目覚めし者[漆]
扉を押し開けた瞬間、かすかな埃の匂いとともに、見慣れた、だが今の俺にはあまりにも遠くなってしまったはずの気配がした。
奥に置かれた年代物の椅子から、立ち上がる影がある。逆光の中に浮かび上がったその輪郭を見ただけで、俺の心臓は激しく脈打った。そこにいたのは、紛れもないラエル兄さんだった。
「ノア……!」
兄さんは俺の姿を確認した途端、貴族としての完璧な所作を忘れたかのような足取りで、床の敷物を踏みしめてこちらへと突き進んできた。
「無事で、本当によかった。お前が逃亡犯として追われていると報せを耳にした時、どれほど心配したか……。」
すぐ目の前まで迫った兄さんは、躊躇いなくその大きな両手を俺の肩へと乗せた。仕立ての良い上質な布地越しに、かつて執務室で触れた時と同じ、真剣で温かい体温が伝ってくる。彼は安堵を噛み締めるように、俺の肩をバシバシと力強く何度も叩いた。その骨の硬さと重みが、これは幻ではないのだと俺に気づかせてくれる。
「……兄さん、何故ここが?」
あの神殿での断罪の日。俺の兄であるというただそれだけの理由で、彼は広大な公爵邸の奥で軟禁状態に置かれていたはずだった。行き先も告げず、一族の栄光と安全を脅かす形で姿を消した俺に対して、激しい怒りを抱いているに違いない。そう思い込んでいた。だからこそ、もう二度と生きて会えることは叶わないと覚悟していた。
「昔、一度あっただろう。お前が『冒険の日』などと無邪気な口実を設けて、クローディア様やジキルをこの場所に連れ込み、何日も行方知れずになってひどく叱責されたことが。ふと、あの時の記憶が脳裏をよぎってな。もしやと思い、一縷の望みをかけて足を運んでみたのだ。まさか、本当にここで再会を果たせるとは……!」
兄さんの言葉の端々に滲む純粋な愛情が、俺の胸を熱くする。
「兄さん、一族に多大なご迷惑と泥を塗るような真似をしてしまい、本当に、申し訳ありませんでした。」
俺は深く頭を下げた。視界が己の靴先と古びた床の木目だけになる。
「良いのだ、ノア。お前の身が五体満足であったなら、それで十分だ。ほら、そんな顔をしていないで、こちらを向きなさい。」
促されてゆっくりと顔を上げると、そこにいた兄さんは眉根を寄せてなどいなかった。ただただ、穏やかな笑みを浮かべていた。
「クローディア様とお前を見ていて、いつかは皇室と話し合うことになるだろうとは思っていた。まさか、こんな形で、とは思わなかったがな。だが、気にするな。私は怒ってなどいない。むしろ、お前がクローディア様を連れて出奔してくれたおかげで、非難の矛先が公爵家だけに集中するのを免れた。皇室も神殿も、自らの管理責任を問われ、身動きが取れなくなったのだ。その隙を突き、こちらが握るあらゆる権力と人脈を駆使して、外聞を強引に黙らせてもらったよ。」
権力——。兄さんはその明晰な頭脳をもって、鬼神のごとき恐ろしさで公爵家の全力を振るったのだろう。神殿や各派閥の喉元に刃を突きつけるようにして、異論を唱える者たちの口を一つずつ、黙らせていった光景が想像できた。
「そう、だったのですね……。安心いたしました。俺の身勝手な行動のせいで、ヴァイス公爵家が没落の憂き目に遭うことだけが、何よりも恐ろしかったのです。」
「お前を失ったことは我が家にとって最大の痛手だが、過ぎたことを悔やんでも始まらない。安心するがいい、ノア。お前がいつか再び、このミスティル神皇国の土を踏むことが許される日が来るならば、その時に変わらず『ただいま』と言える帰るべき場所は、この俺が命に代えても守り抜いてみせる。」
「兄さん……。」
その一言が、不安だった心を救い上げてくれた。血の繋がりなど一滴もないこの俺を、一度として邪険に扱うことなく、本物の家族として、時に優しく、時に厳格に育て上げてくれた人。
両親が神に召されて久しい今、兄さん一人にすべての重荷を背負わせて消えることに、罪悪感を抱き続けていた。だが、帰る場所を守るという力強い誓いが、俺の沈んだ心を解きほぐしてくれた。
「それで、ノア。ここへ足を運んだのには、もう一つ確認しておきたい重要な理由があるからだ……。」
兄さんはそれまでの柔和な表情を引き締め、真剣な眼差しで俺を見つめてきた。
「お前は本当に、吸血鬼族なのか?」
「……はい。俺は吸血鬼族です。恐らく両親が異なる亜族として生まれたのは事実なのでしょうが、これまで変化がなく気づけなかっただけで、生まれた頃より吸血鬼族だったようです。」
俺は奥歯を噛み締め、影を落とした顔のまま事実を話した。天族とのハーフではない。その真実を突きつけられた時、高潔な貴族である兄さんが一体どのような拒絶を示すのか、恐怖で胸が震えていた。
「そうか。」
兄さんはただ一言、深く納得したようにそう呟くと、それ以上は言葉を重ねず、沈黙を守った。部屋を満たす静寂の中で、俺は祈るような心地で、彼が次に紡ぐ言葉を待ち受けた。
しばらくの逡巡の後、兄さんは上着の懐へと手を伸ばし、一冊の書物を取り出しながら、静かに唇を開いた。革の表紙が擦れる、乾いた音が響く。
「これは……ヴァイス公爵家の跡取りのみが受け継ぐ本なんだが、これに吸血鬼族についての簡単な歴史について書かれているんだ。魔物が活性化し魔王が復活するとき、吸血鬼族という種族が世界のどこかに出現するとある。各国の上層部やミスティル神皇国でも古い家系やある程度、爵位の高い貴族なら暗黙で受け継がれる事柄なんだ。」
そう言って兄さんは、その重みのある本を俺の方へと差し出してきた。俺は両手でそれを受け取る。指先に触れた革の表紙はひどく乾燥しており、かなりの年月を経て角が丸く擦り切れていた。
そっとページをめくると、特有の古い紙の匂いが鼻腔をくすぐる。しばらくの間部屋の中では、俺が羊皮紙をパラパラと捲る乾いた音だけが静かに響いていた。
だが、記されていた吸血鬼族に関する記述はごく一部に過ぎなかった。かつて、あの禁書庫の奥みつけた古書の方が、その生態や歴史について遥かに詳細に網羅されている。特に目新しい情報は得られなかったため、俺は本を静かに閉じ、再び兄さんの元へと返した。
「……では、兄さんは。吸血鬼族が人の血を啜り、それを糧として生きる種族だということも、既にご存知なのですね。」
俺は己の瞳に微かな揺らぎを宿し、祈るような、それでいて怯えるような心地で兄さんを見つめた。
「ああ、知っている。だが、それがどうしたというのだ、ノア。」
兄さんは俺の不安を見透かしたように、ほんの少しだけ声音のトーンを落とした。
「種族が何であろうと、お前が俺の最愛の弟であるという事実にいささかの揺らぎもない。もし、この私がそんなくだらない理由でお前を突き放すなどと本気で心配していたのなら——俺に殴られる準備をしなさい。」
不器用な冗談を口にしながらも、兄さんは俺の肩を強く引き寄せ、その逞しい腕の中にしっかりと抱きしめてくれた。
仕立ての良い上着から香るなじみ深い匂いと、彼の胸板から伝わる力強い鼓動が、俺の凝り固まった心を芯から溶かしていく。
「いいか、ノア。お前はお前だ。血など関係ない。この私が慈しみ、共に過ごし、誇りを持って育て上げた唯一無二の弟だ。そのことだけは、世界の全てを敵に回しても絶対に忘れるな。」
「……ありがとうございます。俺は兄さんが兄さんで本当によかった。」
兄さんは満足そうに微笑むと、ゆっくりと俺の身体を離し、再び真剣な表情に戻って言葉を紡ぐ。
「ミスティル神皇国において吸血鬼族が出現したという報せは、いずれ皇室の手によって各国へと正式に通達されるはずだ。だが、今回誕生したヴァンパイア・ロードがどのような人物なのか、諸外国の上層部は未だ知る由もない。百年祭と呼ばれる世界会議の開催も、まだ少し先の話だからな。ゆえに、世界がお前という存在に向ける反応は千差万別、まちまちになるだろう。ある者は英雄視するかもしれんが、別の国では忌むべき怪物として嫌悪される可能性も大いにある。殊にお前は、その美しい白髪に真紅の瞳という、嫌でも衆目を集める容姿をしている。事態が落ち着くまでは、どこかで身を隠しているのが無難だろう。」
「それで——」と、兄さんは格子窓の方へと静かな足取りで歩み寄り、外を見つめながら続けた。
「この国からはもう出立するのだろう?それならば、まずは人族の支配する国、ガーノン帝国へ向かうといい。あそこは世界最大の領土を誇るがゆえに、多種多様な種族が雑多に出入りしている。旅の始まりとしては、これ以上ないほどお勧めだ。このミスティル神皇国は、天族のみに門戸を開いた閉鎖的な国だからな。他種族がいたとしても、せいぜい貿易程度でしかない。それから……これはもう早馬を走らせて手配してあるのだが、帝国領のロンベルクという街にいる、アイシスという女性を頼るといい。きっとお前の力になってくれるはずだ。」
「アイシス……?それは、どのようなお知り合いなのですか。」
「密売や裏の流通を専門に生業としている、完全な裏稼業の人間だよ。」
「裏稼業……!?なぜ公爵家を継ぐ兄さんが、そのような危険な人物と繋がりを……?」
思わず問い返した俺に、兄さんは悪戯っぽく口元を緩めた。
「昔、死にかけていたのを気まぐれに助けてやったことがあってな。私に小さくない借りがあるのだ。彼女なら、お前を世間の目から完璧に匿ってくれるだろう。だが、簡単に会える人物でもない。私の親書を持たせた早馬が、現時点でアイシスの元に無事辿り着けているかどうかも五分五分といったところだ。だから、まずはロンベルクの街へと赴き、ノア、お前自身の足で彼女を捜索してもらうことになる。」
「裏稼業の人間は、総じて身を隠す術に長けていますからね。その手の人間に匿ってもらえるのであれば、今のノア様にとってはこれ以上ない隠れ蓑となるでしょう」
それまで部屋の隅に控えていたルクシオが、白菫色の瞳を眼鏡の奥で静かに瞬かせながら、初めて会話に入ってきた。
「ああ、その通りだ。だから迷わず、まずはロンベルクに向かうといい。帝都ほどではないにしろ、商業が極めて盛んで、活気に満ち溢れた大都市だ。」
「分かりました。そこまで俺のために……。貴重な情報を、本当にありがとうございます。」
「それじゃあ、ノア。堅苦しい話はここまでにして俺と呑もう。当分は顔を合わせることも叶わなくなるのだ。可愛い弟とそれくらいの時間を過ごす贅沢は、神も許してくれるはずだ。」
「ええ、もちろんです。今日は朝まで呑み明かしましょう。兄さんはいつも公務でお忙しかったですから、こうして二人きりで杯を交わすのは、考えてみれば初めてかもしれませんね。」
「ルクシオ、確かこの別邸の地下には、古いワインセラーが設えられていたはずだ。一級品の用意を頼めるか?」
兄さんが振り返り、ルクシオへと視線を投げかける。
「かしこまりました。ただちに最上のものを用意いたします。」
「よければ、気にせずクローディア様とお前たちも呑むといい。ここに俺は滅多に来ないから、酒が無くなっても困らないさ。」
「ありがとうございます。」
ルクシオは金縁の丸メガネを指先で押し上げ、隙のない完璧な一礼をして部屋を退出していった。
兄さんが快活に笑い、俺を談話室へと促すように歩み出す。俺の片側の肩には、兄さんの手が乗っていた。これから始まる長く過酷な旅の中で、この温かさだけは絶対に忘れはしないと心に強く誓いながら、俺は兄さんと共に、応接室を後にした。
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