失いしもの[漆]
公爵邸へと到着し、俺はゼノ先生の肩を借りて引きずられるように自室へと入った。公爵邸へ着く頃にはすでに夜も更け、周囲は深い静寂に包まれている。
ジキルにはあらかじめ用意させておいた客室で、無事だった父親や弟と過ごすよう伝えた。同時に公爵家の侍医を呼び寄せ、すぐにジキルの容体を診るよう指示を出しておく。
今、俺の自室にはルクシオ先生とゼノ先生、そしてシヴァが控えていた。おそらく、俺たちの帰還を耳にすれば、そう遠くないうちにディアもこの部屋へ駆けつけてくるだろう。
先生たちは今日その目で目撃した異様な光景、聞いたこともない未知の呪文の数々について、聞きたいことが山ほどあるはずだった。だが二人は問い詰めることをせず、ただ静かに俺からの言葉を待ってくれている。
……だが、激しい戦闘に次ぐ大量の吐血、大規模な血冥魔法を使用した代償により、俺の身体はとうに限界を超えていた。
「——ルクシオ先生、ゼノ先生。お二人にお話しなければならないことがあります。」
重い頭をどうにか持ち上げ、俺は二人を見据えた。
「……ですが、本日はジキルのことも含め、あまりにも多くのことがありすぎました。ですから、すべての説明は明日にさせていただいてもよろしいでしょうか。先生方もお疲れでしょう、一度部屋へ戻って休まれてください。」
俺の疲弊しきった懇願に、わずかな沈黙が流れる。やがて、ルクシオ先生が静かに眼鏡の奥の瞳を和らげて答えた。
「……ええ、そうですね。何よりノア様のお身体が心配です。本日はお言葉に甘え、休ませていただくことにいたしましょう。お話は後日、落ち着いたときに。……念のため、こちらにも侍医をお呼びいたしますか?」
「……いえ、必要ありません。」
俺の身体の異常は、魔物による外傷ではない。体内の状態を診てもらうこと自体は可能だが、人間の医師には到底説明のつかない事象が発覚したとき、それを言い繕う方がよほど面倒だ。そう思い、俺は視線を落としながら断った。
ルクシオ先生はその俺の様子を目にはしたものの、何かを察したような面持ちで、それ以上は踏み込まず、「かしこまりました」とだけ言って深く一礼した。
すると今度は、ゼノ先生が俺の座っているソファーの前まで歩み寄り、その場に跪いた。白銀の甲冑を軋ませ、右手をそっと己の胸へと当てる。
「……ノア様。たとえ何があろうとも、私の忠誠が揺らぐことはありません。」
先生は唇を開き、確固たる響きを持った声で話す。
「ノア様が深い苦しみに耐えられているのなら、私も共にその痛みに耐えましょう。貴方に寄り添い、あらゆるものから守る『盾』となることこそが、私の願いです。故に、どうか一人で抱え込まないでください。明日、貴方がどのような真実を口にされようと、私は変わらずお側におります。」
ゼノ先生が顔を上げ、俺の瞳を真っ直ぐに見つめながら、どこまでも優しい微笑みを浮かべた。その迷いのない眼差しに、俺の胸の奥が温かくなる。
「……本日はお身体を第一に、どうか安らかにお休みください。後日、またお呼びになられましたら、いつでも馳せ参じます。……ルクシオ、行くぞ。」
ゼノ先生は流麗な動作で立ち上がると、ルクシオ先生と視線を交わした。二人は最後にもう一度俺へ深く一礼し、部屋を退出していった。
パタン、と重厚な扉が閉まるのを見届け、俺はソファーの背もたれに深く寄りかかった。深呼吸をし、部屋に残ったシヴァへ言葉をかける。
「……ディアが来る前に、湯浴みをしたい。服に血がついているのを見たら、心配するだろうから。」
「お手伝いいたします。」
「ああ。頼む。」
まだ全身の筋肉がまともに機能しておらず、俺はシヴァの肩を借りて浴室へと移動した。
浴室の白い大理石の床を踏み、戦闘服を脱ぐのをシヴァに手伝ってもらう。俺と彼女とでは頭一つ分ほど身長が違うため、服のボタンを外すシヴァが俺の胸元に視線を落としていると、その表情が前髪に隠れて見えなくなる。
シヴァの背丈は決して低くはない。だが、体格が良い方でもなかった。どちらかと言えば、女性のなかでも華奢な部類に入る。こんな細い身体で、あの上空を埋め尽くす異形の群れに怯むことなく立ち向かっていったのだと思うと、急激に心配が込み上げてきた。
「シヴァ、お前はどこか怪我をしていないのか?」
着用している特注の燕尾服に大きな裂け目などは見当たらないが、服の下に深い傷が隠れていないか確かめたくて、俺は少し身を屈めた。顔、肩、身体、そして脚へと視線を這わせていく。
すると、俺の動きを遮るように、シヴァの白手袋に包まれた片手が、そっと俺の頬に添えられた。
「……動かないでください。脱がせづらいです。……傷なら、軽微なもの以外は負っていません。」
「あ、ああ。すまない。」
至近距離からその端正な顔で見据えられ、俺はそれ以上動くのを諦めて大人しく従った。本人の言葉通り、衣服の隙間から覗く肌に大きな怪我はなさそうだった。
湯気を立てる浴槽に身体を沈め、全身から限界まで力を抜く。血の臭いが湯に溶けていく間、シヴァは甲斐甲斐しく、かつ手際よく汚れた服を片付け、上がった後の新しい着替えを用意してくれていた。
どっと波のように押し寄せる疲労を無理やり振り切るように、一度頭まで浴槽の中に潜る。しばらくしてザバァ、と顔を上げた。水を含んだ長めの前髪を無造作にかき上げ、目を開く。すると、シヴァが斜め前の、浴槽の縁に腰をかけてじっと俺を見つめていた。
「……どうした。身体でも冷えたか?」
普段の彼女なら絶対にしない珍しい行動に、俺は首を傾げた。
「……なぜ……ですか。」
微かにシヴァの唇が動いた。だが、その声はか細く聞き取れない。
「もう一度、言ってくれないか?」
俯き始めた彼女の顔からは表情が読み取れなかった。俺は濡れた手を伸ばし、シヴァの白い顎先にそっと触れて、優しくその視線をこちらへと持ち上げる。
——合わせられた彼女の瞳から、涙が一筋、流れ落ちた。
「なぜ、あんな危険なことをなさったのですか……っ!」
唇の動きに合わせるように、その声が、言葉のすべてが激しく震えている。
「もし、あの瞬間に治癒士の到着が間に合わなければ、貴方は死んでいた……。私の、目の前で……。私を、置き去りにして……っ。」
哀切極まるその声は、後半になるにつれて弱々しく掠れていく。
「お願いですから、他人のためにご自身の命を投げ捨てないでください。私はもう二度と……死にゆく貴方の姿など、見たくはない……っ!」
「……他人じゃない。守るべき大切な人達だったんだ。その中にはシヴァもいる。その為になら俺はまた同じことをするだろう。」
「……なら! なぜ一人でやろうとするのですか!」
シヴァは咽び泣きながら、俺の肩に縋り付くようにして激しく訴えかけてきた。
「私たちがいたではないですか! ゼノも、ルクシオも、私も……! 貴方を守るためなら、私などいくら犠牲になっても構いません! だから……だから、どうか……っ!」
向けられた震える指先、強張る腕、細い肩。
——全身から溢れ出るその感情のすべてが、彼女がどれほどの恐怖と絶望の中にいたかを、俺の胸へ痛いほどに伝えてきた。
堪らずシヴァを抱き寄せ、浴槽の中に沈める。
「なっ……!? だめです、ノア様! 私は服を着たままで……、汚れてしまいます!」
「いいから、このままで。……俺が悪かった。今度は俺を助けてくれる人の手を取るように気をつけるよ。だから、もう泣くな。」
驚いて暴れようとする彼女の頭を己の肩口に寄せ、宥めるように優しく、ポンポンと手のひらで撫でた。衣服が湯を吸って重くなり、彼女の体温がダイレクトに俺の肌へと伝わってくる。
「……どうせ濡れてしまったんだ、少し暖まっていけ。そのまま出たら風邪を引くだろう。お前が嫌でなければ、の話だが。」
「……嫌、なわけないです。」
「ははっ。珍しく素直だなぁ。」
胸元で小さく呟いたシヴァの、いつもの彼女からは想像もつかない一面が、酷く愛らしく思えた。普段の彼女は凛々しくて、落ち着いていて、隙がない。だからこそ、今見せてくれた脆さが余計に意外だった。
「……ノア様。」
シヴァが俺の肩から顔を離し見つめてきた。かと思えば、彼女は濡れて肌に張り付いたシャツのボタンを、一つ、二つと躊躇なく開け始める。
「なっ……!なんで服を脱いでいるんだ!?」
あまりに突然の行動に、さすがの俺も動揺して声を裏返らせた。
「脱いでるのではありません。」
シヴァは静かに、けれど有無を言わせぬ調子で言い放つと、いつものように、白く美しい首筋を俺の目の前へと差し出してきた。
「先ほどの血だけでは、到底足りていないはずです。ですから……どうぞ、お召し上がりください。」
露わになった艶やかな首筋に、俺の視線は強烈に吸い寄せられた。だが、シヴァだって軽微とはいえ戦闘で傷を負い、体力を激しく消耗しているのだ。そんな相手に牙を突き立てるのは、あまりにも気が引けた。
しかも、普段の吸血のときよりも余分に外されたボタンの隙間から覗く肌は、濡れた布地と相まって酷く煽情的で、目のやり場に困る。
「いや、今は……いい。」
俺は顔を横に背け、この空気から逃れるように浴槽から立ち上がろうとした。しかし、それをシヴァの細い手が強い力で阻む。結局、俺は抗いきれずに再び浴槽へと腰を落とすことになった。
「お願いします。私は、貴方が心配なのです……っ!」
彼女は俺の首の後ろに両腕を回し、折れんばかりの力で強く抱きしめてきた。自然と、俺の唇のすぐ目の前にシヴァの白い首筋が押し当てられる。逃げ場のないゼロ距離のなかで、シヴァの切ない声が耳元に吹き付けられた。
「……牙でも、何でもいい。ノア様が私に触れてくださる理由が、そこに、血にあるというのなら……。」
……なんとなく、分かってしまった。そのきつく回された腕の強さから、震える切ない声から、その唇から必死に紡がれる言葉の響きから。隠しようのない熱情が。
しかし、シヴァを受け入れることはできない。受け入れてはいけない。だからせめて——彼女の忠誠に対する恩返しとして、せめてもの救いとして。俺は覚悟を決め、彼女の柔らかな首筋に深く牙を突き立てた。
「っ……、っう……。」
鋭い痛みに、シヴァの口から短い悲鳴のような艶っぽい声が漏れる。俺は彼女の身体を抱きしめ返しながら、溢れ出てくる熱い血を啜り、傷口を舐めとった。それでもなお、溢れこぼれた真紅の雫がぽたりと浴槽の湯の中へと落ち、紅く滲んで、すぐに薄くなって消えていく。それはまるで、二人の歪な関係そのもののようだった。
ほんの僅かな間だけ、俺たちは互いを強く抱きしめ合いながら、静かに血を分かち合った。
「……もうこれ以上はよそう、シヴァの身体に負担がかかりすぎる。」
俺は唇を離し、『贄刻』で彼女の首の傷を綺麗に塞いだ。そのまま今度こそ浴槽から立ち上がり、傍らのバスローブを羽織って、湯に浸かったままのシヴァへ声をかける。
「シヴァはそのまま服を脱いで、もう少し中できちんと温まっているといい。誰もこの浴室に入らぬよう、外の者に厳命しておくから。」
「……ありがとうございます。着替えのお手伝いができず申し訳ありません。」
「気にするな。シヴァのおかげで、身体はだいぶ回復した。もし体調が悪くなったら、遠慮せずに侍医を呼ぶんだぞ。……また、明日な。」
俺は最後にもう一度だけ、彼女の濡れた頭をポンポンと優しく撫でてから、浴室の扉を開けて後にした。
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆やリアクションで応援お願いします!執筆の支えになります!




