失いしもの[捌]
服を着替えて自室に戻ると、クローディアがソファに座って俺を待っていた。気配を察した彼女は慌てて立ち上がり、小走りで歩み寄ってくる。
「ノア!部屋に来たらいなくて驚いたわ!……湯浴みをしていたの?」
「ああ。汚れたままでは、ディアに会ってもらえないかもしれないだろう?」
口元の笑みを片手で隠し、揶揄うように言う。クローディアは「まったく」と呆れたような顔を見せた後、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「そんな酷いこと言わないわよ。友達のために戦って帰ってきたのだから、たとえ汚れていたって気にしないわ。」
「そうか、ありがとう。……ひとまず、座って話そう。」
差し出された彼女の手を取り、ソファへと促す。クローディアが座るのを見届けてから、俺はその隣に腰掛けた。途端に、彼女の表情から笑みが消え、翳りが差す。
「……ルクシオ先生とゼノ先生に聞いたわ。ジキルの家族のこと、魔法のこと、そして二人とも死にかけたことも。…………やっぱり、私も行くべきだったわ。私がいれば、何かできたかもしれないのに。」
「皇女殿下をあんな危険な場所へ連れて行って、万が一にも怪我をさせてしまったら、それこそ俺は死刑になってしまうよ。……ディアには安全な場所にいてほしい。これは俺の我が儘だ。」
不安に揺れる瞳を見ていられず、クローディアの頬にかかった髪をそっと耳に掛けた。そのまま、彼女の小さな手の上に自分の手を重ねる。
「……私、こう見えて結構強いのよ?」
「知ってる。」
「五大元素すべてを扱える魔法使いなのよ?」
「知ってる。」
「……きっと、貴方の役に立てるわ。」
「ああ、そうだろうな。」
「……それでも、ここで待っていろと言うの? 貴方が死にかけたなんて話を後から聞かされるくらいなら、そうならないように、隣で一緒に戦いたいわ……。」
クローディアは俯き、切なげに眉をひそめた。その表情を見た瞬間、胸の奥が痛む。こんな顔をさせてしまっている申し訳なさ。それでも絶対に危険な目に遭わせたくないという思い。彼女の歯痒い思いも痛いほど伝わってくるからこそ、慰めの言葉すら簡単には口に出せない。
重苦しい沈黙を払拭するため、俺はソファから下りてその場に跪いた。わざとらしく、大袈裟な騎士の礼を取る。
「皇女殿下。貴女様のような尊き御方が戦場に赴くなど、断じてあってはならないことです! どうか、どうか城にお留まりください!」
「もう! 私は真剣に怒っているのよ!」
クローディアは頬を膨らませて怒ってみせるが、俺のふざけた態度に耐えかねたのか、すぐに堪えきれずに吹き出した。
「……私、皇女なんて地位、いらないわ。」
「……なぜ? 皇国中の女性が憧れる身分だろう。」
俺はソファに座り直し、深く背もたれに体を預けた。
「皇国中の憧れでいることよりも、たった一人、愛する人の隣にいられる女でありたいの。」
クローディアが俺の肩にもたれかかってくる。本来の身分を考えれば決して許されない距離だが、今、この部屋には二人しかいない。
「それは……とても幸せな夢だな。」
ここ天族の国は神皇国であり、女王が統べる地だ。すなわち、第三皇女であるクローディアは、高位の王位継承権を持つ身。将来の伴侶を己の意思で選ぶことなど、許されるはずがない。
「……たくさんの人を守るために、死にかけたのでしょう?」
「ああ、だが守りきれなかった者もいる……。」
「貴方はいつも素っ気ないふりをして、本当は誰よりも優しい人だわ。……けれど、死にかけるまで自分を追い詰めるのは、今回を最後にして。……これは本気よ。約束して。」
縋るような、けれど強い意志を秘めた彼女の眼差しが、俺の心を貫く。
「——ディアを守るためであっても?」
「ええ、そうよ。私のためになんか、絶対に死なないで。」
「それなら……約束はできないな。」
「もう! 約束してって言っているの! ちゃんと人の話を聞いて!」
クローディアがもどかしそうに、俺の胸を両手で優しくドンと叩いた。その腕を同じように優しく掴んで動きを止め、そのまま引き寄せて強く抱きしめる。
「……聞いているよ。ちゃんと聞いているからこそ、約束はできない。俺はディアを守れるなら、この命を差し出したって構わない。」
「……本当に、貴方は残酷な人ね。そんなことを耳元で言われたら、これ以上怒れなくなってしまうじゃない……。」
しばらくの間、静寂の中で互いのぬくもりを確かめ合った。やがて名残惜しさを覚えながらも腕の力を緩め、お互いに元の位置へと座り直す。すると、クローディアが表情を引き締め、声を潜めて切り出した。
「血冥魔法を使ったところを、多くの人に見られてしまったのでしょう?」
「ああ。おそらく、誤魔化しは効かないだろう。」
「ジキルも、禁断魔法を使ってしまったのよね?」
「ああ。いくら敵を殲滅するためだったとはいえ、お咎めなしとはいかないだろうな。」
「今後、どうなってしまうかしら……。」
「……分からない。だけど、できる限りの手は尽くすつもりだ。俺自身がどうなるかは、吸血鬼族だと周囲に露見したかどうかによるが……何があっても、ジキルを傷つけさせはしない。」
「それは、どうやって——。」
これ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。俺は自身の口元に人差し指を当て、「しー」と言葉を遮る動作をした。
「聞かないでくれ、ディア。君は皇女殿下だ。これ以上は何も耳に入れてはならない。」
「……分かったわ。」
クローディアは一瞬だけ躊躇うような沈黙を挟んだ後、頷いた。
「……さあ、もう夜も更けた。部屋まで送るよ。」
立ち上がり、エスコートするために手を差し出す。だが、クローディアはその手を取ろうとせず、顔を横に背けた。
「……貴方の寝室で眠りたいわ。」
「……この間泊まったとき、ベッドの寝心地が気に入ったのか? それなら、俺が別の部屋で寝るから使ってくれ。」
俺は「おやすみ」と言い残し、ドアの方へ歩き出そうとした。しかし、背後から伸びてきたクローディアの手が、俺の手首をきゅっと掴んで引き留める。
「ノア。私は、貴方と一緒に眠りたいの。」
「……。」
あまりに真っ直ぐな言葉に、どうやって彼女を説得すべきか迷い、言葉が詰まる。
答えに窮する俺を見て、クローディアはふっと手を離すと、今度は自分からドアへと向かった。その後ろ姿を呆然と見つめていると、カチャリ、と静かに鍵を閉める音が室内に響く。
「……これで言い訳はできないでしょう? 明日の朝、誰にも見つからないようにこっそり客室に戻るわ。」
振り返った彼女の唇に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。けれど、その姿はどこか妖艶で、強く拒絶する言葉など思いつくはずもなかった。
「……今夜だけだぞ。」
抗いきれず、ため息混じりに承諾する。すると、クローディアはさらにその隙を突いてきた。
「ノア、私を抱き抱えてベッドまで連れて行って。」
いつの間にか至近距離まで迫っていた彼女が、俺の首に腕を回してくる。
「……煽りすぎだ、クローディア。離れろ。」
これ以上は危険だと本能が告げ、距離を取ろうとする。しかし彼女はそれを許さず、さらに身体を密着させ、耳元で甘く囁いた。
「皇女命令よ。私を寝室に連れて行きなさい。」
完全に、降参だった。これ以上抗う力など、どこにも残っていない。
「……かしこまりました。仰せのままに、皇女殿下。」
俺は彼女の身体を軽々と横抱きにし、寝室のドアを開けた。そのままベッドの傍らへと進み、シーツの上にふわりとクローディアを降ろす。
「ふふ、ありがとう。」
クローディアが満足そうに、とても嬉しそうに笑った。
「他に何かご要望はございますか? 皇女殿下。」
「隣にきて、私を抱きしめて。」
「それは恐れ多いことです。私めは床で十分でございます。」
調子に乗って芝居を続け、そのまま床に寝転がろうとすると、クローディアがシーツから身を乗り出し、俺の服の袖を力任せに引っ張った。
不意を突かれ、体勢を崩したまま引き寄せられたせいで、結果的に俺がクローディアをベッドに押し倒すような形になってしまう。
「ディア、悪戯がすぎるぞ。」
至近距離で見つめ合う形になり、俺は彼女の頬にそっと触れながら、これ以上は駄目だと窘めるように声を落とした。
「……じゃあ腕枕だけ。それなら健全でしょう?」
「はぁ……分かった。本当に腕枕だけだからな。」
諦めてベッドに横たわり、ディアの方へと腕を伸ばす。彼女をそっと胸元に引き寄せ、上からブランケットを掛けた。
「寒くないか?」
「ええ、平気よ。貴方がいるから、とっても暖かいわ。」
俺の胸元に顔を埋め、幸せそうに微笑むディアが、愛おしくてたまらなくなる。
「……これは、二人だけの『秘密』だぞ。」
「ええ、そうね。誰にも言えない、二人の『秘密』。」
「……ディアも今日は疲れただろう。もう眠るといい。」
「貴方もね、ノア。もしどこか具合が悪くなったら、すぐに言うのよ?」
「ああ、おやすみ、ディア。」
「おやすみなさい、ノア。」
互いの体温を分け合うように抱き合いながら、俺たちは深い眠りへと落ちていった。
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