たちが目立つようになってきた。
「アイシス、この辺りは治安が悪くないか?仲間を歩かせるには少々不安が残るんだが……」
「安心しな。この辺りはアタシのシマだ。変な揉め事を起こす奴も、ましてやアタシの客人をどうこうしようって命知らずはいやしないさ」
自信に満ちた彼女の横顔を見つめながら、俺は言葉を繋いだ。
「そうだったのか。……アタシのシマってことは、アイシスがこの辺りの頭なのか?」
「ああ、そうだ。この街の半分だけどね。もう半分は別の男が仕切ってる。手段を選ばない、反吐が出るようなクズ野郎さ」
アイシスの顔が不快そうに歪み、苦虫を噛み潰したような表情になる。
さらにしばらく歩を進めると、重厚な鋳鉄製の縦格子フェンスに囲まれた、いかめしい大邸宅が闇の中に浮かび上がってきた。
「さっ、この建物がアンタ達の根城だ。アタシの家で悪いけど、部屋も風呂も腐るほどあるから不自由はさせないよ。きっちり教育された使用人もいる。中の案内は手配してあるから、まずは旅の疲れを癒やすといい」
「……アイシスの私邸で匿ってくれるのか?」
「この界隈はアタシの身内しか歩いちゃいない。一番安全な場所さ。……そういや、この間アタシの傍らに立ってた黒髪の男がいただろ?シリウスって名前なんだけどさ、そいつもここに同居してる。腕は確かだから、万が一の時は遠慮なく頼りな」
「ああ、わかった。なら、人手が必要な時には俺たちを呼んでくれ。匿ってくれるんだ。俺たちにできることなら何でも手を貸そう」
俺の言葉に、アイシスは不敵な笑みを浮かべて足を止めた。
「それならノア、今さっそく手を借りてもいいかい?あいにくシリウスが出払っててね、アタシの護衛を務めてほしいんだ」
「構わないが……アイシス自身、並の男よりずっと腕が立つだろう。そんなに危険な場所へ赴くのか?」
「いや、アタシが目をかけてる孤児院へ行くだけさ。ただ、この界隈の連中は数の暴力で襲ってくることが多くてね。多勢に無勢じゃ、流石のアタシでも形勢が悪い。それに、これから寝食を共にするんだ。道すがら、少しばかり互いの話をしようじゃないか」
「分かった」
異論はなかった。俺は即座に首を縦に振る。
「ノア様、お供いたしますか?」
背後から、影のように付き従っていたシヴァが静かな、しかし確かな緊張を含んだ声で尋ねてきた。
「いや、いい。お前たちは邸宅の構造と、敷地周辺の地形を把握することに努めてくれ」
単身で赴く俺を案じ、渋る表情を見せる者もいたが、強い口調で言い含めると、彼らは一様に頭を垂れて指示に従った。
「行けるかい?」
アイシスが、夜風にプラチナシルバーの髪を揺らしながらこちらを振り返る。
「ああ」
俺は彼女の隣に並び、再び夜の街へと歩き出した。
「アイシスは、馬車を使わないのか?」
「陽が出ているうちは使うよ。夜はこうして直に地面を踏んで歩く方が性分に合ってる。シリウスと煙草の煙を燻らせながら、街の様子を見て回るのが日課さ」
「煙草……。あの、白い筒を唇で咥えてるやつか?」
「ミスティル神皇国には存在しないかい?まぁ、あの高尚な天族様たちの口には合わないか。……どうだい、一本試してみるかい?」
「……そうだな。貰おうか」
シリウスという男が、彼女と同じように夜風の中で紫煙を燻らせている光景が脳裏をよぎる。その風情に、俺も身を委ねてみたくなった。
「はいよ」
アイシスが銀細工のケースを指先で弾き、一本差し出してくる。俺がそれを指先で受け取ると、彼女もまた手慣れた動作で自身の一本を唇に挟んだ。
それから彼女が懐から取り出したのは、鈍い光沢を放つ金属製の小さな四角い物体だった。指先で弾くと、キンという高音で澄んだ独特の金属音が夜の街に響き、上部の蓋が開く。
「これはジガー。魔力を微量だけ流してここの歯車を回すと、小さな炎が噴き出る仕掛けの魔道具さ。一々、面倒な詠唱を紡ぐ必要もない」
アイシスは、指先でその精巧な魔道具の構造を見せてくれた。
「口に咥えて、息を吸い込みながら火を移すんだ。いいかい?」
「ああ」
カサついた紙の感触を唇に感じながら、俺は小さく頷いた。
「じゃあ、顔を近づけな」
アイシスは自身の唇にある一本もジガーの火口へと寄せた。互いの吐息が、冷えた夜気の中で白く混じり合うほどの距離。彼女の指先が爆ぜて小さな紅蓮の炎が灯り、俺はゆっくりと息を吸い込んだ。
途端、ちりちりとした熱線が喉を焼き、肺の奥深くへと濃厚な煙が満ちていく。舌の上に微かな苦味が残るが、鼻腔を抜ける香木のような芳醇な薫りは決して悪くなかった。
満ちた呼気をそのまま吐き出す。唇から溢れ出た白い塊が、夜の闇にゆらゆらと揺らめきながら冷たい上空へと這い上がり、濃紺の夜空へと染み渡っていく。
「……落ち着くな」
ぽつりと言い落とした俺の呟きを聞き留め、アイシスが相好を崩した。
「そうだろう?アンタの好みに合ったなら何よりさ」
満足げに微笑む彼女もまた、滑らかな動作で紫煙を吐き出しながら進む。揺らめく白い霧の向こうで、魅惑的に目を細めて笑う彼女の姿を、どこか美しいと感じている自分がいた。
その後も、俺たちは静まり返った夜道を靴音で乱しながら、互いの背景を語り合った。ディアやシヴァたちの現状、そして近年なぜか狂暴化を増している魔物たちの動向。
やがて話が組織のことに及ぶと、アイシスの声から先ほどまでの砕けた響きが消え、裏社会を統べる者としての真剣な声調が混じり始めた。
彼女が率いる組織の名は『リントヴルム』。裏社会の暗流で不当に売買される龍族たちを財力で買い取り、彼らが人道的に生きられる真っ当な商売先へと斡旋することを生業としているのだという。
「顕現魔法を宿したタトゥーを持つ子供たちはね、その強大な力を制御できるようになる前の、まだ扱いやすい年齢のうちに高値で売り飛ばされてしまうんだ。だからアタシたちが引き取って親元へ返すか、それが無理なら孤児院で保護する。そのための莫大な資金源として、魔道具の密売に手を染めてるのさ」
アイシスは虚空を見つめながら語る。
「今向かっているのは、その顕現魔法を使える幼い子たちが身を寄せ合っている孤児院なんだよ。たまにこうして夕飯を食べに行って、商売敵の連中が夜陰に乗じて攫っていかないよう、顔を見せて牽制してるのさ」
「そうだったのか。その商売敵というのは……例の、街の残り半分を牛耳っている男のことか?」
「そうさ。金になるなら同胞の命だろうが何だろうが毟り取って競売にかける。人身売買から麻薬まで、あらゆる汚濁を煮詰めたような悪党さ」
アイシスの蜜蝋色の瞳に、憎悪の炎がゆらめいた。
「……シリウスというのは、どんな男なんだ?」
彼女の身を包む感情の棘を和らげるため、俺は身近な存在の話題へと変える。
「シリウスかい? アタシと同じ孤児院で育った、血の繋がらない兄弟みたいなもんさ。アタシらも昔、攫われかけた口でね。その時に実の親を惨殺されてる。行き場をなくしたアタシらを、リントヴルムの先代が拾って育ててくれたんだよ」
「……恋人、というわけではないのか?」
「シリウスとアタシがかい!? あははは、傑作だね、そりゃあいい!」
アイシスは腹を抱えて声を放ち、路地に快活な笑い声を響かせた。
「シリウスは、アタシにとって守るべき弟さ。……そのくせ、いっちょ前に生意気で、いつもアタシの前に立って盾になろうとするんだから可愛いやつさ」
そう語るアイシスの表情は、困ったように眉をひそめつつも、どこか誇らしげで、複雑な愛情に満ちていた。
「そうなのか。良い弟だな」
「そうだね、大切な弟だ。……さあ、着いたよ。ここがアタシたちの目的地だ。一緒に温かい夕飯でも食べようじゃないか」
「ああ」
俺とアイシスが、年季の入った孤児院の厚い木門を叩くと、閂が外される音が響いた。扉が開いた瞬間、そこには溢れんばかりの眩しい笑顔を浮かべた、大勢の龍族の子供たちが、俺たちを出迎えてくれた。
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