目覚めし者[伍]
俺たちはエンジェル《天族》の国、『ミスティル神皇国』の領土内、その境界線にほど近い公爵家の別邸へと辿り着いていた。長く使われていなかったのか、室内にはわずかに埃っぽさと、夜の冷気が居座っている。
「もう、ノアったら、降ろして!」
腕の中で、クローディアが身をよじった。だが、俺の胸を押し返してくる彼女の手には、力がこもっていない。本人は精一杯抵抗しているつもりなのだろうが、俺の腕から抜け出す筋力がまだ戻っていないようだ。
「だめだ。まだ身体が本調子じゃないんだろう?俺たちの中に治癒士はいないんだ。大人しくしていてくれ。」
「あれから何週間経ったと思ってるのよ!ずっと私を抱き上げてる必要はないでしょう!?」
真っ直ぐに俺を見上げて抗議してくるが、その呼吸は少し乱れている。それだけで、胸の奥が心配な気持ちで満たされていく。俺は、これ以上彼女の体力を削らないように、かつ、腕の中の確かな温もりを離さないように優しく力を込め直した。そして、心からの本音をそのまま口にする。
「それは俺が離したくないんだ、我慢してくれ。」
本音を隠さずに告げると、クローディアは耳たぶまで赤くしてそっぽを向いた。その様子を見ていたゼノが深い溜息を零す。
「ルクシオ、ノア様もクローディア様もずっとあんな調子だが、止めなくていいのか?」
「ゼノ、よく考えろ。お二人とも今までは身分差に苦しんでいらした。少しくらいはよろしいのでは?」
ルクシオが、いつもの落ち着いた声でゼノを窘めるのが聞こえる。
「なっ……!シ、シヴァならお二人を離せるんじゃないか?」
縋るような視線を向けられたシヴァだったが、彼女は淡々とした口調のまま、どこか楽しげに目を細めただけだった。
「ノア様があれほど幸せそうに笑っているのです。私はこのままでよいかと。ゼノこそノア様を取られて悔しいだけでは。」
「そ、そんな……。分かったよ。……僕は下の寝室で寝ているので何かあれば起こしてください。」
ゼノは、目に見えて肩を落とし、トボトボとした足取りで階段を下っていった。
「シヴァ、我々もジキル様のいる下の談話室にでも行きましょう。長旅でしたから休息は必要です。」
「そうね。」
ルクシオが促し、二人の足音がゆっくりと遠ざかっていく。やがて、パタンと重い扉が閉まる音が聞こえた。
屋敷の一角に残された部屋は、たちまち静けさに包まれる。窓の外から差し込む月光だけが、室内の調度品を薄らと照らしていた。
「ディア、何か飲むか?お腹は空いてないか?」
古びてはいるが仕立ての良いソファに、ゆっくりと彼女を降ろす。
「……大丈夫よ。ありがとう。貴方は?身体に異変はない?」
「問題ない。むしろ完全な吸血鬼族になってから身体がとても調子良いんだ。」
「……瞳、もっと近くで見せて。」
「ああ、分かった。」
クローディアの白く細い手が、俺の頬へと伸びてくる。引き寄せられる力に逆らわず、俺は身を屈めた。彼女の緋色の双眸に、俺の姿が映り込む。
「……これがヴァンパイア・ロードの瞳なのね。とても綺麗な真紅だわ。……吸い込まれてしまいそう。」
「ディアの瞳も綺麗だ。その緋色の瞳に俺はずっと引き込まれていたよ。」
頬に添えられた手を、俺の手のひらで包み込む。折れてしまいそうなほど華奢な手首。長くて美しい指先。その全てが、これ以上ないほど愛おしく感じた。
「ディア、話したいことがあるんだ。」
クローディアの身体から少し距離を取り、俺は床の上に跪いた。
「——ディア、俺は君を愛してる。……どうか俺の妃になってくれないか?」
クローディアは一瞬だけ息を呑んだ。けれどすぐに、驚きに少し開いた唇が、深い歓喜の吐息とともに甘い微笑の形に変わる。
「——まったく、……遅いわ。その言葉をずっと待っていたのよ。貴方が愛してると言ってくれないから、私も『大好き』としか言えなかったじゃない。……ノア、私も貴方を愛しているわ。私を第一妃にしてくれる?」
——第一妃。その響きに、胸が締め付けられる。彼女は覚悟しているのだ。吸血鬼族の宿命を辿ろうとする俺が、この後さらに五人の妃を迎える運命にあることを。
「ディア……。これから先も俺の愛を君に捧げる。辛い宿命が待っているとしても、それでも俺を選んでくれるか?」
「もちろんよ。貴方の隣にいるために、私は国を捨てたのよ。……だけど、そうね。これから先、もっと私を愛して。もっと貴方の全てを私に捧げて。……それが条件よ。」
「ああ、もちろんだ。俺の身も心も、俺の全てが君のものだ。」
クローディアの指先をそっと引き寄せ、大切なものを扱うように、親指で彼女の手の甲を撫でる。ゆっくりと引き寄せながら、その白く滑らかな手の甲に唇を寄せ、口づけを落とした。言葉よりも深く、クローディアを大切に想っているという証を、その口づけに込めて伝えたかった。
彼女が驚いたように肩を揺らす。その反応を見つめながら、俺は顔を上げ、彼女の瞳をじっと見つめ返した。
「心から愛してる、クローディア。」
「……ずるい人ね。私はもう貴方から逃げられないわ。」
そう囁いたクローディアは、悪戯めいた笑みを浮かべると、滑るように俺の首筋へと触れた。慈しむような手つきで肌の熱を確かめた後、彼女のしなやかな指が俺の項をそっと引き寄せる。そして、己のすべてを捧げるかのように、柔らかな唇がしっとりと押し当てられた。耳元で溢れた彼女の甘い吐息が、俺の理性を強烈に揺さぶっていく。
「危険な……口づけだな。」
しばし至近距離で見つめ合い、胸のざわつきを抑え込むように、俺はクローディアへ再び声をかけた。
「……それで、ディアをすぐにヴァレンティスにしなかった理由なんだが、妃となる人を眷属にする儀式は、通常のものとは異なるみたいなんだ。」
「……そうだったの?貴方の血を飲んで呪文を唱えるだけでしょう?」
不思議そうに問いかける彼女を見つめながら、俺は言葉を続ける。
「それが、少しだけ違う。呪文を確かめた時に読んだんだが、俺の身体から直接血を飲むことと、……最後にキスをする必要がある。」
「……そう。だからあの時、私をヴァレンティスにしなかったのね。」
クローディアは納得したように頷いた。あの緊迫した状況下で、これほど重い意味を持つ儀式をするのは躊躇われた。
「ああ。……呪文は覚えてるか?」
「ええ、覚えてるわ。」
「それなら……、大丈夫だな。」
クローディアが頷き、彼女の意思を確認した後、俺は自身の腕に牙を突き立て血を流す。
「……さぁ、飲んで。」
「ええ……。」
クローディアは恐る恐る顔を近づけ、俺の腕に唇を寄せた。溢れる鮮血を啜り始める。俺は小さく深呼吸をし、体内の魔力を練り上げながら呪文を紡いだ。
「かつての生を葬り、我が血の洗礼を受けよ。今より汝は我が愛しき眷属なり。我が魔力を以て、汝の魂を繋ぎ止めん。」
吸血を終えた彼女の両手を優しく握り締め、続きの言葉を促す。彼女の潤んだ瞳が俺を見据え、透き通った声が発せられた。
「これより我は、王の歩む常闇の、永久の影とならん。」
クローディアの顎先に優しく指を添え、その顔を上に向かせる。その表情は見惚れるほど美しく気高かった。俺はそのまま引き寄せられるように、彼女の唇へと自身の唇を重ねた。
紡がれた言霊に応じるように、部屋の床一面から爆発的なエネルギーが噴き上がった。凄まじい熱風が室内を吹き荒れ、二人の身体が不気味な赤黒い業火に包まれる。
———ゴォッ!!
燃え盛る吸血鬼族の力にクローディアは歯を食いしばり、その苦痛に必死で耐えていた。俺は彼女を守るように抱きしめる。やがてその禍々しい炎は、彼女の白皙の肌へと吸い込まれるようにして消滅した。
崩れ落ちそうになった彼女の身体を強く抱き止める。
「よく頑張ったな。……左手の薬指を見てごらん。」
息を整えながら、クローディアは自身の左手に視線を落とした。そこには、肌に直接彫り込まれたような、漆黒の美しい刻印がリング状に浮かび上がっている。
「これが妃の証だよ。これでディアは俺の妃だ。」
彼女の大きな瞳から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出した。
「ど、どうしたんだ?痛かったのか?苦しかったのか?」
慌てて顔を覗き込む俺に、クローディアは首を横に振る。
「……違うわ。嬉しいのよ。貴方と結ばれる日なんて、…一生来ないと……思っていたから。いつか私に婚約者が決まってしまうのが、ずっと怖かった。そうなったら、もう……貴方との日常が無くなってしまうから。でも、……もうそんな心配はしなくていいのね。私は、貴方を愛してると……口にしていいのね。」
「……ディア。」
胸が熱くなり、言葉よりも先に腕に力が入った。これ以上ないほど愛おしい存在を、壊れないように、けれど確実に俺の胸の中へと閉じ込める。
「愛してる、ディア。」
「私も愛してるわ、ノア。」
クローディアの唇に俺の唇をそっと重ねる。
今まで押し殺し、張り裂けそうになりながら我慢していた情熱をすべて解き放つように、何度も、何度も角度を変えながら、お互いの愛情を確かめるようにキスを繰り返す。
「ふっ……んっ、……んぁ。」
彼女の口元から漏れる艶っぽい吐息が、俺の理性を奪い、頭の芯を痺れさせていく。だが体力も戻り切っておらず、ヴァレンティスになったばかりの彼女に無理をさせるわけにはいかない。名残惜しさを感じながらも、俺はゆっくりと彼女の唇から己を離した。
「もう、ノアったら……。普段の気怠げそうな貴方からは想像できないほど情熱的なのね。本当に、立っていられなくなってしまうわ。」
「……すまない。」
羞恥に頬を染めるクローディアを再び軽々と抱き上げ、柔らかなソファの上へと降ろした。それからすぐに贄刻の呪文を唱え、俺の腕に残っていた傷を一瞬で塞ぐ。
「服、血でよごれてしまったわね。……湯浴みしてくる?」
彼女が俺の捲った袖に付着した赤黒いシミを指差す。
「ああ、そうするよ。1人でいられるか?」
「私を何歳だと思ってるのよ。子供じゃないのよ。」
呆れたような声を上げたクローディアから、ぽんとソファーのクッションを投げつけられた。それを片手で受け止める。
「ディアが倒れてから心配で過保護になってしまうんだ。……じゃあ湯浴みに行ってくる。何かあればジキル達に言うんだぞ。」
そう言い残し、部屋を出て階段を下りようとした瞬間、ふと思いついて足を止めた。振り返り、扉の隙間から悪戯っぽく声をかける。
「あっ、ディア。唇の辺りは洗ったほうがいいかもしれない。血がついたままキスをしたから、下の奴らに見られたら、あー、なるほどー……って顔をされると思う。」
茶化すように告げると、今度は凄まじい勢いで二個目のクッションが飛んできた。それをひらりと交わしながら、俺は可笑しさが込み上げてくるのを堪えきれず、声を上げて笑いながら、湯浴み場のある階下へと足を進めた。
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