目覚めし者[弐]
ジャラリ、と鈍い金属音が響き渡る。両手首に嵌められた鉄枷は、重量があり、皮膚に食い込んでいた。壁の奥深くに埋め込まれた頑強な鎖は、俺が呼吸のために胸を上下させるたび、錆びた音を立てて身動きを縛る。
冷たい石の壁に背中を預け、鉄格子の外を眺める。壁の松明が橙色の火花を散らし、湿った通路を不気味に照らし出していたが、その光は俺たちのいる檻の奥までは届かない。窓ひとつない地下牢。煤と錆の混じった澱んだ空気に気が滅入りそうになる。
あれから俺達は二日間、牢に閉じ留められていた。ずっと同じ体勢で同じ景色を見ていると時間の感覚すら危うくなる。最低限の水と食料が一日に一度、無造作に差し入れられる。それだけが、かろうじて俺に日数の経過を教えてくれる指標だった。
「おい、ジキル……生きてるか。」
喉の奥から絞り出すようにして、隣の牢に向かって呼びかける。すぐに、壁の向こうから同じような鎖の擦れる重い音が響いた。
「はい、この程度なら問題ありません。むしろ何もないのが怖いくらいです。」
ジキルの声は疲弊していたが、その芯にはまだ余力が残っていた。
——確かにそうだ。捕らえられた直後は、すぐにでも尋問にかけられると覚悟していた。だが、二日間もの空白。量刑や処遇について、上層部での話し合いが長引いているのだろうか。鎖に繋がれているだけで、なんの音沙汰もない。それがまた不安を煽る。
その時、ガシャン、と遠くで重たい鉄扉が開閉する音が聞こえた。ジャリ、ジャリ、と砂礫を含んだ石床を歩く足音がこちらへ近づいてくる。そして、俺の牢の前で、その足音がぴたりと止まった。
格子の向こうに姿を現したのは、純白の法衣を身にまとった男。この国の神殿の最高位、大神官だった。
「これはこれは、ノア・ヴァイス殿。社交界には滅多に姿を表さず、表舞台を避けているものの、武と知と美を兼ね備えていると讃えられている方ではありませんか。噂では、あの美しく聡明な第三皇女殿下の心も射止めているとか。そんな栄えある方が、何故このような薄汚い場所に繋がれているのでしょうな?」
衣服の絹が擦れる音。その下にあるのは、信者からの寄付金や利権を限界まで貪り食ったであろう肥満体だ。ねっとりとした視線、歪んだ唇から漏れる下卑た笑い。血筋と、各地の優秀な部下たちが上げる成果にただ乗っかっているだけの堕落者。俺は、骨の髄からこいつが嫌いだ。
「噂は噂に過ぎません。優秀な師や部下に恵まれた、ただの偶然の産物です。第三皇女殿下とも友人として親しくさせていただいているに過ぎません。私自身はまだ至らぬことも多く、大神官様からお褒めにあずかるほどの器ではございませんよ。」
ここで感情に任せて吠えたり、弱みを見せたりすれば、即座に付け入る隙を与えることになる。俺は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込み、貼り付いたような作り笑いを浮かべてみせた。
「ふむ、やはり一筋縄ではいかない方のようだ。ですが、その余裕に満ちた態度がどこまで続くか……。本日、私がわざわざこのような場所に足を運んだのは、貴方、そして隣のジキル・ルンペスト殿に質問をするためです。どうか、正直に答えていただけるようお願いいたしますよ?」
大神官は薄気味悪い笑みを浮かべた。細められた肉厚な瞼の奥にある目は、一滴の慈悲も宿していない。これは、拷問を愉しもうとする人間の顔だ。ただの言葉のやり取りで終わるはずはないだろう。
「おい、お前ら用意しろ。」
「「はっ!」」
大神官の淡々とした合図に、背後に控えていた二人の兵士が応じる。鍵束がジャラジャラと鳴り、牢屋の重い錠前が外された。
中に入ってきた兵士たちは、俺とジキル、それぞれの鎖を一度壁の金具から外す。抵抗する隙も与えぬ力任せな動作で体を反転させられ、再び壁に向かって固定された。
視界から大神官の姿が消え、目の前には冷たい石壁だけが迫る。背後で、何かが引き絞られるような不穏な音が聞こえた。
「さて、それではまず一つ目の質問です。ジキル・ルンペスト殿。貴方が先日行使した魔法は、神殿の調査により『禁断の魔法』であると判明しております。……その魔法を、一体どこで修得したのですか?」
ジキルが荒い呼吸を整え、精一杯の拒絶を込めて言葉を紡ぐ。
「……憎悪に支配されていたら、頭に、浮かんできたのです。」
「……やれ。」
大神官の、温度を完全に失った声。
刹那、パァン!と空気を激しく切り裂く衝撃音が地下牢に炸裂した。同時に、肉に食い込んだ繊維が千切れる鈍い音が響く。
「ぐあっ。」
ジキルの痛みを堪えきれずに漏れた声が、壁を伝って俺の耳を刺した。俺の掌が、悔しさで自然と硬く握りしめられる。
「もう一度お聞きします。禁断の魔法はどこで?」
「ですから……脳裏、に……っ。」
再び、容赦のない鞭の音が響き、ジキルの苦悶の声が地下牢の湿った空気を震わせる。乾いた衝撃音と、肉が裂ける生々しい音が何度も、何度も繰り返された。俺の爪が掌に深く食い込み、怒りで全身の血が沸騰しそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に堪えていた。
「正直にと、あれほどお願いしているのですが……。本当に強情な方だ。」
大神官は退屈そうに、吐き捨てた。足音が数歩分、俺の背後へと近づいてくる。
「仕方がありませんね。では、二つ目の質問です。ノア・ヴァイス殿。貴方はジキル殿の禁断の魔法から皆を救うため、『血冥魔法』を唱えられましたね?現場の報告によれば、真紅の膜が円形状に広がるような、禍々しくも圧倒的な魔法だったとか。……何故、公爵家の次男である貴方が、そのような魔法を扱えるのですか?」
この質問にだけは、何があっても正直に答えるわけにはいかなかった。クローディアが神殿の禁書庫から鍵を盗み出し、俺に手を貸してくれたこと。そしてその結果、俺が吸血鬼族であると知ったこと。それを一言でも漏らせば、皇女である彼女にまで神罰という名の刃が及ぶ。俺のこの命に代えても、彼女を巻き込むわけにはいかない。
「……咄嗟のことで、混乱しており、よく覚えていないのです。」
「貴方もですか……。まったく、判で押したような言い訳だ。仕方ない、やれ。」
命令と同時に、背後に激痛が走った。皮膚が裂け、熱い鉄を押し付けられたような痛みが神経を駆け抜ける。
「ぐっ……っ!」
思わず呻き声が漏れる。両手の鎖がジャラリと激しく鳴った。
「貴方はあの場にいた騎士や冒険者たちをも守って見せました。神殿としても、できればこのような手荒な真似はしたくないのです。どうか正直にお答えください。……貴方は、吸血鬼族なのですか?」
心臓がドクン、と大きく跳ね上がった。核心、そのものだった。ここで肯定すれば、俺という存在だけでなく、ヴァイス公爵家そのものが破滅するかもしれない。
「……吸血鬼族とは、一体……なんのことでしょうか……っ?」
痛みに耐える声を必死に作り笑いへと変え、尋ね返す。
「……やれ。」
容赦のない二撃目、三撃目が、俺の背中に食い込んだ。ピシ、ピシと、服の生地が裂け、傷口から溢れ出た熱い液体が背中を伝って滑り落ちていくのが分かる。
「他にもこのことについて詳細を知っている者はいますか?」
「……ですから、なんのことか……分かりかねます……っ。」
その後も、執拗な質問と、肉を打つ激しい音が地下牢を支配し続けた。だが、どれほど肌が裂け、血が流れようとも、俺もジキルも、奴らが望む『真実』を何一つとして口にはしなかった。
「はぁ……手のかかる方々ですね。」
やがて、大神官の心底嫌気がさしたような溜め息が聞こえてきた。
「正直に話していただけず、実に残念です。本日はここまでにいたしましょう。……ですが、これで終わりだなどと思わぬように。神殿の慈悲にも、限度というものがありますからな。」
念を押すような脅迫めいた言葉を最後に、足音は遠ざかっていった。兵士たちによって、俺とジキルは再び乱暴に向きを変えられ、鉄格子の扉が重々しく閉まる。鍵がかけられ、彼らの気配が完全に地下牢から消え去った。
静寂が戻る。微かに聞こえるのは、俺たちの荒い呼吸音と、床に滴る血の音だけだ。
「ジキル、意識はあるか。」
「はい、なんとか……。」
「今は向こうも……何の手がかりも掴めず、俺達をどう処分すべきか、悩んでいるはずだ。それが分かるまでは……耐えてくれ。」
「はい……これくらいのこと、お気になさらず。元はと言えば、私自身のしでかした事が原因……ですから。それよりも……ノア様、お体は大丈夫ですか?」
ジキルの声には、自分より俺を気遣う痛々しい思いが混じっていた。ジキルにこれ以上、余計な心配をかけたくはない。
「全く問題ない、とは……さすがに言えないが。だが、このくらいなら大丈夫だ。」
俺は痛みを喉の奥で噛み砕き、軽い調子で返す。
しかし正直なところ、この尋問が何日も続くのは致命的だ。鞭による肉体的な痛みなど、耐え抜けばいい。
問題は、流血による衰弱と、『吸血』を行えない時間が長引くことだ。血の渇きが限界を超えれば、自我を失ってしまう可能性がある。そうなれば、自分が吸血鬼族であると周囲に証明するようなものだ。
ジキルは、まだ吸血鬼族になってから間もない。『吸血への渇望』にはまだ遠いだろう。
だが、最悪の結末を迎える前に、何としてもここを抜け出すか、事態を動かさなければならない。
「早く、俺達の処遇が分かればいいが……。」
小声で、誰に届くともない呟きを漏らす。
今の神殿の動きを見る限り、状況が決して良い方向には転がらないことだけは確かだ。俺は再び訪れた底知れない闇と静寂に身を浸しながら、自らの血の渇きを必死に抑え込み、次への戦略に向けて静かに思考を巡らせていった。
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