目覚めし者[参]
ノアが囚われの身となってから、四日間が過ぎ去った。
ノアは怪我をしていないだろうか。まともな食事すら与えられていないのではないか。考えるたびに胸が締め付けられ、身が引き裂かれるような心地がする。張り詰めた私の心は、今にも張り裂けそうだった。
「シヴァ、一体地下牢で何が起きている?私はノアとジキルの一件から完全に遠ざけられてるわ。何ひとつ情報がないまま、ただここで待つだけなんて……もう限界よ。」
胸を占める不安に駆られて問い詰めると、影に潜むように控えていたシヴァが、重苦しい沈黙を纏って頭を下げた。
「クローディア様、申し訳ございません。地下牢の入り口は二重三重の厳重な兵たちで固められており、内部へ侵入する隙がございませんでした。ですが……あの大神官が何度か地下へと出入りしている姿を確認しております。少なくとも、お命までは奪われていないかと。」
「今日、ノアとジキルがこの場所に引き出されるのは、確かなのね?」
「はい。恐らく、この大広間で二人に最終的な審判が下されることになるはずです。」
私は神殿の大広間に呼び集められていた。天井が高く、ひんやりとした空気が満ちる空間。入り口と対向する壁際にあつえられた半円状のひな壇——その中でも、広間全体を見下ろすことのできる最上段の王族席に、私は身を置いている。
背後にはシヴァとゼノとルクシオが控えていた。石造りの厳かな空間には、嵐の前の静けさのような重圧が漂っている。
ノアの身に何かあれば、私は正気ではいられないかもしれない。底知れない不安が心に広がっていくなか、広間の扉が開き、一台の馬車が中央の石畳へと滑り込んできた。
馬車の扉が開く。そこから姿を現したのは、無骨な鉄の手枷を嵌められ、鎖で手荒に引っ張られるノアとジキルの姿だった。
その姿を目にした瞬間、私は息を呑んだ。白かったはずの衣服は背中の部分がボロボロに裂け、血で汚れている。露出した肌には痛々しい生傷が無数に刻まれており、直視することすら躊躇われるほど、無残に痛めつけられていた。
「これは……どういうことなの。処罰も、その量刑すらまだ正式に決まっていないはずよ。尋問だけで、これほどの手荒な真似が許されるなど……。シヴァ、誰がこれほどの暴挙を働いたのか、今すぐ突き止めなさい。」
「はっ!」
シヴァはすぐにその場を後にする。
視線を戻すと、隣に立つゼノとルクシオの様子が目に入った。二人は張り詰めた表情で眼下の光景を見つめ、細密な彫刻が施された石製の手すりを、今にも叩き割らんばかりの力で握りしめている。ギリギリと軋むような音が聞こえそうなほどだ。
その眼光には、大切な主を傷つけた者たちへの、決して消えることのない苛烈な怒りの炎が燃え盛っていた。
ノアとジキルが冷たい石の床へ、無理やり膝をつかされたのとほぼ同時に、シヴァが背後の闇から滑り込むように戻ってきた。
「クローディア様。どうやら……あの大神官の命令により、兵士たちが酷い鞭打ちを行ったようです。」
「あの大神官が……。」
脳裏に浮かぶのは、あの肥大化した自己愛と、底なしの私欲に塗れた人間のクズの顔。あいつが、私の大切なノアにあんな傷を刻みつけたというの……?
「何があろうと、今日この場がどんな結末を迎えようと……あの男だけは、絶対に許さないわ……!」
怒りで震える拳を握りしめる。
周囲を見渡せば、左右のひな壇には名だたる諸侯や有力貴族たちが、物珍しそうな、あるいは冷淡な視線を中央の二人へと注いでいた。空間が異様な熱気と好奇心で満たされたその時、広間全体に一人の男の声が響き渡った。
「女王陛下並びに、王配殿下の御成です。」
王族席のさらに後方。豪奢な刺繍が施された厚手の垂れ幕が左右に開き、私の母である女王と、父である王配が姿を現した。
女王陛下と王配殿下が玉座へと着席すると、待ってましたとばかりに、大神官が傲慢な口を開いた。
「女王陛下、並びに王配殿下。本日こうしてお目にかかることができ、一同、大変光栄に存じます。本日、陛下と殿下にお越しいただきましたのは、先日の魔物による王都襲撃事件の際、不審な魔法を行使した公爵家次男ノア・ヴァイス、並びに伯爵家嫡男ジキル・ルンペストの量刑を厳裁いたすためでございます。」
大広間の高い天井に、大神官のねっとりとした声が反響する。その物言いは慇懃無礼で、己の権勢を誇示するような厭らしさに満ちていた。
「事件のあらましは聞き及んでいる。……詳細を述べよ。」
母である女王が、威厳を湛えた声で遮る。その一言で、広間の空気は一段と張り詰めた。
大神官は我が意を得たりと頷き、事件の詳細を並べ立てた。ジキルによって禁断魔法が行使され、結果として味方に多くの被害が出たこと。そして、それを相殺するためにノアが血冥魔法を唱えたことで、絶滅したはずのヴァンパイア《吸血鬼族》である可能性が浮上したこと。何より、両者ともに魔法の出所や詳細を頑なに秘匿していること
——それらが、誇張を交えて報告されていく。
「ではまず、公爵家次男ノア・ヴァイスに問う。ヴァンパイア《吸血鬼族》は既に絶滅しており、その存在すら今や忘れ去られておる。よほど高位の者でなければ知り得ぬ事実なるに、そなたはどこでそれを知ったのだ? ……己がヴァンパイア《吸血鬼族》と自覚せぬ限り、血冥魔法など扱えるはずもあるまい。」
「……。」
女王の眼光がノアを射抜く。その的確な追及に、ノアは一瞬、どう応じるべきか値踏みするように視線を揺らした。
重苦しい数分の沈黙が広間を支配する。誰もが息を呑んで見守る中、ノアはあの禁書庫の存在を隠し通すべく、唇を開いた。
「……肉体の変異に伴い、私に天啓がもたらされたのでございます。その折、己がヴァンパイア《吸血鬼族》であると悟りました。血冥魔法は、その血の宿命を理解すると同時に、自然と我が身に発現したものにございます。」
ノアは淡々と答えた。
「ふむ。その血冥魔法を以て、味方を大勢救ったと聞き及んでおる。本来ならば賞賛されるべき功績。……なれど、己がヴァンパイア《吸血鬼族》であると認めた以上、我が国におけるその種族の処遇については、改めて審議せねばなるまい。よって、ノア・ヴァイス、そなたの処遇は追って審議する。沙汰があるまで大人しく待たれよ。」
ひとまずノアの即時処刑が免れたことに、私は胸の内で小さく安堵の息を漏らした。だが、続く母の言葉に、その安らぎは瞬時に吹き飛ぶことになる。
「……次は、伯爵家嫡男ジキル・ルンペスト。そなたに問う。禁断の魔法を唱えて敵を殲滅せしめた一方、味方をも巻き込み多くの被害を出したと聞く。——これに、相違ないか?」
「……はい。女王陛下の仰せの通り、相違ございません。」
ジキルは力なく首を垂れた。その服の破れ目からは、未だに赤黒い血が滲んでいる。
「いくら敵を殲滅するためとはいえ、我が国民を巻き添えにしたのは重罪である。まして、その禁断魔法の出所を頑なに秘匿し、禁忌を侵してそれを行使した罪、到底許されるものではない。よって、伯爵家嫡男ジキル・ルンペスト。そなたに死罪を申し渡す。」
「そんな……!死刑だなんて、重すぎるわ!」
耳を疑うようなあまりに無慈悲な判決に、私は思わず立ち上がり、ひな壇の上から母を凝視した。女王はチラリと一瞬だけ私に視線をくれたものの、その厳格な表情は微塵も揺るがず、判決を覆す気はないと全身で示していた。
「……左様であれば、女王陛下。私はこれよりジキルを連れ、この国を去らせていただきます。」
その時、ずっと床に伏していたノアが、ゆっくりと顔を上げた。
「……そのような身勝手、この余が許すと思うてか。」
母の眉が不快げに跳ね上がる。すかさず、大神官がまくしたてるように追従した。
「女王陛下の仰せの通りにございます! この大神官たる私めも、奴の不遜な申し出、断じて認められませぬ。……陛下、ヴァンパイア《吸血鬼族》が復活せし時、魔物の力は増大し、魔王が復活すると古来より伝わっております。これ以上の災厄を招かぬためにも、元凶たるノア・ヴァイスもまた、この場で即刻、処刑なされるべきかと進言いたします!」
「ノアを処刑ですって!?あの能無し大神官、私に殺されたいのかしら……。」
身体の中で熱い衝動が湧き出て、怒りに我を忘れそうになるのを、私は手すりを掴む手に力を込めて辛うじて堪えた。
「……ノア・ヴァイスよ。国家を敵に回し、本当にこの国を出られると考えておるのか?」
「さぁ、どうでしょうか。ただジキルの判決を覆さないのであれば、私はこの国の敵となりましょう。」
ノアが……女王に対して明確に宣戦布告をした。広間に集まった貴族たちの間で、引きつったような囁き声が広がっていく。
「……衛兵! ノア・ヴァイスとジキル・ルンペストを即刻捕縛し、牢へ連行せよ!」
母の怒号を合図に、漆黒の甲冑に身を包んだ複数の衛兵が、一斉にノアとジキルへ向かって突撃する。
「……魔封じの手枷をしているからと油断してはいないか?こんなもの……。」
ノアは不敵な笑みを浮かべると、言葉の終わりを待たずに、両腕に嵌められた無骨な手枷に力を込めた。
——バキィン!!
鼓膜を突き刺すような、甲高い金属の破壊音が大広間に鳴り響く。粉々に砕け散った手枷の破片が、硬い石畳の上をカランカランと虚しく転がった。
一瞬の静寂の後、ノアは悠然と周囲を見渡した。
「誰も動くな。今これより俺に近づく者は皆、敵とみなす。」
その圧倒的な威圧感を孕んだ言葉に、広間は一気に大混乱に陥った。距離を取り、隙を伺いながら衛兵をけしかけようと怒鳴る将校。我先にと出口へ逃げる道を模索し始める臆病な貴族たち。いきなりの現実離れした出来事に、ただ呆然と立ち尽くす者。
格式高かったはずの神殿は、瞬時に見苦しい混沌の坩堝へと変貌していく。
「ジキル、手を出せ。痛かったら言え。」
ノアは慌てる様子もなく、細い指先から陽炎のような高熱の炎を噴出させると、ジキルの手枷を鮮やかに焼き切った。
「大丈夫です。ありがとうございます!……ですが、これからどうするのですか?何か策はあるのですか?」
「一つだけな。ただここだけは強行突破をする必要があるから覚悟してくれ。」
「かしこまりました。」
ジキルは痛む身体を圧して、ノアへの絶対的な信頼を込めて一礼した。
「シヴァ、ゼノ、ルクシオ。すまない、国を出ることになった。」
その名前が呼ばれた瞬間、私の背後にいた三人の影が、一切の躊躇なく高台から躍り出た。しなやかな身のこなしで広間の石畳へと着地すると、迷わずノアの前へと膝を突き、深く頭を垂れる。
「ノア様の行く所が私の行く所でございます。」
「ノア様のお側にいられるなら国など瑣末なものです。」
「問題ございません。想定の範囲内でございます。」
シヴァ、ゼノ、ルクシオが、それぞれの忠誠を口にする。彼らにとって、国家の法などノアの意志の前には何の価値もないのだ。
「じゃあ、その辺の衛兵を頼む。迎えに行くべき人がいるんだ。」
「「「仰せのままに。」」」
三人の息の合った返答を背に、ノアは凄まじい脚力で跳躍した。風を切り裂き、私の目の前——王族席の狭いバルコニーへと、ふわりと着地する。
「……置いて行かれるのかと思ったわ。」
私は込み上げる熱い感情を抑えきれず、少しだけ悲しげな声が溢れた。
「言っただろう。置いて行かないと。」
ノアは柔らかく微笑み、それから真剣な眼差しで、私の顔をじっと覗き込んできた。
「……国を捨てる覚悟はできてるか?」
「ええ、平気よ。私の大切な人たちに死刑を宣告するような国なんて、私から願い下げだわ。何より——私は、貴方といたいのもの。」
「そうか。それなら……。」
ノアは満足そうに微笑むと、私の身体を軽々と横抱きにした。ドレスの柔らかな生地が擦れる音と共に、浮遊感が私を包む。そのままノアは躊躇なく、再び喧騒の広間へと飛び降りた。
地へと降り立つと、そこはすでに三人の無双によって、圧倒的にこちらが優勢な戦況となっていた。衛兵たちの武器が砕け散り、悲鳴が響いている。
「クローディア! 何たる不謹慎な真似を! 早くこちらへ戻らぬか!」
玉座の壇上から、母の金切り声が響く。その顔は怒りで屈辱的に歪んでいた。
私はノアの腕からそっと降り、冷淡に、しかし淑女としての気品を崩さずに母を見据えた。
「本日をもちまして、私は皇位継承権を放棄いたします。どうか、私のことはお忘れおきくださいませ。」
真っ直ぐに女王を見つめたまま、私は片足をそっと後ろに引いた。滑らかな手つきでドレスの裾を左右に広げ、気品を保ったまま深く膝を折る。
皇族として、これ以上ないほど洗練された完璧なカーテシー。それが、私が女王へ捧げる最後の忠誠であり、決別の儀礼だった。
「……衛兵!何をしている!その者たちの身柄を拘束しなさい!」
怒り狂う母の命令に、一人の将校が青ざめた顔で冷や汗を流しながら、膝をついて必死に弁明する。
「お、お言葉ですが陛下……! それがどなたか御一人ならばいざ知らず、ノア殿、シヴァ殿、ゼノ殿、ルクシオ殿、ジキル殿は、この国でも随一の武勇を誇る面々。そこにクローディア様まで加わったとなれば、現在の兵力では捕縛どころか、その場に留め置くことすら不可能にございます……!」
「……くっ……!よろしい、行きなさいクローディア。その化物たちを引き連れて、私の目の前から消え失せるがいい。ただし、二度とこの国の土を踏めると思うな。次に出会ったときは、我が国の全軍をもって貴様たちを逆賊として討伐する!」
「はい、さようなら。お母様。」
今まで育ててもらった恩も思い出もある。それでもノアと離れることなど私には考えられない。
私は毅然と言い放ち、踵を返した。もう、この場所に未練など一欠片もない。
「ここの突破は容易な様です。」
容赦なく迫る衛兵の手斧を軽くいなしながら、ゼノがいつも通りの甘やかな笑みを浮かべて報告する。
「あ、でも待って。私一つ忘れ物をしたわ。」
歩みを止め、私はゆっくりと振り返った。視線の先には、腰を抜かして床にへたり込んでいる大神官の醜い姿がある。あの男の、肥大化した欲望のせいで、ノアがどれほど苦痛に満ちた四日間を過ごしたか。それを思えば、ただ去るなど生温い。
私はマジックボックスから杖を取り出す。
取り出した杖は圧倒的な光を放つ神聖な権杖であった。頭部には黄金の円環がそびえ、その左右からは神々しい金色の翼が開かれている。
最も目を引く場所には、まるで主の魂を映したかのような、血のように赤く、妖しく脈打つ大粒のルビーが鎮座していた。
杖が微かに動くたび、頭部から垂れ下がった金糸入りの深紅のリボンが虚空を舞い、星屑のような金の細鎖がチリンと繊細な音を立ててきらめく。
その杖を天へと掲げ、体内の魔力を一気に練り上げた。
「——疾る迅雷よ、唸りを制し、閃光の鞭となれ。『フルメン・フラゲラム』!」
パチパチと空気を爆ぜさせながら、何条ものまばゆい雷光の鞭が生じる。それは私の意志に従い、悲鳴を上げる大神官の身体へと容赦なく猛烈に打ち据えられた。
「ぐわぁぁっ!」
激しい電撃が走り、男の贅肉に塗れた身体に、見るも無残な火傷の鞭痕が幾筋も刻まれていく。肉の焦げる嫌な臭いが大気に混ざった。
「ノアを傷つけるなんて、万死に値するわ。命があるだけ、私に感謝してほしいくらいよ。」
冷たく言い捨て、私は今度こそ完全に背を向けた。愛しいノアの元へと、ドレスの裾を翻して駆け寄ろうとする。
しかし、その油断が命取りだった。
「おのれぇぇ……っ!」
背後から、獣のような怨嗟の呻きが聞こえた。痛みに耐えかねて狂乱した大神官が、傷だらけの体で這いつくばったまま、右手に握っていた儀礼用の杖を突き出していた。細工の施された、尖った金属の先端が、私の無防備な背中へと容赦なく突き立てられる。
「きゃぁぁぁぁ!」
背後から凄まじい衝撃と、焼き付くような激痛が突き抜けた。
「クローディアーーっ!!」
視界の端で、ノアが絶望に染まった顔で私の名を叫び、手を伸ばすのが見えた。
あまりに深く突き刺さった杖の先端が、私の胸元から赤黒く突き出ているのが、他人事のように視界に入る。自分の身体を、冷たい金属が貫いているのだ。
口内から熱い鉄の味が溢れ出し、唇を伝って床へと滴り落ちる。
「大丈夫よ」と笑って、ノアを安心させてあげたいのに。喉が引き攣って、まともな声すら出せない。
急速に体温が奪われ、あまりの激痛に思考が溶けてゆく。
ノア……ノア……私を、置いて行かないで。
視界が急速に狭まり、暗闇が押し寄せてくる。伸ばされたノアの手へと届く前に、私の意識は途絶えた。
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