目覚めし者[陸]
毛先から、冷たい水滴がぽたり、と床へ滴り落ちる。
(しまった……。着替えを忘れた……。)
仕方なく、傍らにかけられていた厚手の白いタオルを手に取り、無造作に腰へと巻きつける。水気を拭うため、ふと視線を上げた先にある鏡へと目が留まった。
そこに写り込んでいるのは、見慣れていたはずの公爵家次男の姿ではない。白髪と、暗がりのなかで妖しく光を放つ真紅の瞳、——紛れもない吸血鬼族へと変貌した己自身だった。
「……これが俺か。」
ぽつりと呟いた声が、湿った浴室の壁に虚しく反響する。唇の隙間からのぞく鋭い牙、変色した双眸。もはやかつてのように、陽光の下を平然と歩くことすら容易ではなくなってしまった。
血を啜る化け物に成り果てるのが怖いと、あれほど激しく心を怯えさせていたはずだった。それなのに、気づけば人の首を切り落とす瞬間にすら、胸に何のさざ波も立たなくなっている。
生まれた頃から鏡を見るたびに確認してきたはずの自分が、いつの間にか別の何者かによってじわじわと取って代わられたような、不気味な錯覚に囚われる。
血冥魔法を使用し、己の正体が露見するリスクを冒してでも多くの命を守ろうとした。
大切なクローディアを失いそうになり、人を殺した。
親友であるジキルを処刑から守るため、俺は生まれ育った国すらも切り捨てた。
そのどれもが、誰に強制されたわけでもない、自身が選んだ結末だった。
仮に、吸血鬼族という種族そのものが抗えぬ残虐な性質を宿しているのだとしても、それが俺の免罪符になるわけではない。罪の意識が消えることは決してない。
瞳に宿る、この禍々しい赤と同じ。もう、元の人間に戻れはしない。
魔王と呼ばれる存在が一体誰なのかも、それが真に絶対悪なのかも、今の俺には分からない。ただ、魔物の軍勢を率いて人間を根絶やしにする宿命の元に生まれたという。
もしその伝承が事実なのだとしたら、今の俺の道と、一体何が違うのだろうか。
魔王もまた、自らの意志で生きる道を選択しているのだろうか。
だとしたら、俺が魔王と刃を交える正当な理由など、どこに残されているというのか。
答えの出ない問いに苛まれ始めた時、扉をノックする音が響いた。
「失礼します、ノア様。新しい着替えをお持ちいたしました。」
扉の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れたシヴァの透徹した声だった。
「……入れ。」
俺が短く応じると、ドアノブの回る音がして、シヴァが入室してきた。手元には、丁寧に畳まれた真新しい服が抱えられている。
「さすがだな。ちょうど着替えが無くて困っていたところだ。」
俺は彼女の手から衣服を受け取り、湿り気の残る身体へ素早く袖を通そうとした。
「……ノア様。その、背中の傷……跡になって残ってしまわれたのですね。」
鏡とは反対に位置する扉から入ってきたシヴァの目に入ってしまったのだろう。痛々しく盛り上がった鞭の傷跡を、シヴァは細い指先でそっとなぞりながら、胸を締め付けられるような悲しげな表情を浮かべた。
「……ああ。だが、俺にはこれくらいが丁度いい。……良い戒めになる。」
何に対する戒めなのか、シヴァはそれ以上深くは掘り下げてこない。彼女は俺が言葉にせずとも、常に心に寄り添おうと側に控えている。
俺はふと思い至り、背を向けたまま、静かに問いを投げかけた。
「……シヴァ達はもう『吸血への渇望』は訪れているのか。」
「……はい。」
ごく短い同意の響きの中には、言葉以上に重苦しい意味がいくつも内包されているようだった。
(——これ以上は、深く聞くまい。)
人間の食べ物や飲み物を口にして味を感じることは可能だが、吸血鬼族の芯にある本質的な飢餓感だけは、それでは決して拭い去れない。おそらく、王都からの逃避行の道中、彼女たちが時折ふっと姿を消していたのはそういうことなのだろう。
俺は受け取った黒いシャツのボタンを一つずつ留めていく。身支度がちょうど整ったその瞬間、再び、扉を叩くノックの音が響き渡った。
「——ノア様、来客がございます。」
今度はルクシオの声だった。
(来客だと……? 俺たちがここに身を潜めていることは、誰にも告げていないはずだが……。)
「すぐに行く。ひとまず応接室に通しておいてくれ。」
あのルクシオが即座に敵と見做して排除していない以上、少なくとも今すぐに命を脅かすような危険な人物ではないはずだ。
そう思考を切り替え、それ以上は詮索せずに身なりを整える。そのまま部屋を出ようとしたが、ふと大事なことを思い出し、ドアノブに触れていた右手の動きを止めた。
「……シヴァ、着替えを届けてくれて助かった。」
振り返ってそう声をかけると、シヴァは「いえ、お気になさらず」といつもの丁重な態度を崩さないながらも、嬉しさを隠しきれないように頬を微かに緩めて微笑んだ。
普段の隙のない執事姿からは想像もつかないほど、その表情がとても愛らしく見えてしまい、何故だかこちら側の胸が妙に気恥ずかしくなってくる。
己の動揺を誤魔化すように、俺はコホンと一つ、大袈裟に咳払いを挟んだ。「じゃあ、行ってくる」それだけ告げると、熱の残る部屋を後にした。
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