リントヴルム[壱]
人族の国であるガーノン帝国。その広大な領土の一角を占める大都市ロンベルクに辿り着き、手配された宿の一室に足を踏み入れた俺たちは、ようやく張り詰めていた長旅の疲れから解き放たれた。
陽が沈み始める黄昏時に合わせて動き出すのが、俺たちの習慣になっていた。そのためか、街に入った頃には中天に青白い月が浮かび、辺りは闇が静かに包み込んでいた。
ルクシオが確保してくれた宿は、広々とした談話室を中央に据え、そこから各自の個室へと繋がる贅沢な大部屋だった。室内に漂う乾燥した木材と絨毯の匂いが、遠い異国に来たのだと改めて伝えてくる。
「道中、やはり魔物の姿が普段より多く目についたように感じられましたね。」
ゼノがソファの傍らに腰掛け、愛用の剣を白い布で静かに拭いながら、誰にともなく言葉を零した。金属の擦れる音が部屋に響く。
「ミスティル神皇国では西の貴族街が、突如襲われたしね。徐々に魔物が活性化してきてるのかもしれない。」
ジキルからその話題を口にするとは思っていなかったのだろう。一同が驚きに目を見張りながらも、神妙な面持ちで首を縦に振る様子が、俺の視界の端に映り込んだ。
その時、クローディアが俺の腰掛けているソファのすぐ隣へと滑り込んできた。
「……ノア。人族の国というのは、実に多種多様な種族が雑多に集う場所なのでしょう?なんでも、夜行性の種族たちのために、夜が深まってから店を開く『夜市』という催しがあるそうなの。私、どうしてもそれを見てみたいのだけれど……一緒に連れて行ってくれないかしら?」
伺うようにその気品ある首を小さく傾げ、緋色の瞳でじっと俺の顔を覗き込んできた。
「夜市、か……。俺も前に公務で人族の国に来たことはあるが、そこに足を運んだ記憶はないな。あの頃は常に予定が分刻みで詰まっていたし……。よし、行ってみるか。」
ここへ来るのも長旅だった。
羽を伸ばすという名目のもと、少しばかりの休息を取るのも悪くはない。
「ええ!嬉しいわ、ぜひ行きましょう!」
クローディアは少女のように無邪気に目を輝かせた。彼女にとって、これは生まれ育った祖国を離れて初めて訪れる異国であり、初めてのお出かけなのだ。
「うむ……。そうだな、それじゃあ二人で出かけるとしよう。」
弾んだ声で喜ぶ彼女の姿が愛らしく、俺はつい気軽に応じてしまった。だが、その言葉が聞こえた瞬間、室内の空気が一変する。
「ノア様!それは賛成いたしかねます!慣れない土地で、護衛の一人も就けずに二人きりで出歩くなど……!」
シヴァが、いつになく慌てた調子で会話に割り込んできた。
「しかし、大勢で行っては返って目立ちますからね。アイシスという方も探さなければなりませんし、私は情報収集のために別行動いたしましょう。」
ルクシオが眼鏡の縁を指先で押し上げながら、提案を挟む。いつの間にか剣の手入れを止めていたゼノと、シヴァの視線がこちらに突き刺さった。
「「それならば、私が護衛としてお供を……!」」
ゼノとシヴァの声が見事なまでに重なり、部屋の空気がびりびりと震える。ゼノに至っては手元から剣を遠ざけ、立ち上がってさえいた。
「……シヴァ。君はそれこそ四六時中、ノア様の傍らに侍っているじゃないか。たまには、その役目を僕に譲ってくれたって罰は当たらないと思うけれど?」
雪白の瞳を細めたゼノは確かに微笑んでいたが、その奥の眼差しは一ミリも笑っていない。漆黒のネイルが施された指先が、落ち着かなさげに十字架のピアスに触れる。
「ゼノ、お前はルクシオの手伝いにでも赴けばいい。ノア様は、この私が完璧に守っておく。」
対するシヴァもまた静かに口元を緩めてはいるものの、肌を刺すような強烈な威圧感が放たれているのが伝わってきた。
「いいじゃないか!たまには二人きりで甘い時間を過ごさせてあげようよ!」
爆発寸前の二人の間に、ジキルがすかさず滑り込み、シヴァとゼノの肩を同時にがっしりと掴んだ。
「敬語じゃなくていいと言われてから、僕、ずっとルクシオも含めて、シヴァやゼノと本音で交流を深めたいって思っていたんだよね!ルクシオは一人で夜の街へ消えちゃうようだから、僕たち三人で賑やかに街を回ろうじゃないか!」
ジキルは愛嬌たっぷりの笑顔を浮かべながら、既に二人の首筋に腕を回し、自身の身体へと強引に引き寄せている。
シヴァが「しかし……」と反論を試みるも、ジキルは「ねっ?」と楽しげに片目を瞑ってウィンクしてみせた。その無邪気な押し切りの前に、流石のシヴァもそれ以上は言葉を返せず、ただ小さく溜息をついて頷くしかなかった。
「ルクシオ、単独行動で問題はないか?」
念のため俺はルクシオへと確認をする。
「はい、今夜は余った時間を僅かに使う程度に留め、本格的な捜索は明日以降に進めるのが賢明でしょう。まずは周囲の地理と勢力図の大枠を把握することに集中します。」
「そうか。何か不穏な動きを察知したら、後で必ず報告してくれ。気をつけて行くんだぞ。」
「ありがとうございます」とルクシオは一礼し、一度着替えるため自身の部屋へと消えて行った。
「あとは……、その三人なら安心だな。シヴァとゼノもたまには肩の力を抜いて、楽しんでこい。」
近接戦闘の二人に魔法使いだ。戦闘面での心配は皆無だろう。
なかなか見ない組み合わせに興味を惹かれる気持ちはあるが、どんな土産話を持ち帰るかを楽しみに待つのも悪くない。
三人もそれぞれ身支度を整えるため、各々の個室へと引き上げていった。
「ディアも支度のために部屋へ行っておいで。俺も着替えてこよう。」
そう言って立ち上がると、クローディアはなぜか不思議そうに小首を傾げた。
「……ノア、何を言っているの? 私たちの部屋は同じでしょう?」
「同じ、部屋……?」
俺は思考が一瞬フリーズし、戸惑いながらシヴァが事前に「ノア様は、こちらの部屋をお使いください」と案内してくれた扉を見つめた。
公爵家で与えられていた私室に比べれば少し手狭だったことや、他のメンバーの部屋を確認していなかったこともあり、一人で使うなら充分かと勝手に納得していたのだが。
「……ディアの部屋もあそこなのか?」
「ええ、そうよ。ルクシオが『お二人でお使いください』と言って手配してくれたわ。一番大きな間取りの寝室を、私たちのために割り振ってくれているはずよ」
なんともない日常の瑣事のように、クローディアが淡々と告げる。今まではここまで栄えた大都市に立ち寄る機会がなかったため、道中はディアとシヴァが同室になり、俺はジキルと二人部屋を使うことが大半だった。大都市の高級宿ゆえに、当然のように各自の個室が確保されていると思い込んでいたのだが——。
(シヴァ。大事なことを俺に言ってないぞ……。)
ディアが妃となってからは、未だに二人きりで夜を共にしたことは一度としてない。
「……なら、ディアは先に部屋で支度を済ませておいで。俺はここで、ディアが出てくるのを大人しく待っているから。」
流石に目の前で一緒に着替えるのはどうかと思い、彼女を部屋へと促す。
「身支度くらい、一緒にすればいいじゃない。そんなことを気にしていたら、これから先、同じ部屋で過ごすことなんてできないわよ?」
クローディアは俺の手首を優しく、だが確かな力で引いて部屋へと連れていこうとする。
「……分かった。」
観念して、俺は彼女と共に部屋へと入り、扉を静かに閉めた。手荷物から新しい服を取り出す。しかし、彼女と同じ空間で服を脱ぐことにはどうしても躊躇いが勝った。
この部屋には寝室とは別に、独立した浴室が備わっていたことを思い出し、そちらへ避難しようと足を向ける。
だが、その動線上には、既に支度を始めようとしているクローディアの姿があった。いつもの公爵邸で見慣れていた豪奢なイブニングドレスではなく、旅の道中で新調したという歩きやすい服。
今彼女が着ているのは、白と黒の鮮烈なコントラストが美しい、ドレス・パンツスタイルだった。首元を飾る漆黒のレース襟と、金ボタンが並ぶコルセットが彼女の引き締まった細い腰を際立たせている。
何より目を引くのは、タイトな黒のパンツを覆うように重ねられた、夜霧のごときシースルーのオーバースカートだ。繊細な刺繍が施された薄い紗の生地は、彼女が歩みを進めるたびに、しなやかな脚のラインを艶やかに透かし、まるで影を従えて歩いているかのような幻想的な美しさを醸し出していた。
見慣れたドレス姿とは一味違う、パンツスタイルの凛とした美しさに思わず言葉を失って眺めていると、彼女の視線と真っ向からぶつかった。
「……私の着替えを観察してくれているのは嬉しいけれど、流石にそんなに熱烈に見つめられると、少し恥ずかしいわね?」
クローディアは緋色の瞳を細めながら、楽しそうに口元を緩めた。
「……すまない。」
完全に揶揄われていると自覚しつつも、見惚れていた自分に非がある。俺は彼女に背を向けると、自身の着替えに集中した。
なんとか大急ぎで着替えを終え、談話室へと戻る。すると、一足先に準備を終えていたらしいジキルが、今にもその場から逃走を図りそうなシヴァとゼノの首根っこを左右の手で力ずくで引っ掴み、宿の玄関の向こうへと消えていく賑やかな後ろ姿が見えた。
「あちらもの三人旅も、賑やかな夜になりそうね。」
背後から現れたクローディアがくすくすと小気味よさそうに笑い、俺の手をそっと引く。予想外の同室というハプニングから始まったロンベルクの夜。ミスティル神皇国以外の地での、初めての二人だけのお出かけが、これから始まろうとしていた。
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