リントヴルム[肆]
宿の寝室に漂う空気は、夜明け前の静穏に満ちていた。窓の隙間から差し込む薄明かりが室内を淡く照らす。長い一日の終わり、クローディアが湯浴みをしている間に、俺はシヴァと二人で言葉を交わしていた。
「どうだったんだ?ジキルとの夜市は」
俺は愉快な笑みを向ける。
「どう、ということもありません。色々な物を見て回ったり、食べたりしただけです」
対して、シヴァは淡々と答えてきた。
まるで隙がない。
「そうなのか?女性はシヴァ一人だけだったろう。ちゃんとお姫様のように扱ってもらえたか?」
彼女は前髪の隙間から覗く視線をわずかに揺らした。
「ゼノとはそういう風なことをする仲ではありません。むしろ私の中では、隙あらばノア様に近づこうとする不届者ですから。……ですが、ジキル様はとても良くしてくださいました。果物を透明な飴細工で覆った菓子を買っていただいたのですが、それがとても、美味しかったです」
「……シヴァはそういう物が好きなんだな。覚えておくよ。ジキルは楽しい男だったろう?社交界で揉まれてきた分、俺よりずっと人との付き合い方が上手い。話しやすかったはずだ」
「はい、様々なお話を聞かせていただけました。クローディア様が、使用人同士の陰湿な諍いをも許さない人格者であるということも。……ですが、だからといって、ノア様が話しづらい方だということではありません」
すかさず重ねられたその言葉に、胸の奥が綻ぶ。
「そうか、ありがとう。シヴァは優しいな。」
そっと手を伸ばし、彼女の滑らかな頬に触れる。指先から伝わる体温は心地よく、どこか切ない。すると、シヴァも自分の白い手を、俺の手の甲へと重ねてきた。肌と肌が触れ合うかすかな摩擦が、ひどく鮮明に鼓膜に届く。
「いつからだろうな。シヴァが俺の手に手を重ねる度に、ひどく安心するようになったのは。……少し、お前に甘えすぎているのかもしれないな」
「ノア様が私を必要としてくださるならば、いくらでも甘えてください。私はどこへも行きません」
重なる視線。真紅の瞳と、彼女の双眸が至近距離で結びつき、部屋の空気が濃密な流れへと変わる。数秒の永遠の後、どちらからともなく、視線を外した。
互いの吐息が届くほどの距離に灯った熱。それが夜明けの風にさらわれて消えてしまいそうな、脆い空気のなか、部屋の扉が開いた。
湯上がりの白い湯気と、石鹸の香りを纏わせ、クローディアが戻ってくる。その頬はほんのりと赤みを帯び、緋色の瞳が俺たちを捉えた。
「あら、二人で楽しそうにお話ししていたのね。私も、三人でお話ししたかったわ」
「それならまた今度、ゆっくり三人で話そう。……次は俺が湯浴みに行ってくる。ディア、髪が濡れたままだぞ。身体を冷やして風邪を引かないように、な」
俺は控えていた部屋付きの使用人に合図を送り、冷えた身体を温めるための温かい紅茶を淹れるよう、指示を出した。
「では、俺も湯浴みをしてくる。……シヴァ」
「はい、ノア様」
シヴァを伴って浴室へ向かおうと腰を浮かせる。シヴァもあらかじめ用意されていた真新しい服をその腕に抱え、俺の斜め後ろへと従おうとした。
だが、その歩みはクローディアの発した言葉により止められる。
「シヴァはいつもノアの湯浴みを手伝っているの?」
クローディアの声が、静まり返った室内に響く。
「はい。毎回ではございません。お洋服の着替えをお持ちするだけの時もございますが……」
シヴァは腕の中の柔らかな布地を整えながら、淡々と、しかし淀みなく答える。
「そう。……その役目、今日だけ私が代わってもいいかしら?」
緋色の瞳が、真っ直ぐにシヴァを見つめていた。その言葉に込められた確かな熱量に、俺もシヴァも、一瞬だけ驚いた。
「か、かしこまりました、クローディア様」
一瞬の沈黙の後、シヴァは抱えていた服を、恭しくクローディアの手元へと委ねる。
俺は頭の片隅で軽い混乱を覚えながらも、服を抱えた彼女を拒むこともできず、そのままクローディアを伴って浴室へと足を踏入れた。
湿り気を帯びた温かい湯気が、室内の石造りの壁に結露となって滴っている。
「ノア、ここからシヴァはどうしているの?」
クローディアは衣服を大理石の台へと置き、不思議そうに小首を傾げて俺を見上げてきた。
「……下着以外の服を脱がすのを、手伝ってもらっているな」
そう答えた瞬間、彼女の白く滑らかな指先が、躊躇なく俺のシャツのボタンへと伸びてきた。指先が鎖骨のあたりに微かに触れ、湯上がりならではの彼女の熱い体温が肌に伝わる。
「ディ、ディア。君はそんなことする必要ない。自分で脱ぐから」
慌ててその手を止めようとするが、彼女はボタンを掴んだ指を離そうとはしなかった。
「……何故?シヴァにはやらせているのでしょう?私も同じよ。脱ぎづらい服だってあるし、いつも城では使用人に脱がせてもらっていたわ」
「それとこれとは……」
言い訳を遮るように、彼女の強い眼差しが俺の瞳を射抜いた。その緋色の奥にあるのは、ただの我儘ではない、譲る気のない本気の色だ。
(これは、大人しく従った方がよさそうだ……)
ここで頑なに拒む方がかえって拗れると察し、俺は突き出しかけた手を下ろして抵抗をやめた。
俺が身を委ねたのを確認すると、クローディアの表情が和らぐ。彼女の指先は驚くほど器用に、スッ、スッと上質な生地のボタンを外していく。開かれたシャツの隙間から、夜明け前の冷えた空気が肌を撫でた。
彼女が脱がせたシャツを丁寧に畳み、台へと片付けている間に、俺は残りの肌着を自ら脱いでその小さな手へと手渡す。
「クローディア、湯浴み直後にこんなことをしていて寒くはないか?髪もまだ濡れている。先に乾かしてきたらどうだ?」
「いいのよ。一度やってみたかったの。普段の貴方を見てみたいわ。」
そう囁く彼女の声音は、どこか切なげで、ひどく甘い。クローディアは畳み終えた肌着をそっと傍らに置くと、そのまま吸い寄せられるように、俺の剥き出しになった胸元へと顔を埋めてきた。
ふわりと鼻をかすめる、湯上がりの石鹸の匂いと、彼女自身のとろけるような熱。彼女の小さな手のひらが、俺の強張った背の輪郭を確かめるように、ゆっくりとなぞり下りていく。その指先が、硬く盛り上がった古傷の痕に触れた。一瞬、その動きが止まる。だが、彼女は何も言葉を発さなかった。ただ、労わるように、慈しむように、その痛みの記憶を優しく指頭でなぞり消そうとするだけだった。
しばらくして、胸元からゆっくりと顔を離した彼女は、俺の首の後ろへと白く細い両腕を回してきた。そのまま、じわりと自分のほうへ引き寄せるように、低く屈むことを促してくる。
俺はその細い腕の力に抗うことなく、背を屈めた。視線が、至近距離で重なる。
「ノア、お願いがあるの」
見つめ合う彼女の緋色の瞳は、浴室の熱気のせいか、それとも別の情動のせいか、うるんだ瞳は妖しく揺らめいていた。
「どうした、ディア。何でも言ってごらん。」
髪から滴る一滴の水滴が、俺の鎖骨を伝い落ちる。それを合図にするように、ディアは俺の耳元へと唇を寄せた。耳朶に触れるか触れないかの距離で、秘密の話を交わすような、か細く、しかし艶を孕んだ声が鼓膜を震わせる。
「……貴方の血が飲みたいの。」
クローディアは遅れてヴァレンティスとなり、俺の妃となった身だ。天族から吸血鬼族へと変貌を遂げた者が等しく直面する、抗いがたい『吸血への渇望』。その時期が、そろそろ彼女にも訪れる頃だろうと、俺も予測していた。
「いいだろう。……抱き上げるぞ」
優しく声をかけ、拒絶がないことを確かめてから、彼女のしなやかな身体に触れる。ナイトドレスごしの柔らかな肉体を両腕で掬い上げ、そのまま、ひんやりとした大理石の化粧台の上へと彼女を腰掛けさせた。
「これなら俺の首に牙が届くか?」
少しだけ屈んで、彼女の目の前へ、自身の無防備な首筋を差し出す。
「ええ、大丈夫そう。」
クローディアは満足げに目を細める。しかしすぐに牙を立てることはしなかった。尖った犬歯が覗く唇を寄せ、あろうことか、噛み付くべき位置へとゆっくりと湿った舌を這わせた。脈打つ頸動脈の上を、生温かい感触が、なぞるように滑っていく。
「ディ……ア。俺を試しているのか?」
背筋を突き抜けるような刺激に、思わず声が低く掠れる。
「違うわ、貴方を味わいたいだけ。だって……貴方の全てを私にくれると言ったじゃない。」
絡みつくような眼差しで俺の瞳を見つめ返し、彼女は妖艶な笑みをその唇に咲かせた。
「それはそうだが、こういう意味だったのか?」
「……こういうのも含まれてるのよ」
クローディアは耽美に微笑み、薄ピンク色の舌先で自身の唇を艶やかに湿らせた。その一連の動作があまりに扇状的で、網膜に焼き付いた官能的な残像が、俺の理性を内側からじわじわと溶かしていく。
「早く噛め」
これ以上、この衝動に曝されていては身が持たない。俺はこの膠着状態から脱却しようと、短く先を促した。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
クローディアは小さく囁くと、俺の首筋へと一気に顔を寄せ、鋭い牙を突き立てた。躊躇のない力が肉を貫く。
「……っっ!」
生々しい痛みが脳を突き抜けるが、耐えられないほどではない。それよりも、耳元でごくりと俺の血を嚥下する音が響き、恍惚とした表情で俺に縋りつくクローディアを間近で感じているうちに、俺自身の本能が激しく覚醒した。内側から突き上げてくる凶暴な吸血衝動を、もう止めることができない。俺は突き動かされるままに、今度はクローディアの白く柔らかな首すじへと牙を突き立て、その甘い血を啜った。
「あっ……っ!んんっ……。」
クローディアの唇から、痛みを堪えるような、しかしどこか甘美な声が漏れる。
……これは、まずい。ヴァレンティスとなった妃との間で交わされる吸血には、強烈な媚薬でも混ざっているのだろうか。注ぎ込まれる感覚と、吸い上げる感覚が混ざり合い、クローディアの血が、彼女という存在そのものが、狂おしいほどに欲しくて堪らなくなっていく。
それはクローディアも同様のようだった。重ね合わせた身体を通じて、彼女の息が荒く上がっていくのが分かる。白かった頬は林檎のように紅潮し、潤んだ緋色の瞳は完全に陶酔しきって、全身で俺を求めているかのようだった。
俺は大理石の化粧台に腰掛けたクローディアにさらに身体を寄せ、その口に首筋を当てがって再度血を吸わせた。自身の血が容赦なく啜られ、意識が心地よく麻痺していく。限界まで高まった情動のまま、俺はクローディアの顎に手をかけ、その顔を上へと向かせると、強引に唇を塞いだ。互いが互いを貪り尽くそうとするように、口付けはどこまでも深く、濃厚に絡み合っていく。
「あっ……んぅ、ん……はぁはぁ、んん!」
浴室の熱気のなか、どれくらいそうしていただろうか。血液の交換がもたらす激しい酩酊から、段々と理性が戻ってきた。
「……ディア、すまない。苦しくはなかったか?痛いところは?」
我に返った俺は、彼女の身体に負担をかけていないか心配になり、そっと声をかける。
「大丈夫よ。気持ち良すぎたくらいだわ」
クローディアは乱れた呼吸のまま、肩を上下させて小さく答えた。その表情には、まだ吸血の余韻が色濃く残っている。
「……湯浴みするか。」
俺はクローディアと自身に、傷を瞬時に塞ぐ『贄刻』を施し、残ったボトムスと下着を脱ぎ、大きな石造りの湯船へと身を沈めた。温かい湯が、熱を持った身体を優しく包み込んでいく。
「この後シヴァはどうしているの?」
「髪を洗いにくる」
そう答えると、クローディアは自分の手のひらで細やかな泡を作り始めた。
「……そこまでしなくていいんだぞ」
「だめよ。今日は私がシヴァの代わりなんだから」
ふくれたように唇をとがらせたクローディアが近づいてきて、俺の髪にその柔らかな指先を潜り込ませる。優しい手つきで頭皮をマッサージされる感覚に、俺はもう抵抗することなく身を任せた。
「……寒くはないか?」
「平気よ。」
彼女に髪を洗ってもらった後、さすがに身体は自分で洗い流した。そして湯船から上がり、クローディアが用意してくれていた上質なコットンのローブへと袖を通す。
「部屋に戻ろうか」
俺はまだ少し名残惜しそうにしているクローディアを横抱きにし、静まり返った寝室へと戻った。柔らかいベッドの上へと彼女をそっと降ろすと、部屋の隅にあるティーセットが置かれたテーブルへと向かう。
ディアの身体が冷えてしまわないよう、温かい飲み物を用意する。術式が刻まれた銀のポットに自身の魔力を軽く流し込むと、瞬時に湯が沸き立ち、香ばしい茶葉の香りが広がった。
「ディア、紅茶とミルクティーどっちがいい?」
ベッドの上の彼女へと問いかける。
「ミルクティーがいいわ。」
その返答に頷き、濃く淹れた紅茶にたっぷりとミルクを混ぜ合わせ、クローディアの元へと運んだ。
「ありがとう」
クローディアは愛らしい微笑みを浮かべ、温かいカップを両手で受け取る。俺はミルクティーを美味しそうに飲むクローディアの、まだ少し湿り気を帯びた髪を静かに撫でた。言葉を交わさなくとも、肌に触れる指先を通じて居心地のいい空間が満たされていく。
しばらくして、綺麗に飲み干したディアから空のカップを受け取り、テーブルへと戻した。
そのままベッドの縁へと腰を下ろすと、クローディアがするりと俺のローブの隙間から細い手を差し入れてきた。素肌を、彼女の指先が愛おしそうに撫で上げる。
「無警戒すぎは……しないか?」
「ふふっ、わざとかもしれないわね。でも……ただ貴方に触れていたいのよ。私のものだと実感したいの。」
悪戯っぽく、けれどどこか切実さを孕んだ微笑みを浮かべ、クローディアは俺を見上げてくる。ローブの隙間に滑り込んできた彼女の指先は、俺の肌に微かな熱の跡を残していく。
「そうか」
低く応じた俺は、その細い体を壊さないよう腕の中に囲い込み、シーツの敷かれた柔らかなベッドの上へと優しく押し倒した。重ね合わせた互いの体温が混ざり合い、じわじわと熱を持っていく。俺は自由な片手をベッドの外へと伸ばし、部屋の隅々へと魔力を浸透させた。空気の振動を完全に遮断する、強固な防音の魔術が、結界のように室内の壁を満たしていく。これで、この部屋の音は外へ一切漏れることはない。
「俺もクローディアが自分のものだと実感したいし、自分のものにしたい」
耳元で低く囁きながら、彼女の紅潮した頬にそっと手のひらを添える。その瞬間、手のひらを通じて、クローディアの華奢な肩が微かに震えたのが伝わってきた。
「……怖いか?」
「いいえ、怖くなんてないわ。待ち望んでいた日がやっときたのよ。ただ……優しくして?」
「ああ。もちろんだ、ディア。大切に大切に抱くよ。約束する」
俺は彼女の小さな体を壊さないよう力強く、けれど同じくらい繊細な優しさを持って抱きしめた。夜明け前の薄明かりの中、静かに、二人の夜が深まっていく。
——そして、互いの境界が溶け合うような甘やかな一夜を共にし、次の夜を迎えた。
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆やリアクションで応援お願いします!執筆の支えになります!




