リントヴルム[参]
連れて来られたのは、夜市が開かれていた場所から離れた、人気のない倉庫街の一角にある建物だった。古びたオイルの匂いが混ざり合う、薄暗い空間。
入り口には警備の人間なのか、アイシスと同じようにスーツを着た男が二人、行く手を阻む石像のように立っている。その二人にアイシスが一言、二言話しかけると、男たちは音もなく身を引き、重たい鉄の扉を開いた。俺たちを建物の中へと促す彼女の背に従い、足を踏み入れる。
壁は赤レンガが剥き出しになっており、内装は主の決まっていそうな革張りの重々しいソファが一脚に、人が疎らに座っている使い込まれたソファが何脚かと、細かな傷の残る木製テーブルが複数あった。壁際のバーカウンターには磨かれたグラスが並んでいるが、バーテンダーの姿はないようだ。ひんやりとした地下室のような空気が部屋を満たしている。
「大事な話がある。散りな」
アイシスが部屋の隅々にまで通る声でそう一声かけただけで、室内の気配が張り詰めた。中にいた人間は一斉に立ち上がり、誰一人不満を漏らすことなく、1人を残して全員が足早に外へと出た。
アイシスが主の不在だった、たった一つだけ際立っていた革張りのソファに深く腰をかける。すると、1人だけ残った男がその横に、指先を前に揃えた姿勢で音もなく立った。
その男は髪の色と同じ、暗闇をそのまま織り上げたような、高い襟の服とジャケットに身を包んでいる。対照的に、露出した肌は陶器のように白く、シャープな顎のラインが際立っていた。伏せられた長い睫毛の影に隠れる目元は理知的で、顔に添えられた極細の眼鏡の銀枠が、室内の微弱な光を捉えて光を放っている。耳元には、黒の小さな粒や銀の環の飾りがいくつ並んで肌を飾っていた。喉元には、服の隙間から覗く、アイシスの首筋にあるものと似たタトゥーが彫られている。
彼の指先には、先ほどアイシスが咥えていた白く細い筒状の物が挟まれていた。火種がじわじわと赤く燻り、灰へと変えていく。先端から細く立ち上る灰色の煙は、彼の漆黒の髪をかすめ、緩やかに天井へと溶けていった。
「それで?アタシに匿ってほしいと親書に書いてあったが、アンタは何をそんなにやばいことをしたんだい?」
アイシスは側のテーブルに置いてあった酒瓶を掴み、重みのあるガラスのグラスへとトクトクと酒を注ぎながら尋ねてきた。
「……それは親書に書かれていなかったのか?」
俺は椅子の肘掛けに置いた自分の指先にわずかに力を込め、彼女の目の奥を探るように聞き返す。
「親書にあったのは、簡潔に言えば弟のノアを匿ってほしいってことぐらいだったね。理由は本人から聞けとさ」
アイシスはグラスを傾け、喉を鳴らして一口煽ると俺を見すえた。
「……理由によっては、いくら命の恩人の頼みと言えど匿う気はない」
ここで真実を濁らせても、後々良いことはないだろう。俺は静かに息を吸い込み、正直に話す。
「……俺が吸血鬼族だからだ。そしてミスティル神皇国を追われた。今はどの国が味方となってくれるのかが不明瞭だ。事態の把握ができるまで、匿ってほしい」
あえて詳細な経緯は伏せ、大まかに事実だけを淡々と告げた。
「吸血鬼族?聞いたことのない単語だね。その説明からしてもらおうか」
彼女の怪訝そうな表情を見る限り、どうやら国の中枢部の人間ではないようだ。少なくとも、今すぐ俺の不利益になりはしないだろう。
俺は椅子の背にもたれかかり、ヴァンパイア・ロードが死ぬとヴァレンティスも灰になることを除き、吸血鬼族について順を追って話した。
「……そんな種族聞いたこともない。シリウス、アンタは?」
先ほどから彫像のように黙って横に立っていた黒髪の男に、アイシスが視線だけを向けて問いかける。
「……俺も聞いたことのない種族だ」
シリウスと呼ばれた男は、低く抑えられた声でそれだけを答えると、再び唇を硬く結んで口を閉じる。
「……だそうだ。何か証拠はあるのかい?アンタがその吸血鬼族とかいう種族だっていう確固たる何かがさ。一〇種族しかいないってことがこの世の常識だ。まさかさっきから見え隠れしてる尖った牙だけってんじゃ、話にならないよ。獣族にだって歯の尖った人間くらい幾らでもいるからね」
アイシスは椅子の背に深く体を預け、挑発するように口角を上げた。
「……貴女たちは龍族だろう?その首にあるタトゥーは顕現魔法が扱える者のみに許されたタトゥーだとお見受けする。吸血鬼族にも種族固有魔法があってな。血冥魔法という」
タトゥーのことは禁書庫で読んだ『種族固有魔法』の本に書いてあった知識だ。
「待て」
アイシスの低い声が、レンガの壁に反響した。先ほどまでの余裕に満ちた笑みは完全に消え去り、その表情は途端に険しく強張っている。
「そのタトゥーの情報はどこで手に入れた」
視線が俺の顔に突き刺さる。背後に立つシリウスの手元が、わずかに動いたのを俺の目が捉えた。
「……それは言えないな」
まさかミスティル神皇国の禁書庫で読みました、とは言えるはずがない。
「タトゥーの形は、世に出回っていないものだ。龍族の秘密でもある。」
アイシスはグラスを机に置いた。コン、と乾いた音が静まり返った室内に響く。
「……言えないなら消えてもらうしかない」
魔導銃の時とは明らかに質が違う。肌をチリチリと刺すような、本気の殺気が彼女の身体から膨れ上がり、部屋の空気を一変させた。背後でクローディアたちが身構える気配が伝わってくる。だが、俺は殺気を無視して微動だにせず、冷静に話を続ける。
「まだお互い信用が成り立っていない。その状況で脅されたからと、こちらの秘密を全て話すとでも?そちらにも職業柄言えないことが山ほどあるはずだ。俺がそれを話してくれと武力に訴えれば話してくれるのか?」
アイシスは双眸を細め、品定めするようにじっと俺を見つめ続けた。張り詰めた沈黙が数秒間、部屋を支配する。やがて、彼女はふっと鼻から息を抜いた。
「……いいだろう。確かにこちらにも話せないことはある。だが、そのタトゥーの話はここ以外でしないことだね。命がいくつあっても足りないよ」
表情は険しいままであったが、周囲の空気を圧迫していた殺気は消えた。
「……それで?血冥魔法とやらについて話してもらおうか」
アイシスが顎をクイっと上に短く上げ、話の続きを促してくる。
「聞くより見る方が早いだろう。シヴァ」
俺は隣に控えるシヴァに向かって片手を差し出す。シヴァは何も言わず無駄のない所作で胸元からナイフを出すと、俺に柄を向けて手に乗せた。金属のひんやりとした重みを指先に感じながら、俺はそのまま、自らの左の手のひらを容赦なく切り裂いた。
鮮紅の血が溢れ、床へと滴り落ちる。閉ざされた空間ににわかに鉄の生々しい匂いが立ち込め、その匂いと俺の手の傷に、後ろにいたクローディア達全員が目の色を変えた。手を切り裂いたことが気になったのだろう。しかし俺はそれを全て無視し、溢れる血を凝視しながら呪文を唱える。
「赤き情念を以て、去にし時を逆巻け。贄刻」
言い終わると同時に傷口がみるみる塞がり跡形もなく消えた。
「……ほう、それが血冥魔法か」
アイシスは身を乗り出し、俺の左手を同じように凝視した。
「確かに治癒士が唱える呪文ではないのに、傷が塞がったな。それに治癒士が扱うのは、回復という表現が合う。傷を癒やし、生命の源を増やすようなものだ。呪文から察するに、それは見た目こそ綺麗に治すものの、なかったことにしただけで、血を増やしたり、体力を戻す力は無いように思える」
「……鋭いな。その通りだ。血冥魔法は他にもあるが、全てを見せる気はない。奥の手を曝け出すつもりはないからな。……証拠は見せた。匿ってくれるのか?」
俺の問いかけに、アイシスはしばらく沈黙を守っていたが、やがて片手に持っていたグラスの酒を飲み干した。
「……いいだろう。話を鵜呑みにする気はないが、嘘なら命をもらうだけだ。これは命の恩人からの頼みでもある。アタシは借りは返す主義でね。……今は宿にでも泊まってるのかい?」
グラスをテーブルに置きながら、アイシスは問いかけてきた。
「ああ」
「じゃあ金も無駄になるし、今日はそこに帰りな。明日またここに来るといい。本格的に匿ってやる。入り口に立ってる男達には白髪にサングラスの男がアタシを訪ねに来るはずだと言っておくから、アンタがアイシスに呼ばれていると話しかけな。通してくれるだろう」
「分かった。感謝する。……では、明日陽が沈んでからまた来よう」
「あぁ、気をつけて帰りな。」
アイシスは再びグラスを手に取りながら、もう片方の手をヒラヒラと振った。
俺はそれを目の端に捉えながら向きを変え、重い鉄の扉を開けて外に出る。
外に出ると、夜市のあった方向からは完全に灯りが消え、東の空が薄らと明るくなり始めていた。ひんやりとした夜明けの空気が、熱を帯びていた身体を冷やしていく。俺たちは来た道を戻り、現状を整理しながら今後について話し合い、宿へと帰った。
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